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海上山妙福寺
1680年頃に日奉大明神29代平山図書満篤(1674-1744)は少年期に後西院上皇に仕え「久甫」という名を頂き、1700年頃から京都西堀川通りの宝鏡寺と古義堂の間に居を構えて対朝廷活動を活発化し、家督移譲(1710)後に「久甫」名を常用した。
平山久甫
中御門天皇在位(1709-1735)
◎平山図書満篤、京都堀川屋敷で宝鏡寺を通じ朝廷側との関係を深める。
★1631年:幕府「新寺建立禁止令」。
1705年:平山図書満篤は沢村暁典寺を入野村に引寺し、銚子飯沼屋敷にて海上山妙福寺の建立を開始した。
当家の史料には暁典寺は江原与右衛門知行所香取郡澤村にあって小湊誕生寺の末寺であると書かれているが、香取市教育委員会から頂いた資料によると澤村に暁典寺は存在しなかった可能性が高い。その推定が正しいとすると、創建ということになり、秋田村から万力村・米込村・入野村と続く干拓砂地の耕地化入植区域の東端において椿新田入植者の生活相談・教育・医療・通信等が目的であったのだろう。しかし、当家は九十九里浜の干鰯に関わっていて飯岡平松浜屋敷・銚子飯沼屋敷―浦賀ー摂津・播磨屋敷の海運ルートがあり、その流れに乗せた当家ー暁典寺ー平松浜ー飯沼屋敷の妙福寺建設ルートが強化されたのであろう。旭市教育委員会からの情報では、入野村の暁典寺は後世火災により旭市新町に移転したということである。現在の境内に享保3年(1718)の石仏が残っている。この干鰯海運は瀬戸内海沿岸に油菜の花を一面に咲かせて、後に高田屋嘉兵衛(1769−1827)等を輩出する訳だが、妙福寺建立資金の大半はこの干鰯海運の資金と日奉族が管理していた山林の木材によっていたのではないかと思っている。
銚子古絵図[寺院は未完成]
海運図
1714年12月:山崎村名主半三郎・組頭三十郎・勘十郎が正中山妙法花寺へ妙福寺を差し上げ・多古藩役人へ銚子荒野村への引寺願、山崎村妙福寺住職が多古藩役人へ銚子への引寺願・房州上総廻船の宗旨手形の不便なために荒野村に引寺願、荒野村法華宗百姓太郎左衛門他7名が寺社奉行所に引寺願、山崎村妙福寺は寺社奉行所に起立180年の同寺を銚子へ引寺願
妙福寺建設秘録を見ると余りにも整い過ぎた手順が読み取れる。恐らく全ての文書が当家において作成されたのであろうが、書類上の引寺の熱望者は入山崎と銚子の百姓でそれを僧侶が補助する形式が踏まれている。当事者の平山久甫の名はほとんど出て来ない。その理由は源平合戦であれほどの働きをしたにも関わらず平賀氏・北条氏・足利氏・大石氏に領地を奪われながら長期にわたって奥多摩に引き籠って日奉精神の維持に努めた日奉族としての経験や、不受不施派のラジカルな行動の中で日奉精神の中庸を維持した経験から、可能な限り表面に出ない対策が取られていたためである。引寺したとされる入山崎の妙福寺は架空の寺だと思う。入山崎には妙法山金蓮寺が現存するがその寺歴から引寺には関係はなさそうである。また、村の規模から二寺が並存していたとは考え難い。史料から海上山妙福寺という名は早々に決まっていたことが判る。久甫が幼くして京都で後西院上皇に仕えた目的が、日本の最東端銚子に法華経の宝殿を日奉族として建設することであることが一族として決まっていたようだ。妙福寺の寺名は慧雲院日円の縁の妙見山妙福寺から取り、妙見宮を併設することにしていたと思う。海上山は海上族=日奉族を示している。
妙福寺建設秘録
1715年3月:中山法華経寺が引寺願を寺社御奉行所に提出
〃 12月7日:平山図書満篤、入山崎村妙福寺引寺事業の推進を妙福寺(銚子飯沼屋敷)に指示
1716年:海上山初世紫雲日逢が聖徳太子御作妙見大菩薩像[京都で作成した像]の縁起を記す
1725年8月:京都寶鏡寺徳巌法親王筆「妙見大菩薩」
1731年11月:御奉行所へ聖徳太子御作妙見大菩薩像の由来書を提出
海上山妙福寺
1735年:海上山妙福寺は妙見宮完成を平山忠兵衛に報告
★秘録の一つを名文ではないが読んで見る。…中興妙福寺求造立助縁叙
下総国海上郡銚子は矢指が浦に続き東海の奇観なり。大洋前に渺漫(ビョウマン=果てしなく広がる)として漁船の便よろしく、利根川後(シリエ)に流れて旅商交易の利あるゆえに、市店漁家千戸ばかりにして繁花おさおさ彼の長崎の津にも下(オト)るべからず、しかはあれども吾祖妙法の精舎一宇もその基を開かず。漁人商旅の中路に宗門の寺のこれありと雖(イエド)も、心ならず二乗の法水に息つきして深く一乗の精舎なきことを愁え、予この地に宗風の振るわざることを愁い思うことここに年幸ありて、松平勝識公御領内同国山崎村に妙福寺というなる梵刹(ボンセツ=仏寺)あり、この地に移さまほしき志を励して願望を起こし、是を官庁に訴えけるに遂に許さるを蒙りける。大守[日奉大明神29代平山久甫]は下民のその志を遂ぐといえどもその力の足らざるを愍れみたまい、絶塵奇異の地を道場に附興したまう、誠に上の仁心の深きにあらずんばいかでか恩澤の下民をうるおすことのかくのごとく速やかならん。政(マツリゴト)今未曾有の法を起こし、居民旅商その終りを全うすること、これ併しながら大守公の賜物なり、一宗の者はいうには見聞き及ぶ同志の者誰かこれを喜ばず。誠と雖も堂閣庫蔵ことごとく備わり、匹如(スルスミ=無一文)の野僧なれば偏に十方の諸檀越に告げてこれを成ぜんことを願う。貴賎を擇(エラ)ばず多寡を論ぜず等しく善縁を結んで一仏乗に賜らんかをこの山僧の志なり。これ山僧の志なり。 妙福寺
1736年9月:平山久甫、海上山妙福寺に寄付した万歳村・夏目村・清滝村の椿新田の田地約3町歩の管理を各名主に指示
1744年:平山図書久甫の死
1752年9月7日:海上山妙福寺の敷地測量図
1773年7月:徳巌親王筆「経王宝殿」(天台智の法華思想)の本堂の額が完成、「海上山」(海上/日奉思想)額作成★
◎海上山妙福寺本堂経王宝殿額字 寶鏡寺宮徳巌法親王御真筆 安永二癸已歳(1773)七月 本願主平山図書満吉 世財喜捨主平山忠兵衛満伴 彫刻並塗師 岡村浅右衛門好行 同苗平七好正 八尺六寸×三尺七寸八分
中山56世貫首日等筆
1806年月:海上山妙福寺は平山伊右衛門から四拾両を借用[後に寄贈]
1857年6月22日:妙見宮葵御紋使用を飯沼御役所に説明
1859年2月:平山忠兵衛、海上山妙福寺に万力村一番割一町五反歩、翌々年五反歩の総計2町歩を寄付