寂光山本因寺[山口県防府市上右田604]開基の精神

私の先祖である日舜上人が本因寺をなぜ防府に開いたかを知りたく、周辺の風土を知るために、防府市史等を調べたが手掛かりとなる資料は無かった。また、本因寺にも問い合わせたが回答はなかった。しかし、源平合戦の際には、範頼軍が防府の辺で滞留しているし、義経軍[平山日奉季重もこの中にいる]もこの地から支援を受けているから、関東の総合知を受け入れる素地はこの頃からすでに出来ていたと思われる。更に範頼軍の千葉氏は源平合戦の恩賞で佐賀県小城に移り住み日蓮宗の寺院を建立しているから、多くの関東の僧[平山日奉季信等]がこの地を行き来し、また太宰府の南の原田荘は千葉氏と関係の深い平山日奉季重が守護地頭制の成立期に地頭の地位を得ているので多くの日奉族が、この地を頻繁に行き来していた。これらのことから、徳川時代には江戸より遠いこの地が不受不施義を発展させるのに適していたのだろう。

 日蓮の思想は、約3.8万年前から房総半島に伏流している総合知に基礎を置いている。この総合知は、古代の人々が日々の生活を通しての喜びや悲しみを、父母から学び、野山との四季の生活で実体験し、子孫に伝えることを、無数に繰り返すことによって獲得した風土の活力である。藤原氏の成立は日蓮より約700年も古いが、同じ総合知に思想の基礎を置いている。

私達の宇宙は、膨大な時間を掛けて有機体を生み、それぞれの有機体の複雑な構造の間で微妙な共鳴を繰り返すことによって、新しい価値を創発して来た。有機体の静的表象物として植物が、動的表象物として動物がある。動物の中で極度に知力・体力に勝った者が恐竜として6000万年前頃までの地球の支配者であった。しかし、この状態では、宇宙の意思が作り出した有機体への使命[宇宙とは何かを体得する]に答えられず、地球上でのサステナビリティの確保が難しく、恐竜の存在意義が無くなっていた。丁度、その時にシベリヤからユカタン半島に懸けて巨大な隕石群が落下して、地球凍結が起こって有機体の入れ替えが行われた。

その後、長い時間を掛けて有機体の取捨選択が行われ、アフリカで脳の発達した人類が登場した。この人類が移動という動物の機能を最大限に発揮して、出アフリカを何度か繰り返すことになった。しかし、到達した地点に乾燥地帯が多く、他の動物を主たる食料として利用する知力・体力[恐竜と同じ価値]を鍛える必要に迫られた男系の遊牧生活[分析知]か、更なる東方への移動を続けて豊穣の地での女系の狩猟採取生活[総合知]を求めるかを選択せざるを得なかった。

乾燥地帯に止まった遊牧民の中で競争に敗れ、北へ追いやられたグループの中[ニーチェのルサンチマンの源流]で、約5000年前に車輪と騎馬の技術が生まれ、略奪と交易[資本主義の源流]を繰り返す種族が登場し、周囲の種族と比べ23倍の富を持つようになり、言語を発達させて嘘の充満する神話や戦争が生まれて、文明や国家という虚像が人々の脳を支配する時代に入った。この思想が更に発達して、ヴァルナやカースト・ハムラビ法典やマードック神・ギリシャ哲学やローマ法が宿しているヒエラルキー構造[差別]が人々を支配するようになった。

一方、豊穣の地を目指して東進した人々は、ヴェトナム東南に展開していたスンダランドに理想の地を見つけ出し、穏やかな狩猟採取の生活を送っていた。何度か襲来した温暖期には、低湿地のために北方へ移動しなければならず、中国大陸・日本列島に移住し、寒冷期にはスンダランドに帰ることを繰り返していた。そして、約1万年前には温暖化が定着したことによって、彼等は中国大陸や日本列島に定住するようになった。日本列島ではフィリピンプレートの活動の関係で、南西部には定住し難く東北部に多く住むようになった。この人達を古モンゴロイドと呼び、宇宙の意思に適合した脳と自然と間の創発を繰り返し、それぞれの地で穏やかな風土[関東平野の総合知はその典型]を形成していた。

黒海・カスピ海の北部沿岸で誕生した文明・国家という虚像からは、スキタイ[現ウクライナ=分析の意味を持つ]で三種の神器[知力・武力・資力での競争]の思想を生み、中央アジアの砂漠を乗り越え中国大陸の古モンゴロイドの思想[総合知]に影響を与えた。それが炎帝・黄帝・蚩尤の神話で、この順で中央アジアの思想の影響を深く受けていることを示している。釈迦は、北方から押し寄せる文明・国家という虚像の危険性を感知し、それを回避し「出家」して、原始仏教[総合知]を説いた。

西方に伝搬した文明・国家の理論は、ギリシャ・ローマで更に論理化され、それがアレクサンダー大王によりヘレニズムとしてインドに伝搬され、原始仏教を大乗仏教として論理化することになった。同時に、ヘレニズム東伝の影響は、中国大陸にも現われ、秦の始皇帝・漢帝国の出現となった。

この文明・国家という虚像の東進は、中国大陸に黄帝・夏・殷・周・秦・漢という支配構造を誕生させ、日本列島にも弥生・古墳・律令と論理性社会への変化をもたらした。416年と535年のインドネシアのクラカタウ大噴火で、中国大陸の論理性が仏教・道教・千字本・儒教等々の形で日本列島に襲来した。当然のことながら、日本列島に天然痘・ハシカ等の疫病も持ち込まれた。この影響は、宇宙の意思に適合した穏やかな縄文精神を保っていた関東平野の人々にも、碓氷峠を通って関東平野北部から征服の形で侵入した。関東縄文精神の最後の抵抗が、武蔵国造の乱(534)と現在の私の敷地に居を構えていた下海上国造の日奉部へ転出(577)である。このことから、日奉部の創設は関東平野の縄文精神がもたらした出来事であることが分る。これを執り行ったのが那珂国[霞ヶ浦の北東]の中臣鎌子である。ここで中臣は、関東平野を侵略する際に、大和体制側の大陸論理性と関東平野の縄文精神の中庸を取る役職で、鎌子の鎌は朝鮮から新しい産鉄技術を持って渡来した産鉄族[分析知側]であることを示している。彼の子孫が物部氏と組んで中庸を取った統治機構を作ろうとしたが、不幸にも大陸から多数の論理性が流れ込む時代で、蘇我一族によって殺されてしまった。しかし、中臣氏の別族に、天才中臣鎌足が出て大陸の論理性を咀嚼し、子の藤原不比等と共にアマテラス神話を虚構することに成功した。しかし、中国大陸での政争・造船技術の発達で遣唐使等の多くの交流や、最澄・空海の天才が分析知側に現われて、日本列島の論理化がますます進んだ。中庸の精神は消え去る運命にあった。この状況に不安を抱いていた南関東の人々の心情を利用して、房総半島独立運動とも呼ばれる平将門・平忠常の乱等[悲しいことに首謀者は分析知側]が起こった。この後も状況は改善されずにいたため、藤原日奉宗頼は武蔵国に國司として流罪になった時に、南関東の日奉族を集結して縄文精神の復興を目指した。これによって宗頼は民衆より日奉大明神と呼ばれた。この人の7代子孫に平山季重がいる。詳細には調べていないが、この時代になって日奉族の中で純粋に日奉精神を継承していたのは、彼だけのように思う。季重の孫の時代に房総半島の精神を背負って鎌倉に現われたのが、鬼才日蓮である。

釈迦の思想は、インダス山脈の北から押し寄せた文明や国家という虚構を避け出家して、古モンゴロイドの精神に人間として生きる真理を求めたものである。釈迦と同様に日蓮も「旃陀羅の子」と称し房総半島の縄文精神を受け継いでいる。このため、日奉精神を継承し鎌倉幕府に務めていた平山季重の孫達は、房総半島からの日蓮とは容易に意思をつなぐ事が出来た。

日蓮の思想は、現代人がオックスホードだ、ハーバードだとピエロを演じているのと同様に、中国仏教の論理性を尊崇していた他派の仏教とは異なり、日本列島で父母から教えられ子孫に伝承することを、無数に繰り返すことによって創発された精神[総合知]に立脚している。そうは言っても、大乗仏教の法華経を基礎とした宗教であるために、論理性を高めざるを得ないので、段々と分析知側に傾かくことになる。日奉族は宗教組織ではないので、総合知を純粋な形で保持することが出来ていたが、宗教は文明の1分野に属するために、論理性を高めざるを得ないのである。この状況を避けるために、日蓮宗の中に佛壽院日現上人等が現われて「不受布施義」を強調するようになった。足利幕府・戦国時代・織豊時代と国家の統治力が強まる中で、社会の分析知化が進み、豊臣秀吉・徳川家康が登場する頃には日蓮精神の神髄:不受不施義を唱える人々が孤立するようになり、国主との対立も生まれた。徳川家康が関東に入国する際には、藤原鎌足・藤原不比等の総合知-分析知の中庸を取ることの国家統治の際の重要性を理解し、総合知の永続性を保証するために、当家を不受不施義の中心地:多古の島城から日奉部の発祥地:鏑木に移すと共に、日蓮宗内の調整を裏から行うようにした。家康は不受不施義の主:日奥上人にも理解を示したが、彼が宗教という論理性の枠内にあったために、ついには不受不施派を形成することなり、幕府より禁制が命じられた。これによって、総合知の宗派として全国に散在する寺院が同等の地位にあった日蓮宗から、他宗派と同様に身延山を頂点としたヒエラルキー構造[分析知の特徴]に変貌した。しかし、不受不施義は日蓮宗の神髄であるために、東総地域に縄文総合知の共役二重構造を飯高檀林―中村檀林の形で再現し、それを身延山-七面山という構造に取り入れて、関東平野の不受不施義強硬論者を説得に当たった。

《不受不施義の歴史》

6世紀:私の現住所[鏑木]に住んでいた下海上国造[縄文総合知の代表]が、那珂国[霞ヶ浦の東北]の中臣鎌子によって奈良桜井市の他田宮の日奉部へ連れ出された。他田坐天照御御魂神社は7世紀末に構成されたアマテラスの原型。

7世紀:中臣・物部の総合知と分析知の中庸を取る理想は、大陸分析知の代表である蘇我氏によって潰されたが、傍流の中臣鎌足・藤原不比等によって、分析知寄りのアマテラス神道として構成された。しかし、遣唐使・最澄・空海等によって国内の分析知はますます強化された。

10世紀:縄文総合知拠点:房総半島では民衆の反動[総合知]が起こり、それを利用した平将門・忠常の乱が起きた。藤原日奉宗頼は武蔵国に流罪となったのを機会に、南関東の総合知の再興を試みて、民衆より日奉大明神と呼ばれた。

12世紀:日奉大明神7代平山季重は源頼朝[分析知側]に協力して、総合知を僅かに反映した鎌倉幕府を創立した。

13世紀:総合知の房総半島より日蓮が鎌倉に現われ、日奉族[季重の孫]と交流。

1590:日奉大明神24代平山光義は、分析知の雄: 小田原後北条と何度か戦って敗れている。その状況を利用して、豊臣秀吉[強い分析知]は光義を取り込もうとしたが、光義は相模国の山に入って仙人になったとして秀吉の提案を拒否し、未だ関東支配が決まっていなかったが、総合知の重要性を理解する徳川家康[分析知]と裏で繋り、子の光高を不受不施義の中心となることが予想される多古島城から鏑木城に移した。この頃までは、京都では国主:豊臣秀吉と不受不施義の対立があったが、関東の日蓮宗では未だ不受不施義が一般的であった。AD1590年の東京都桧原村「日奉大明神石箱上書誓文」には、青梅城主日奉大明神24代光義は相州の山に入り仙人になったとして、豊臣秀吉からの7千石での招聘を断ったとある。その時、秀吉より贈呈された清州城の織田信長の前で持ち上げた石のレプリカがある。家康も関東に入国した時(1590)に、直接江戸城には入らず日野周辺の総合知を確認している。平山季重の創建した平山八幡神社に軍配団扇を奉納し、そこに「至道無難」の墨蹟があり、総合知の理解の深さが窺がえる。

秀吉の総合知への配慮(1590   家康の総合知への配慮(1590

17世紀:国家権力との抗争の間に、総合知の不受不施義を強く信奉する人々が分析知化して不受不施派となり、総合知の理解者であった徳川家康とも対立するようになり、江戸城での身池対論(1630)を経て日蓮宗不受不施派は禁制宗教となった。

《要約》

中臣鎌子が577年に、東総の縄文総合知と朝廷の分析知の中庸を目指し、日奉部を設置。蘇我氏により圧殺される。親類の中臣鎌足が中国分析知を学んで、総合知を僅かに含んだ統治論を完成、藤原氏始祖。藤原2代不比等はアマテラス神道・天皇制を確立。藤原14代日奉宗頼が関東総合知の復興を願い、日奉大明神始祖となる。日奉7代平山季重の孫が鎌倉で総合知の日蓮に会う。日奉13代季信が日蓮宗の寺院を下総と武蔵に創建。日奉25代光高が多古島城から鏑木城は入り帰農。日奉族が飯高―中村日蓮宗檀林という総合知二極共役構造を作る。家康は鏑木平山の総合知への配慮を示す。

《年表》3.8万年以来の日本列島のこころ[総合知]:日奉精神

577:中臣鎌子-敏達大王は日奉精神を重視

700年頃:藤原不比等はアマテラス神話を創作

1000年頃:藤原日奉宗頼が関東平野の日奉精神を復活

1185年頃:平山日奉7代季重は源頼朝の下、鎌倉幕府創設

1250年頃:日蓮[房総の総合知]が鎌倉に現われる

1330年頃:日奉13代平山季信[日蓮宗浄妙寺開基]

1590年頃:日奉24代平山光義は後北条と戦い、秀吉を避け、裏で家康と連携

光義の弟義高→長男日舜[浄妙寺9] は防府本因寺へ

→次男日充[浄妙寺12世・中村檀林9]は身池対論に敗れ、岩城平へ流罪

日充は「日天子本尊」を流適地:岩城平より鏑木に届けた(1633

1600年頃:日奉25代平山光高[鏑木城で帰農]、家康に通じた光義の指導の下、日蓮宗の問題解決に当たる。前九年・後三年の役頃から日奉族は支配と民衆の間の問題解決にあたっていたようである。

平山図書光高一隊が掲げた日奉旗の竿頭

1715年頃: 日奉29代平山久甫は世界の最東端:銚子に海上山妙福寺を創建→

《藤原52代・日奉38代・平山33世高書が作成》