香取海軍航空基地[干潟飛行場]
基地はJR干潟駅の東北500mのところに、東西南北に直角に交差する1500m(30-12)と1400m(21-03)の二本の滑走路を持っいた。広さは成田空港の三分の一(440ha)で最盛期には1500機の航空機と1万人を越す隊員が働いていた。滑走路の末端付近には戦闘機を格納する掩体壕(20mx20m)が25か所ほどあった。
≪基地周辺図≫
A=基地、B=湯木土取場、C=掩体壕、D=貯油壕、×=故障機墜落点
最初の計画(1938)では、基地の機能は東南アジア・中国・満州等の前戦から遠い所に位置しているために、時間をかけて海軍のパイロットを育成する場所であった。しかし、パールハーバー奇襲(1941/12/8)後、ミッドウエイ海戦の敗北(1942/6/3)、ガダルカナル島(1942/12/31)の戦で多数の精鋭パイロットを失ったので、この基地に大本営直属の第一航空艦隊(司令官角田覚治中将)が組織(1943/9/6)されて巨大な軍事基地となった。パールハーバー奇襲前後から白い海軍服に身を包み、銀色に輝くサーベルを下げた人の訪問が多くなった。当時は自動車で来る人は少なく門外に停車した車の後ろにはトラックに乗った水兵が4⁻5人護衛について来ていた。明治維新以来の関西勢力による関東資本の巧みな略奪によって、関東の総合知勢力は総て資本を失っていて助力を頼む人もなく、基地建設の支援要請を受けることは家の破滅を意味し、受けなければ周辺農村の疲弊を意味していた。後で父より聞いたことであるが、多くの農民が救いを求めて来たという。基地が完成した時に玄関前が淋しかったため、当家の奥庭の植木が移植されて、全国から集まった何千という若い兵士の目を和ませることとなった。基地の電源は、府馬変電所(香取市山田)から基地まで地上6mの木柱架空で基地近くになると深さ1mの埋設管で供給された。基地造成用の土砂は鏑木湯木から軍用トラックで連日搬送されていた。
★当時、南方諸島の戦況は日本軍の玉砕に次ぐ玉砕でアメリカ軍の北上が早まり、ニミッツ太平洋艦隊司令官(ハワイ)の提唱した東京エキスプレス作戦(サイパン→硫黄島→東京)が現実のものになった。その北上を押さえるために香取海軍航空基地から第一航空艦隊(司令官角田中将)がマリアナ海戦に出撃したが、テニアン島で玉砕(1944/8/2)してしまった。・・・≪神風特攻隊≫・・・その後、戦闘機僅か40機の第一航空艦隊(司令官大西瀧治郎中将)がフィリピンで再編
(1944/9)された。この頃には、日本軍は航空母艦もほとんど失っており、整備不良の戦闘機数十機で800艘を越すアメリカ艦船に反撃を加えるには戦闘機に250〜500kgの爆弾を抱えさせて敵艦に体当たりするしか方法がなかった。大西中将はレイテ島に向かう戦艦大和を主艦とする栗田艦隊を援護するために、ダバオとマニラの基地から最初の神風(シンプウ)特攻隊を出撃(1944/10/20)させた。・・・神風特攻隊は大西中将の参謀が剣道の神風(シンプウ)流を修めていたために付けた名称で始めは神風(シンプウ)特攻隊と呼ばれていた。魚雷特攻は日露戦争頃にも行われ、日本軍が盛んに行った白兵戦(ノモンハン等)も特攻の一種であろう。神風特攻の創始者となった大西中将も特攻が戦術ではないことを十分に承知しており、「日本民族がまさに亡びんとする時、命を賭してこれを防いだ若者達がいたという事実が歴史に残る限り、百年千年後の世に日本民族は再興するであろう」と述べて神風(シンプウ)特攻隊を送り出している。その後、フィリピンにおいて総数405機の特攻を敢行して22艘の敵艦を撃沈したが、最後の5機が出撃した後フィリピンは陥落(1945/1/10)してしまった。大西中将は台湾を経由して東京白金台に戻り、敗戦の日の深夜(1944/8/16/2時)に割腹した。遺書には「すがすがし 暴風の後 月清し」とあった。・・・マリアナ諸島のサイパン島(1944/6/15)ガァム島(1944/6/18)テニアン島(1944/7/21)がそれぞれ玉砕したことにより、アメリカ軍は4500m級の滑走路を数本持つことになって、3000km離れた東京をB-29で直接爆撃することが可能になった。しかし、効率的に戦略を遂行するためには中間点に位置する硫黄島にある数本の1600m級の滑走路が必要であった。このためにアメリカ軍(75000人)は硫黄島に押し寄せて摺鉢山を征服(1945/2/23)し、36日間で26000人の犠牲を払って日本守備兵2万人を玉砕(1945/3/14)させた。・・・2月19日に硫黄島に上陸したアメリカ軍は日本軍の激しい抵抗に合った。21日には香取海軍航空基地から32機の神風特別攻撃隊第二御楯隊(1945/2/21が1600km南方の硫黄島に向けて出撃し、八丈島で給油して硫黄島東方沖の空母サラトガ〔大破〕と空母ビスマルクシー[撃沈]に特攻した。この戦いでアメリカ軍の死傷者が4500人に上ったためにアメリカの世論はニミッツ司令官の硫黄島作戦に批判的になり、マッカサー元帥の人気が上がった。一寸余談になりますが、父は国防婦人会を使って訓練に勤しむ基地の水兵達に炊き出しを行っていた。その中の2人が突然我が家に来た。事前に連絡があったらしく、すぐに奥の間に通され、話が終わると広い土間に降りて来て、女中さん達4⁻5人と楽しそうに話していたが、突然その内の一人が庭で遊んでいた私に駆け寄って来て、シャツのポケットから白い飴を取り出し、一つを私の口に押し入れ、もう一つを自分で舐めて赤く変わることを示すと、私を抱き上げると強い力で抱きしめた。余りの強さに上を向いた時、冬の青空に椿の花が浮かんでいた。硫黄島の海に散ったその青年の魂の言葉は75年を超えても生き続けている。・・・その後、香取海軍航空部隊では特攻作戦は犠牲が大き過ぎるために夜間空爆に代えることになり、約15`東京寄りの横芝陸軍基地(JR横芝駅南)の芝生滑走路を借用して3月20日から東京湾の艦船を敵艦と見立てて夜間演習を行った。しかし、戦況は急展開して4月1日にはアメリカ軍(45万人)が沖縄に押し寄せたので、横芝からも主力爆撃機が九州に出撃して、総数2600機で特攻しアメリカ艦隊1300艘のうち36艘を沈没させたが、将兵65000人と民間人10万人を戦死させて沖縄は玉砕した。
≪余談≫・・敗戦が間近な頃、大人達は青空高く銀翼を輝かせて悠然と飛ぶB-29の編隊を見上げながら「富士山の三層倍も高い所なのでどうしようもない」と話していた。夜になると雲の上層にゴロンゴロンと反響して住民を終わりのない恐怖に包んでいた。東京爆撃の帰路で機体を軽くするためなのか、真鍮の薬莢(10cm・55g)を所かまわずにばら撒いて行った。戦後にこの薬莢が高価に売れたために野山から急になくなった。不発弾を焚き火に入れて指を飛ばした少年もいた。万年筆爆弾の話はアメリカのビラによる宣伝の効果の要素もあって、アチコチで聞かされた。薬莢を撒いたのも恐怖の宣伝のためであったかも知れない。西欧文明の奇形的成長である。この面では、大衆が情報に接する機会の多いコンピュータ社会の出現により良い方向に進んで欲しいと微かな希望を抱いている。
8万人以上の焼死者を出した東京大空襲(1945/3/10-)は、当地から見ると関東大震災と同様に西の空を赤く染め、空から領収書や新聞の焼片が舞って来た。ドイツ戦線で爆弾より焼夷弾の方が住民を殺傷するのに効果的であることを学んだアメリカは、早速東京で焼夷弾爆撃を実施したと聞く。あらゆる分野で、現在の人類が優秀な人と考えるのは、こういう卑劣なことを即時に実行出来る能力なのである。人類の価値観を人間存在の本来の姿にシフトすることが緊急の課題である。
香取海軍航空基地内の爆撃機[深山?]
を父と間近で見たことがある。こんな大きなものが空を飛ぶのかと驚いた。基地周囲の道路は砂埃の立ち雨が降ると泥沼状態であった。近くの川は橋[今の香取橋?]が未整備[故意に整備しなかったのかも]で両岸から1本ずつ太い丸太が渡されて、川の中央で交差されていた。渡る人は自重で丸太が水没する前に対岸からの丸太に飛び移らなければ靴が濡れてしまう、ただ当時はほとんどの人は裸足であった。川に落ちる人を見るのが楽しみで多くの人が両岸で見物していたが、子供には恰好の遊び場だった。
多くの人は基地周囲に立っている歩哨兵に正対してお辞儀をしてから彼等の前を通過していた。ある時、牛車を引く農夫と歩哨兵とのトラブルの脇を通った。歩哨兵は看板を指差して「ここに牛車通行禁止と書いてあるではないか、それを咎めるのが番兵の役目だ」と言って農夫を追い返していた。その光景を見ていた大人達は、歩哨兵の方言に軽妙な節を付けて繰り返し歌っていた。せめてもの抵抗で、不思議な世界だと思った。後で聞いた話だと、軍との癒着業者が多数いた。 香取航空基地採土場[鏑木湯木]
湯木(ユウギ)土採り場のあたりは、昔より松杉の巨木の林で近代末になって開墾された。海軍による採土時には畑地となっていた。表土を持ち去られた畑地は関東ローム層の赤土がむき出しになっていた。農業には適さず、戦後暫くの間は草競馬や青少年の野球場[ゆるく張ったネット裏でスコアを記録していた時にファウルボールが意外に近くまで来て驚いた]として使われた。写真から判るように、土採場は椿の湖に面した谷津の入り組んだ丘陵地帯で、塙というアイヌ起源の地名が丘陵の突出部に付いている。塙という地名は飯岡や多古にもある。このような場所は日本の南部では長崎と呼ぶのである。しかし、アラオイ(荒生)・アラバ(荒場)・アラサト(現在は新里)等の新羅・伽羅に通じる地名もあって、この地域では古代より南北文化の混交が行われていたことが判る。椿の湖の岸からは約3000年前の数艘の丸木舟[松本信広教授の発掘]が、当家の庭からは約8000年前の土器が、明治時代には小学校の工事現場では鯨の骨が出土したこと等から、椿の湖が湾を形成していた頃には外洋への海の道の港であった。古代のある時期には砂鉄からの鉄の生産が盛んに行われていて、全長100bの前方後円墳をはじめ多くの古墳が散在している。このことから、この地域は古代より椎・樫・椿等の雑木が繁茂し、鉄生産が盛んになるにしたがって燃料として乱伐されて、切り株の残った原野となり蕪木の地名が登場し、もののふの世となってスキタイ生まれの鏑矢に因んで鏑木の地名が誕生したと思われる。さて、16世紀末に当家がこの地域の経営を千葉鏑木氏から引き継いだ頃は松・杉の大木がほとんどであったと伝えられている。すなわち、古代森林資源・産鉄・松杉の再生産性に支えられてこの地域の太陽信仰の虚構性(カオスを見かけ上のコスモス)システムが維持し続けられたことになる。この伝統的両義性から見ての西欧文明の最高傑作である戦争への対応の傷跡がこの土採場であろう。しかし、文化を創発する心を見失って、ただ繁栄するだけの現代の傷の方が更に大きいことを忘れることは出来ない。
戦闘機墜落事故
戦争末期(1943-45)は軍用機の生産が急がれていた時代であったために飛行場での整備機材と人員は不足していた。香取海軍航空基地では訓練中の戦闘機がしばしば飛行場の周辺に墜落した。墜落事故は軍事機密扱いであったため記録は残っていないが、旭市新町地区に住む方の記憶によると月光・銀河・紫電改・流星・彗星等の約10機が近所に落ちて多数の死傷者が出たり、バナナを満載した飛行機(DC-3)が落ちたり、苗代で働いていた農夫が落ちて来た戦闘機の下敷きになって死んだりしたことがあった。
★鏑木内宿爆撃機墜落:昭和19年(1944)5月14日、高曇りの空の下を当家の屋敷林をかすめるように戦闘機が北から南へと乾いたエンジンの音を伴って通過した。その直後に枝の折れる音と地響きがした。すぐに見に行きたかったが爆発の恐れがあると親達に禁じられた。搭乗していた死傷者の処理が済んだ頃に大勢の子供達と一緒に現場に行った。家から100b程度の谷向こうで収穫前の麦畑[今は梅林]は跡形もなく、銀色の機体が曲がりくねって横たわっていた。救出のため掘り返された黒々とした土の上に石灰のような白い粉が見えた。この部落には当時は電気が供給されていなかったために、作業が夜になると海軍のサーチライトが煌煌と辺りを照らしていた。・・・後に聞いた話では、操縦士の飛行兵長は機体の下で即死し、もう一人の操縦士は顔が血だらけで発火していた機体に挟まれていて、急を聞きつけて集まった農家の方々が土をかけ消火しながら機体を人力で持ち上げて救出した。墜落の時には主人が出征中で家を守っていた農家の夫人が5才の娘とこの麦畑で仕事をしていたが、たまたま休憩を取って近くの木の下でお茶を飲んでいた。目の前に戦闘機が落ちて来たのを見た娘さんは、長い間恐怖のために外で遊べなくなったという。
★飯岡竜王岬爆撃機墜落:香取海軍航空隊73部隊K3所属中将(偵察)と少尉(操縦)は、昭和20年(1945)3月13日午前中に訓練飛行予定であったが、搭乗機彗星の修理に時間が掛かったために、午後になって飯岡竜王岬沖の沈没商船東竜丸を仮想敵船として爆撃訓練していた。その訓練の最中に接水墜落した。基地から友機2機が発進して捜索したが、海上に油が漂うのを発見しただけであった。少尉(操縦)の遺体は間もなく無傷で海岸に落ち上げられた。打ち上がられた遺体を目撃した人の話では機体から脱出して暫く泳いだが力が尽きたのであろうということであった。また、中将(偵察)の遺体は5ヶ月後の8月になって御宿海岸で名札付きジャケットを着た上半身のみが発見された。竜王岬沖1.5kmの沈没商船東竜丸は川崎汽船所属3500トン輸送船で、昭和19年(1944)6月に香港から戦利物資を樺太に運ぶ途中でアメリカの潜水艦に魚雷攻撃された。自力で浅瀬に向かい荷物を全て下ろしてから徐々に沈んだ。
≪余談≫・・平田篤胤(1776-1843)は文化13年(1816)4月に鹿島・香取・息栖の3社に参詣し、帰途に5月13日猿田神社と飯岡の玉崎神社に参って社前の鏑木屋に泊まり、浜に寄せ来る「寄り石」の話を聞いた。翌14日雨の中を小浜村[銚子市小浜町]の八幡宮に行き、神殿の側の草叢で「天磐笛(アマノイワブエ)」を見付けた。別当の西安寺の僧に持ち出しの許可を求めると、村人が玉崎神社で買い求めて八幡宮に奉納した物だから村人に見つかると困ると言うので、僧に700文余を与えて蓑の中に隠して村から持ち出して銚子から船で江戸に送った。彼は「天磐笛」の発見に感激して、以後『気吹能屋(イブキノヤ)』と号している。この「天磐笛」の発見の事実を下総門人の多くは信じたが、日奉大明神33代平山正名は事実として認めなかったと芳賀登は書いている。篤胤は文政2年(1819)4月2日と3日[二度の鹿島立]に当家下の分家[平山伊右衛門]に泊まり[当家には泊めていない]、15日には飯岡の玉崎神社の神主に会っているが八幡宮は素通りしている。自己の論理に心酔して神への素朴な感謝の心の欠落した人のように思える。思想的には本居宣長の唱える地下にある黄泉の国と異なり、現世に幽冥界を設定しているが、この思想は当時の人に受け入れられず故郷秋田に蟄居した。彼の思想は明治維新になって国家神道に利用された。ここで大切なことは遍歴して来る著名な学者や僧[分析知]を受け入れる地元の人々の彼等への距離感[両義的精神の源泉]であろう。
昭和20年(1945)3月13日に飯岡竜王岬沖に香取海軍航空基地を飛び立った訓練中の爆撃機が墜落した。2人の搭乗者はなくなったが、御宿海岸に流れ着いた方の遺族から事故の調査の依頼を受けた。調査中に「寄り石(飯岡石)」のことが気になった。今は護岸壁があるために海の底から転がり寄せてくる石はほとんどないが、事故現場で地元の人が「寄り石」を見付けてくれた。拾った瞬間に『飯岡魂石』と名付けて、依頼人に送った。遺族は九州に住んでおられるという。
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