一検校
黒海・カスピ海北岸での騎馬と車輪の登場は、それまで疎外されていた狩猟民族の分派が略奪と交易の手法を加速的に発達させて裕福となり、競争を基盤とした宗教・学問・経済[三種の神器]という虚構[国家・文明・王侯・皇帝・宗教・学者等]を生んだ。この虚構は西に伝搬して東欧を経てギリシャ哲学を生み、また南伝したものはハムラビ法典・マルドック神からユダヤ教へ、それらがローマでギリシャ哲学を吸収してキリスト教徒として成長し、約2000年の歴史を経て、国連・G7等を使って世界を制圧している。現代日本は、徳川幕府の200年を超えるキリスト教禁制下で、日本制圧の手法を考え続けたキリスト教諸外国は、先ずは薩英戦争・下関戦争で薩長藩を半死の状態から立ち上がらせることによって西欧文明の信奉者として調教して、先ずは関東地方の富の搾取を指導し、次いで、朝鮮半島・満州・中国へと侵略の触手を伸ばさせた。キリストの再現と自称するマッカーサー元帥は、太平洋戦争の責任者達を生かしその弱みを利用して、縄文時代から積み重ねて来た日本の人々の英知を腐らせ、夢遊病者的政治が行われる国としてしまった。日本列島の歴史上はじめて国土・森林が荒廃し、子々孫々は支払い不可能な借財を負わされている。小学生でも分かる通り歴史上永遠の制度はありません。資本主義や民主主義も永遠の価値ではありません。ましてやアメリカの世界支配もそのうちに崩れ去ります。その時、北朝鮮や中国にまたまた媚を売るのですか。菅原道真が遣唐使止めたのも、最澄・空海・道元等の現代で言えば、オックスフォード・スタンダード等を語れば真理を伝えている錯誤の社会から抜け出し、日奉精神の復活・日蓮思想を生んだ南関東の風土を再考する時だと思います。
さて、カスピ海北岸から東に伝搬したこの虚構は、中国大陸に炎帝・黄帝として現れ、その後の夏・殷・周・秦始皇帝・漢・唐・元・清とあらゆる王朝はこの虚構の子孫として続いた。現在の中華人民共和国も、西に移動した思想のマルクス主義の子孫らしいので、この虚構が生んだものである。
中国大陸の民衆は、この虚構に洗脳されていない人々がほとんどあったので、国家機構と民衆の間に、後の三権分立内の司法的な機構を置いたのが、検校の始まりではなかろうか。その業務を遂行するに適した人が僧職に多かったのであろう。
624年:僧正・僧都を任じて、僧尼を検校した
855年:修理東大寺大仏司検校
896年:東寺長者益信(ヤクシン)が石清水八幡宮の検校[一山の首]に
918年:観賢が東大寺検校に。
919年:観賢が高野山金剛峰寺検校に
900年以前:律令制から国衙領の負名体制「豪族・負名・名田」=納税請負制度へ…郡郷制の変質、留守所―在庁官人制
935年:丹波国大山荘に荘検校
1015年:播磨国有年荘に総検校・検校。
1020年頃:藤原道長は法成寺を創建、検校を置く。
中世の寺院の寺司は、検校[長吏]・別当等であったが、王家御願寺では摂関家と執行が行った。院政期以降財政を取り扱って来た三綱・執行の力が増して摂関家の氏寺支配が確立した。
1051年:前九年の役の際、源頼義が陸奥守に任官。
1053年:源頼義が鎮守府将軍を兼務したのと同時に、日奉宗弘が一検校に任官した。一検校は鎮守府に属したのではなく、陸奥国府において略奪地の民政を担当し、現地に元々ある八百万の神と鹿島神や仏教の進入の調整等を行っていたと考えるが、源頼義の行動監視の意味もあったのではないか。日奉部のこの働きは日本列島の統治に重要であると考え、徳川家康は日奉精神の扱いを考慮した。この件は別項で。
『武蔵国留守所惣検校職』は、1226年以後吾妻鏡に記載されているだけで、それ以前の吾妻鏡やその他の史料に記載がない。ということは、平家・源氏という分析知思想の強い統治者が武蔵国に現れて、検校という職階を統治手段に組み込んだのであろう。『押領使』ではなく『惣検校職』としているのは、形式的地位をしめしていて、職検校として現れたのであろう。
1160年:武蔵守は平知盛、惣検校職に畠山重能・河越重頼。
1180年:源頼朝が武蔵国務、江戸重長は棟梁=惣検校職。
1371年以降:当道社会の最高位を職検校と呼ぶようになった。明石覚一検校。
☆検校は、元々統治側の分析知と民衆側の総合知の調整を行う統治側の組織であった。これは敏達大王の日奉部と同じ性格を持っている。しかし、この意義を分析知に属する統治側の人が理解するのは不可能である。そのために、日奉部や検校の名称が時として全く異なった職域に使われることがある。宇宙空間の出来事は、とりあえずは普通の人が感知出来る三次元空間や鍛錬した人が感知する四次元空間を超えて、阿頼耶識・11次元空間・量子論のブラックマター・ブラックエネルギーが影響を与えているということですから、自然の中に個の頭脳を没入して感得したものを、その時々に現成していく以外に方法はないようです。日奉族が二極構造を取って生き延びたのも、分析知の横行する社会の中で、どちらか一方に人間の思考の純粋性を残すためです。
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