九州への東回りと西回りで分析知の侵入:迷路に囚われた人類

人類は今のウクライナの周辺で、文明の素となるもの[分析知]を獲得した。その後、無数の優秀な人達[分析知の中で]が、この文明の素についてお互いに洗脳仕合って、難解で崇高に見える現代文明を築き上げている。この文明の素は、約5500年前に当時は肉食用であった馬に騎乗する技術がカスピ海の北で開発され、それまでに南方で開発されていた車両の技術と融合して、今日の航空機・自動車・船舶等の元となる高速移動技術を獲得した。

この騎乗技術は、遠くの集落に行き略奪を行うために利用されて、近隣の集落よりは3倍ほど裕福な集落が誕生し、その力で周囲の集落を服従させた。ついには、現代に通じる兵力強化の競争が始まった。これが戦争を生み、国を生み、皇帝等を生んだ。文明の三機能である知力・兵力・資力が重要視されて、約2800年前頃には略奪行為を正当化するための三種の神器が、略奪集団のシンボルとしてスキタイで作り出された。この略奪集団の分析知は、東ルートと西ルートと南ルートに拡散した。

東ルートではスキタイ・大月氏・匈奴・東胡・鮮卑・高句麗等を経由して、北九州に伝来した。それに加えて、黄河の北方を東へと移動した上記の勢力が、中国の中原に侵入し、夏・殷・周・秦…清帝国を輩出して独自の文明を作り出して、北九州に伝来した。

★孫江は、ラクーペリの「中国文明西方起源説」では、BC2282年にバビロンのカルデア王ナクフンテー[黄帝]がバク族[百姓]を率いて、崑崙山を越えて黄河上流に着き、四方を制圧し中国文明を打ち立てたと書かれているという。時代考証が少々杜撰のようだが、分析知の伝来を伝えている。

★小林恵子は、聖徳太子は東突厥大可汗タルドウ[父:エフタル人、母:鮮卑族]が渡来した人だという。氏によると、仁徳[パルティア人]・継体[エフタル人・新羅王]・秦氏[ユダヤ教突厥人:弓月君]・応仁[符洛人・百済王]・欽明[エフタル人・百済王]・敏達[百済王]・宣化[新羅王]・孝徳[高句麗王で百済王]・天智[翹岐・百済王]・物部[突厥]・法隆寺の絨毯に安息式射法図[スキタイ]・斑鳩の名はササン朝ペルシャの鳥等々で、万世一系の思想もペルシャから来たと古代史を一変させる。

 このような説が沢山出ている。そのまま信じる訳には行かないが、古事記・日本書紀で学ぶよりは、古代人が生き生きとして来る。現代でも国家というものはお互いをフェイクだとすることによって成立させている。この人類の悲哀を抜け出すには、個々が自然から学ぶ以外に方法はない。

 

西ルートでは、東欧地区で暫く培養されてからギリシャに伝わりギリシャ哲学を生み、南ルートでは、ハムラビ法典やマルドック教やヤハーウエ教を、またもう一つの南ルートではバルナ・カーストを、いずれもヒエラルキー構造思想を顕著に示している。ローマでヤハーウエ教とギリシャ哲学と合体して、現代人類の多くに影響を与えている西欧キリスト文明を生んだ。この西回りの分析知は、航海技術の発達と共に、日本列島に到来した。弥生時代より東回りの分析知が影響を与え、分析知を受け入れ易いDNAを持つ九州島に普及していたが、当時は思想面ではバランスの取れた武家社会であったために、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康は、西欧キリスト教文明の危険性[略奪]を察知して、巧妙に距離を取る政策が取られていた。

     A.黒船来航1853:星条旗=キリスト教化の意志 

B.ミズリー号上調印1945:黒船と同じ星条旗=キリスト教化の意志

C.薩英戦争1863):英戦艦の不可解な行動、キリスト教化には必要な行程

D.下関戦争1864):対戦中に留学生を送り出す、キリスト教化には必要な行程

E.孝明天皇の死(1866):キリスト教側に最適である天皇の死の時期

F.関東資本の略奪1868新政府の横暴

G.大陸浸出:日韓併合(1910)・ノモンハン事件(1939

H.原爆投下1945):広島・長崎は薩英戦争・下関戦争と歴史的に同位置

I.G5に吸収1975):キリスト教諸国連合の一国に、黒船来航の意志の完成→日本列島の滅亡へ

数百年来のキリスト教諸国の日本制圧の野望を背負った黒船の来航以来、薩英戦争・四か国戦争によって九州島周辺の分析知化され易い人々を取り込み、彼等に文明化と称して、関東の富を略奪させ、その力で朝鮮半島・中国大陸等の略奪に踊らされ太平洋戦争に敗れて、黒船以来の日本のキリスト教化は完成した。キリストの再来と自称していたマッカーサー元帥に、日本人に気付かせないようにキリスト教化するのが治世の要諦だと言わせている。

確かに日本列島は歴史始まって以来初めて地方が疲弊して、日本国衰退の兆しが出て来た。昔の田舎の社会には、今は全く聞くことがない清貧や倹約という言葉が満ち満ちていた。人々は心の中で、社会学上のエントロピーの法則を理解し実行していた。集落は、家々の掃き清められた裏庭に差し込む夕日の中での子供達の叫び声で、はち切れるように輝いていた。何としても、藤原不比等・徳川家康のような指導者が出て貰わないと、日本列島に生きる人々の願いが満たされないことになる。

最初に分析知を獲得した人々がなぜ略奪に走って、全人類を誤った方向に導き、6千万年前の恐竜の滅亡と同じ道を辿らせて仕舞ったのかということである。それは有色人種であった遊牧民の中で、北へ追いやられた人々[いじめ?]が、黒海・カスピ海の北岸で農業を強いられて、白人化しなければならなかった。いわゆるルサンチマン的経験をDNAに持つ人々が、騎馬の技術に出会い急に北に放逐された怨念を晴らす機会に恵まれたからだ。

さて、2022年の現在、戦争というものが誕生した地:黒海・カスピ海の北岸地帯で、ウクライナとロシアが五千年の歴史を掛けて戦い続けている。両国とも西ルートと南ルートを伝達した分析知が生んだキリスト教国である。

太平洋戦争の終末期に、ニミッツ将軍の九十九里浜上陸に備えて、丘陵の裏陰に砲台の基礎造りをしている陸軍部隊の班長さんに、どうしてこのような藪の中に砲台を作るのかを問うと、目の前の家を越して向こうには、上陸した敵戦車部隊が奥地東京に向かう道があり、戦車は後方が弱く、農家は砲弾で簡単に突き抜くことが出来ると言われた。一通りは立派な説明だが、ワシントンと東京との戦いの構図を思うと、余りにも幼稚過ぎて6歳の子供にも、人間というものの悲しさが湧いて来た。彼等は信州松本の農家の人々で作業が終わると、研ぎ澄まされたスコップを銃剣のように担いで、縦列を組み「ラバウル小唄」のラバウルを松本に代えて声高に歌いながら宿営地に帰って行った。高台から眺めているとスコップの先端がキラキラキラキラと夕日に輝いていた。自然の中の存在として、これらの人々の活動は美しい流れを持っているように思えた。ただ国家の指導階級から「鬼畜米英」「皇国の興廃」と叫ばれ、スコップを銃に代えられると、今日のロシア兵と同様の残虐な行動取らざるを得ない人間の社会の未成熟さを痛感し、遠くの青空や緑の木々は人間にそのような事をしろと語り掛けていないと思った。

ウクライナとの戦いに完勝したとしても、プーチンは宇宙の中で一度しかない自己の尊い命を全うしたと言えますか。税金を使って生きている国家の指導者の中に、理想統治システムを提示した人がいるのだろうか、悲しいことだ。このままだと、6000万年前まで地球を支配していた恐竜が、サステナビリティを失って消滅したのと同様に[シベリヤからウカタン半島への隕石衝突前に、滅亡は始まっていた]、人類は宇宙の存在としての理想を実現出来ずに消え去らなければならないのだ。

この隘路に陥った人類の未来を救うシステムは、世界中で急速に進む分析知の暴走の中で、間に合うか否かは別として、日本列島の石器時代からの精神史にそのヒントが内包されている。恐竜の時代の後の地球の支配者として人類を登場させた宇宙の意思は、複雑な共鳴構造を無数に持つ有機体で構成される脳を発達させることにあった。その脳が共鳴を取ろうとする対象の宇宙は、阿頼耶識やブラックエネルギ−・ブラックマターといわれるごとく、三次元や四次元の認識機構[脳]では感知することが不可能なものだ。このことをホーキングは最期の言葉で語っているし、大パリニッバーナ経では釈迦の最期の旅そのものが、そして最期の言葉「存在は必滅、日々の修行[人の道]」は、真理への近接の努力が人間の存在の意義になるということから感知の難しさが解る。

日本列島特に関東平野では、約3.8万年前の旧石器時代から環状ブロックを形成して人々が生活していた。これらの人々は現代の私達では想像も出来ない圧倒的な自然の中で生活し、ブラックエネルギー・ブラックマターを含む全宇宙から語り掛けを彼等の心で受け取り、短い寿命の中でその`こころを後代の人に受け渡すために、環状が形成された。次の時代には、旧石器時代の人々の思いが、縄文環状集落へと進展して、自然界の置ける人類存在の理想形としての総合知が誕生した。

しかし、弥生時代になると、稲作や大陸分析知が日本列島の日本海沿岸に怒涛の如く到来し、前方後円墳の登場する4世紀頃からは、北九州が大陸分析知の主な受け入れ口となった。ウクライナから東伝した分析知支配には大きく分けて二種類があり、鮮卑や高句麗から北九州に渡来した強い略奪性を残した本来の分析知支配と、姜や匈奴や東胡が中国に侵入し王朝を成立させて中国民衆の新モンゴロイドの思想を取り込んで、楽浪郡・朝鮮月氏国・新羅を経由して日本海沿岸に到来したやや略奪性を弱めた分析知支配がある。

例えば、古墳を例にとると、略奪性の強く持った遊牧社会では、墳墓は円形で丘の陰に隠されるのが一般的で、匈奴・高句麗・百済にそれが見られ、前方後円墳の斎場である前方部を除けば円墳で、日本の支配者層の出身が遊牧民かその影響を受けた人々であることを示し、目立つように設置されているのは支配の安定を示している。しかし、この前方後円墳の少し前に、東北から九州までの日本海岸にそして内陸にも前方後方墳があり、同様に前方部を除けば方墳です。それより少し前には、出雲から福井や越後には四隅突出墳があり、斎場の導入部である四隅突出部を除けば方墳で、これらの方墳は前方後円墳が大和に出現する少し前に各地に登場していることから、楽浪郡等の中華文明[優しい分析知]の影響が、最初に日本海側から列島内陸に浸透していたことを示す。

現代人類が思考の基礎としている分析知は、カスピ海と黒海の南の地域で遊牧をしていた人達の一分派が、北部の穀倉地帯に追放され、厳しい気候の下で白人化し厳しい生活を送っていた。追放という怨念[ルサンチマンというか]DNAに潜めた人々が、約5500年前にワゴンと騎馬の技術を獲得して逆境を乗り越えたために略奪を繰り返して、人類文明を誕生させた。現在、地球上の誰もがその文明の恩恵の下に存在している。しかし、この社会の思想は、人工的に作られた価値観であるために、例えばスキタイの三機能[三種の神器の原型]を見れば分かる通り、目的遂行には有効だが目的以外には何の価値も持たないものである。この三機能の分野に競争を取り込むことによって、日々の生活に緊張を作り出し、虚構された日常の中に心の安定を求めざるを得ない社会を作り出している。これだけ文明が進歩したという世界の中で、各国の指導層の中で誰一人として、宇宙とは何か、人間とは何か、生きるとは何かを説く人がいない。資本主義も共産主義も、この分析知の範疇に属している。地球環境が悪化する前に、個々の人間が宇宙の存在としての理想を心に留めて、一生を終える社会に到達することは出来そうにもない。それを求めて社会を完成しようとしたのが、黒船が来航する前までの日本の歴史であった。その歴史は、日本列島の人々が約3.8万年かけて築いて来た総合知と、主に北九州に伝来した分析知との中庸を取る統治思想で、この二つの思想のバランスを取ることに成功したのが、藤原鎌足・不比等親子であった。そこを見極めていたのが、長い人質生活を生き抜いた徳川家康であった。

分析知とは学校教育で教える全てであり、社会や宗教で知ることの出来るものだからここでは省略する。総合知は、人間が認識出来ないものも含めての全宇宙からの情報が創出する`こころの積み重ねである。大パリニッツバーナー経によると、釈迦は理想郷を母と過ごしたルンビニとして最期の旅を続け、ルンビニの近くのクシナガラで入滅する。ルンビニとクシナガラの距離空間が重要な意味を持っている。以前、華厳経のインドラの網[下図]を私なりに理解して作成した。釈迦にとってのルンビニは、人々が皆平等に持っている宝珠だと思われる。釈迦はルンビニまでの距離を残すことによって、人間が生きるとは何かを示した。二点間の存在する物質[窒素・酸素・水滴等]や電磁波[光等]は何処にでも存在するものだが、それらを全て取り除いたとしても、ホーキングがエネルギ−の誕生時に生まれたという空間が残り、その中に在りし日の母と釈迦との思い出が時めている。このことは、3.8万年前の北総の環状ブロックや約7千年前の縄文環状集落や約5千年前のヨーロッパや大湯[秋田県]のストーンサークルでも、自己と対象の二極間の空間の創発力が人間の存在意義であることを示している。この空間の創発力が、社会では総合知として現れる。日奉精神では、大陸より押し寄せる分析知に二極構造を取ることによって、総合知の純粋性を保って来た。

  

時代を飛ばさなければならないが、中臣鎌子はこの関東の総合知を日奉精神とし、敏達大王と共に日本の精神基盤を構成しようと考えたが、朝廷を支配していた大陸分析知の雄:蘇我氏によって消滅させられた。中臣鎌子の意思を継いだ中臣鎌子[二世、後の鎌足]は、総合知の実現のためには分析知を徹底的に学ばなければと考え、長男を分析知の中心長安に送り込んで情報収集し、次男藤原不比等・天武天皇によって、分析知[ウクライナ発祥の三種の神器・中東のヒエラルキー構造の象徴菊華紋:大衆を国家に集約する機能]寄りのアマテラス神道を作成させた。その後も藤原氏には秘められた総合知の重要性を認識した人が出て、天皇を伊勢神宮に近づけないようにした。

遣唐使や最澄・空海等が大陸分析知を導入したために、日本列島の分析知化が益々進み、南関東の人々はどちらかと言えば総合知に近い真言宗を導入して対応していた。房総半島独立運動と言われる平将門・平忠常の乱も指導者は分析知に属する貴種だが、その底流には民衆の総合知への憧憬がある。同時に当時の最高の指導層藤原氏内にも、主流派で総合知を継承する宗頼・隆家グループに対して、叔父で分析知寄りの道兼・道長グループによって追い落としを仕組まれ、日奉宗頼は武蔵国へ藤原隆家は太宰府に流された。この隆家は現地の一大勢力大蔵氏と協力して、大陸分析知の女直族の侵入[刀伊の入寇]を撃退した。時を飛ばすが、後北条・豊臣秀吉と高度な分析知が関東平野に侵入してきたために、日奉族は相州の山中で仙人になったとして秀吉の招聘を断り、総合知の理解が深い徳川家康と江戸城入場以前に連携を取り、多古町島の拠点を鏑木に移し、その地を天領にし、刀伊の入寇で関係を持った原田氏を領主として、今の言葉で言えば理想的地方自治・哲学的に言えば老子の「小国寡民」的地域経営を可能にし、徳川幕政という分析知の中に総合知を秘蔵することとなった。しかし、黒船が渡来して、西回りの分析知[西欧文明]に制圧された明治維新以後は、この日本特有の分析知・総合知の共役二重構造を理解する人々は消え去り、盲目的に西欧分析知を追いかけているために、社会学的エントロピーの法則が働き、地方から徐々に国家の滅亡が始まっている。

小説や文科系の知識を持たないが、西欧化が進んだ明治時代からの著名な作家[夏目漱石〜三島由紀夫]は皆精神病に罹っている。総合知的DNAを持つ日本人が、分析知的表現[ギリシャ哲学等]に陶酔したための精神的乖離ではないか。この問題を解決したのは山田耕筰である。彼はキリスト教一家に生まれ、父の死で少年時代に印刷工場で働き大人達同僚の苛めに合って、カラタチの生け垣に入って泣いていた。それを見ていた近所の農家の小母さんが、白菜を好きなだけ食べて良いと言ってくれた。秋には、からたちの実を絞って白菜にかけて食べると美味しかったという。その後、東京芸大・ドイツ・ロシアで音楽を学んで、日本の心の柔らかさを知ってキリスト教[分析知]を脱会し、北原白秋と練り上げた詩が「からたちの花」で、少年時代に垣根に隠れて泣いた経験を「からたちのそばで泣いたよ。みんなみんなやさしかったよ」と表現することによって、風土の美しさ・人間として生きるということの愛おしさを教えている。このような生活を社会全体で積み重ねることを総合知の働きという。