国民皆保険(1961)への遠くて細い道

 江戸時代は、日本国家としての一つの完成形であった。それは人類の生存にとって必須条件である総合知と分析知の中庸を取ることの重要性を体得していた徳川家康という超天才がいたからである。彼は、日本列島において分析知グループに属する天皇親政や平家・源氏の政権は短命で成果はなく、中庸を大切にする藤原氏の関わった政権はそれなりの成果を残していることを、十数年わたる人質生活の間に学んでいた。そのために徳川幕府の成立時には、日奉族を政権内へ取り込む話はあったが、総合知の性質からして分析知に取り込まれると総合知でなくなることを理解し、幕府から距離を取ることを許し、内々に総合知の活動を保護することとなった。[総合知の原始仏教がアレキサンダー大王の東征等でヘレニズム分析知の影響を受けると大乗仏教が誕生し、ついには鎮護国家を叫ぶようになった。南関東の総合知はこれに対抗する形で日奉族を生んだ]。家康のこの思想的裕度が全国に適応されていたから、200有余年の美しい国土の鼓動が保たれたのである。現在の日本列島の荒廃した野山や心情と、江戸時代の風土を比較してほしい。

雪とけて村いっぱいの子どもかな    小林一茶1804

 しかし、キリスト教禁制1612:1614からペリー来航1853迄の鎖国政策の間、キリスト教諸外国は日本のキリスト教化の策をあらゆる機会を捉えて模索していた。関ヶ原の戦で敗れた藩、殊に中国・朝鮮の大陸分析知に影響を受けていた九州諸藩を、キリスト教化の手先とすることを彼等が考えたのは自然の流れである。アヘン事件(1840)やニュージーランドの誕生(1840)やハワイ州の成立(1894)を見れば、幕末から明治初期にキリスト教禁制を続けようと努力した人々の想いがいかに大切かが分かる。明治時代の初期にキリスト教一家に生まれた山田耕作は、ドイツ留学後にキリスト教を離脱して純粋の日本人のこころを取り戻している。耕作は幼い日に父を失い、印刷工場でアルバイトをしている時に、大人の職人仲間に苛められて、よく近くのカラタチの植え込みに逃げて泣いていた。その姿を見た農家のおばさんが、畑の白菜を好きなだけ食べて良いと言ってくれた。カラタチの実を絞って白菜を食べると美味しかったという。このおばさんのこころ・その出来事を秘めて、北原白秋と共に作り上げた『カラタチの花』では苛められたとは言わずに「みんなみんな優しかったよ」と詩っている。正に日本人の守るべき心である。

 さて、父平山忠義は大学卒業後、アインシュタインやタゴールの来日講演に強い感動を受けたようで、1922年成立の健康保険法[工員10人以上工場労働者限定]の中で農民が切り捨てられていて、後々に国民に分断が起こること[分析知への陥落]を懸念し、農村に教育会を組織することから始めた。それまでも、農村の大きな家ではある程度の医療知識は修得していて、周囲の人々への医療奉仕が行われていた。特に寺の機能の中にもそれがあった。今でも当家には薬を精密に量る幾つかの秤が倉に仕舞ってある。女中さんでさえ近所の子が栄養のバランスを欠いているのを見つけては、果物などを食べさせているのをよく見かけた。その行為の中で、双方が美しい人生のひと時を送っていた。高度医療と喧伝する現代社会では、それがない。この教育会の理想は、農村無料医療と女性地位向上が主眼であったが、明治初期にアメリカでCIAが設置され、そのコントロール下にあった日本政府が大陸侵略に向かう時代で、父の理想は田舎の若造の戯言ぐらいに思われていたのだろう。事実、八日市場保健所長になられた本田保三氏が「若い頃、お父様から英文の本[たぶんタゴール]を渡され、農村無料医療の重要性を説かれたが、実現は不可能だと思っていた」と父の葬儀に来られた際に話されていた。

私が農村医療問題を知ったのは、パール・ハーバー攻撃1941の後からである。明治維新によって関東に一坪の土地を持っていなかった関西系の人々が、東京に大邸宅を構えるようになった。このため、当家が長年連携していた関東平野の家々は総て公共事業に駆り出されて崩壊し、パール・ハーバーの頃には当家自体も崩壊に瀕していた。この時、それまでは大陸戦争の戦場から遠く離れた訓練場であった干潟飛行場が、アメリカと直接向かい合う海軍航空基地に改築されることになった。海軍省の関係者から父に協力の依頼があった。そのことは当家の崩壊か、農村の崩壊か二者択一を意味していた。父の話によると、選択に悩んで田野を歩いていると、多くの働く農民から保護してほしいという哀願があり、選択の余地はなかったという。

すぐに古城村長に推挙されて、鏑木地区湯木の土砂提供・基地の水源確保・電力供給等の多くの関係者が押し掛け、国家権力の搾取は恐ろしいものであった。釈迦が出家したのも、インドの北西からの国家という権力の侵入を避けたからである。父は日本が一度滅亡するであろうと考えていたらしく、農村無料医療の理想の実現に更に拍車をかけていた。人の世は不思議なもので、父の選択は海軍の父の理想への理解が深まりサポートも受けた。昭和181948には農村健康組合診療所を開設する事が出来た。この頃には、しばしば白い軍服で銀色に輝くサーベルを腰に下げた海軍の高官が、遠くの門外に車を止め大勢の護衛兵をその場に残して一人芝生の表庭を歩いて訪問する姿を見た。すぐに奥の間に通され、父と机を介さず一対一の正座の対話が続いた。時には、私が次の間に正座することもあった。そのような場合は、用件は数分で終わり、父は必ず「ご出身地はどちらですか、お父様やお母様は今頃何をされておりますか」と問い、出身地に合わせて万葉・古今・新古今等の歌から話を膨らませ、訪問者の郷土の風土の美しさを話していた。玄関で見送る時はいつも、着剣した凛々しい後ろ姿に無事を祈る気持ちが自然に湧いて来た。父は基地建設と診療所の二兎を追うことになり、明治維新政府という狭隘な分析知の思考の前に、当家は崩壊に向かうことになった。ここを書けば尽きせぬので止めるが、私の感得したことは、学校・会社で良い成績を収めることは私のすることではなく、巻雲や星空から人類が生きるとは何かを問い続けることだと思った。

ヘレニズムやヘブライズムの申し子の明治維新以後の日本人は、自己を否定する形でニーチェの思想を強く信奉した。その代表である夏目漱石から三島由紀夫までの日本の代表的作家が皆精神異常に罹っている。何故なのだろう、クオヴァジスが示す通りヘブライズムにはルサンチマンが含まれていて、ニーチェが「キリストの神は死んだ」と言ったのは正しいのだろうが、更に深く見ると現代思想・ヘレニズムは黒海・カスピ海で生まれ、ドイツあたりを経由してギリシャ・ローマで開花したわけだが、その誕生時にすでにルサンチマンを含んでいたから、総合知の環境に育った日本人の脳には適合しないことによる心の軋轢現象が彼等の精神異常であろう。先に書きましたが、山田耕作はドイツで西欧音楽を学び、帰途モスクワでロシア正教の音楽に惹かれますが、帰国後日本人のこころに帰り、北原白秋と組んで「カラタチのそばで泣いたよ、みんなみんな優しかったよ」の境地に達し、ルサンチマンを超克している。インドに黒海・カスピ海から直接ヴァルナ・カーストとして南下して来たこの思想の秘める野卑性を避けたのが、釈迦の出家[パリニッツバーナ経]である。

この頃、夕方に父を迎えに診療所に行くと、60w位の裸電球の下に保健婦や看護婦や居合わせた人々を相手に、和歌や小説の一節を引用して人が生きるとは何かを30分ほど話している所によく出会った。後々判ったことだが、農民の命を救うという行為の合間に、この時空を持つことが父の理想であった。

徳川時代は、家康という超天才が指導した一国一城の主[アルジ]達で幕府が構成されていたから、日奉精神に対しては深い理解があり、例えば日蓮宗不受不施派の弾圧や干潟八万石干拓事業等には当家はある距離を取り、幕府の監視する位置を補完していた。このために、現代日本のように、全国の野山が荒廃して国家が滅亡に向かうような状態は出現しなかった。徳川幕府であったならば、農民医療の理想によろめきながら歩んでいる父に、航空基地建設の負担を掛けるようなことはしなかったと思う。黒船以来のキリスト教諸国の政策に従って、先ずは薩長藩を負け犬にして日本を制圧させ、太平洋戦争で天皇を含む全国民を負け犬にしてしまった。キリストの生まれ変わりと自称したマッカーサー元帥は、日本人に気が付かれないようにキリスト教化を進めるためには、負け犬と化した支配層を将来に残すために、彼等の戦争責任を曖昧にして、国民の全体が責任を取る公職追放令1946を出し、父までもがそれに含まれて表向きの活動が出来なくなり、長年の農村医療促進事業から引退せざるを得なかった。敗戦後に朝鮮戦争で軍服等の需要が拡大し日本中が糸偏景気に沸き、国家予算も拡大して地域の中心旭町に国保病院の建設が始まり、父も今までの経験を活かして厚生省に電話で交渉したりしていたが、あまり役立つ仕事は出来なかったようだ。好戦的な関西系の人々の活躍する時の流れの中で、父の私財を費やしての公衆衛生への夢は、爪に火を点すような仕事であったので、国家の莫大な予算で短期に仕上がっていく仕事に役立つわけもなかった。

キリスト教諸国の圧倒的な軍事力・経済力・知識力[分析知]を背景とした関西勢力の明治維新政府の関東搾取政策によって、関東平野の総合知ネットワークは崩壊し、日奉精神の維持活動も急速に衰弱した。徳川家康は、関東入国の際に直接江戸城に入らずに総合知の環境の濃い武蔵国府にしばらく逗留して、関東の時空[縄文のこころ・もののふの道・日奉精神]を捉えた。この時期に、当家は将来徳川政権と対立する可能性のある多古志摩城から鏑木城に移り、日奉族の総合知統治を残すことにした。家康によってこの距離感が許されたために、当家はその後三百年以上の総合知統治[真の意味での地方自治]を行う事が出来た。父の話だと五十人位に人が毎日働いていたと言うから、本音の村政と建前の村政が父の時代は未だ併存していたようだ。西欧分析知に狂奔した明治維新以後の政府では、そのような共役二重構造の自治の存在を許すわけもなく狡猾な搾取が続き、1937年頃からは、その滅亡に母自身が立ち向かわなければならなくなった。…このために、現在の日本は地方全体が崩壊していて、国家滅亡の兆候が見えている。…そのような状況下でも、1930年頃から始めていた農村無料医療制度[教育会と密着していることが肝要]実現への父の努力を母はサポートしていた。今思うと、もし母のこの決意がなければ、父は島崎藤村の「夜明け前」のように厳しい精神状態に追い込まれていたに違いない。さらに困窮を深めたのは、1941年の真珠湾攻撃で日本列島の太平洋側が戦争の表舞台になり、香取海軍航空基地建設事業への協力の厳しい要請が父にあったことだ。東京上野から骨董商達が毎日のように来て土蔵が潰れて行く様子を見て、私は子供ながらに、健康保険制度の仕事を暫く止めて、少しでも楽をすることを母に提案したが、即座に否定された。反求[論語の愛]堂先生の孫を誇りとしていた母は、馬鹿げた戦争でアメリカ軍[ニミッツ元帥]が上陸して来た場合は、村民を疎開させた後、自分達[両親]はこの地で切腹して日奉精神を守るから、お前は一人で日本のどこかの山奥に隠れて、乞食をしてでも日奉精神[日本国が潰れても潰れない精神]を探求するようにと、一尊のご本尊を渡された。

両親の遺訓:こころ

伊之助は日奉大明神27代満徂の幼名、享保201735袴着祝

母は世界の最東端の地:鏑木で千年以上にわたって日奉精神を堅持して来た当家の崩壊を、命を懸けて美しく坂道を下るように導いた人ですから、書けば尽きない話となるのでここで止める。

小座[居住棟]の二階の奥座敷の奥に一畳間があり、その中央に漆塗りの箱が置かれていて、その中に江戸時代からの和式短銃と白鞘の短剣が収められていた。日奉精神を見失った場合の備えである。私と同様に父は気性が弱く、割腹する勇気はないのではと心配していが、高名な武門の出身の母の胆力は計り知れないものがあり、必ず美しく自害するよう導くものと安心していた。

1930年に女性の地位向上と農村無料医療制度の実現に着手した。その成果

 診療所   

旭中央病院が完成した翌年に、厚生大臣から表彰を受けることになり、父は大変喜んではいたが、約20年間の苦難の道が彼の表彰式への出席を阻んだ。これは私の解釈だが、出席して多くの人の中でピエロを演じると分析知に埋没した人になることを恐れたのであろう。父は亡くなる時も、私の旭中央病院への入院の勧めを拒み続けた。小半日の繰り返す私の入院の問いかけに、返す言葉が途切れた夕方四時頃に119の電話を取った。救急車のテールランプを見送った時、父が広い薄野の上空を寝間着姿で東に向かって去って行く幻覚を見た。

喧嘩[戦争]と食糧獲得[経済]を主体とした恐竜の生存様式は約6000万年前に絶滅し、その時代の試練を乗り越えた哺乳類から長い年月を経て登場した人類が地球上を支配するようになった。他の哺乳類、例えばオラウータンやチンパンジーの生活を見ると、食べ物の豊富な地域では女系社会で穏やかな日々が送られている。一方、食べ物の少ない地域では男系社会で好戦的な日々が続いている。アフリカで誕生した人類が、他の動物との共存で食料が得難く、出アフリカを繰り返す訳だが、このことは人類存在の理想形は女系社会の生活様式であることを意味している。すなわち、宇宙の意思が恐竜に代わり人類を地球上の支配者に送り出したのは、女系社会の穏やかな時の流れの中で、各々の人間の脳が11次元ともいわれる宇宙の意思との共鳴による創発で、生きるとは何かを感得することを求めているのである。悲しいかな、食物の少ないカスピ海と黒海の北岸に追いやられた一部族が、車と騎馬による高速移動技術を獲得して、略奪[王朝]や交易[経済]の手法を知って仕舞い、男系社会の好戦的な分析知的現代社会を出現している。宇宙の意思から見て、恐竜社会と何も変わらない生物社会となっている。人類もようやくそれに気付き、サステナビリティ等と騒いでいるが、大多数の人は西に向かって走っている高級車の中で、東に向かって行かねばならないと騒いでいるようなものだ。ただ、西欧分析知の影響の少なかった江戸時代までの日本人には美しい心が宿っていたために、まだまだ現代の若者達の心にも美しいこころは生きている。西欧文明の分析知への地引網である英語教育は民間教育に任せ、学校では日本語の表現力を習得させ、美しい日本の風土に清楚・清貧・倹約等のこころの創発が繰り返される時の流れの復元を夢見ている。

 

◎民俗[社会に伏流する純粋なこころ]学者で『遠野物語』の作者である柳田國男は、「天皇は日神だが、直接太陽を祀ったことはない。武蔵の日奉氏は国津神の末裔であろう」1910:不敬罪はあったが微妙な年と言っている。そこまで言われれば、全人類が五千年来の分析知の砂漠で彷徨っている今、人々が日々の生活で創発する<こころ>とは何かを、命を懸けて追わねばならない。それが正しいか否かを超越して。                       日奉大明神38代平山33世高書