大原幽学

大原幽学について木村礎は、『栗原四郎の研究結果から、これまで平山家と幽学の関係を不即不離と漠然と考えられて来たが、実は極めて近かった。しかし、改心楼乱入事件1851以前に平山家の思想が性学から歌会へと傾斜した。旗本領主を通じて全国動向を知りうる平山氏は、性学の限界をいち早く見抜いていたに相違ない。平山氏の視野の広さを示すものとして「時事」文書がある。平山家と国学者・尊皇攘夷論者との接近もまた顕著な現象である。こうした広い視野は、幽学や性学がついに持ち得なかったものである』と『大原幽学とその周辺』の中で述べている。現代の学者は、支配や経済に精通にないと歴史ではないと考えているようで、上記の論文は当たらずとも遠からずの結論にはなっているが、後代の人々に夢や希望を与えるその時代の呼吸を捉えていない。日奉精神[総合知]を堅持する当家では、訪れる学者はすべて分析知の申し子と捉え、それぞれの深さに合わせて、学者との距離の取り方を変えている。よって、幽学と極めて近い関係を持つはずがない。日奉族は、前9年の役・後3年の役、鎌倉幕府の創設、室町幕府、戦国時代、秀吉と家康時代とそれぞれの時代の分析知絶対優位性を超えて、総合知の命脈を保ち続けて来た経験を持っている。このために、平山家は旗本領主を通じて全国の情報を収集する必要もなかった。