屋島の戦[阿波民部太夫成良と義経の戦]…陸戦から海戦に

屋島の戦に関しての当家の伝承は、平山季重が渡辺の浦からの船に乗っていたということしかない。陸戦はともかく海戦は、梶原氏のように船を調達する能力もなく不得意であったのだろうし、関東総合知の雄日奉族として、貴種層の権力争いにどこまで力を入れるかは難しい問題であったと思う。それはともかく、この戦いで、刀伊[女直]の入寇(1019)時に、太宰権帥藤原隆家[日奉族の親戚]大蔵種材[原田荘]とが力を合わせ撃退した事実を平山季重は十分知っており、その原田[旧姓大蔵]種直が九州平家の代表として範頼軍に敗れたことを気遣いながらの従軍であった。この戦の後に、頼朝は原田荘の地頭を季重にし、原田種直を鎌倉に住まわせて日奉族の下に置いた。時代が下って、原田氏は日奉族の親類に当たる宇都宮氏を通じて日光東照宮に職を得ていた。1590年頃、当家が秀吉と家康双方から勧誘を受けた際に、24代平山光義は仙人になったとして世を捨てた。しかし、裏では家康とは通じていたらしく、家康の好意で鏑木を天領として領主を原田氏として日奉精神の維持を保障された。江戸時代の当家は、家康の分析知と総合知の中庸を採る思想によって維持されていた。

《屋島の戦前後》

11841:阿波国在庁官人が反平家となる。20日、源義仲が滅ぶ

〃   :26日、平家が九州の菊池・緒方に追われて屋島・一ノ谷に帰る

         阿波民部太夫成良が屋島に板屋の内裏と御所を造り招く

 〃   :29日、範頼・義経が西国へ

 〃  2: 7日、一ノ谷の戦

 〃  4:義経は山城・大和・摂津・河内・和泉の直轄地とする体制

 〃  7:28日、後鳥羽天皇即位

  〃  8:29日、範頼軍[千葉・足利・武田・三浦・北条]京都より山陽道へ

 〃  9:19日、頼朝は平知盛の元部下橘公業(キミナリ)を讃岐国へ

 〃 12: 7日、範頼軍が児島[倉敷市]の平家城郭を奪う

 〃 12:26日、範頼軍の佐々木盛綱が藤戸[倉敷市]の騎渡で児島へ

11851:12日、緒方惟栄[豊後] が範頼軍に兵船82艘を献上

〃   :26日、範頼軍が児島より豊後[大分県]に渡る

〃   :紀伊・淡路・讃岐・阿波で反平家分子増加

 〃  2: 1日、範頼軍が福岡葦屋?で原田種直等を破り、彦島が孤立

     : 3日、義経軍が京都より屋島へ向かう、平山季重は同道

淀津[伏見]船奉行:淀江内忠俊[大江内舎人]・渡海案内人:渡辺源五馬允眤[摂津源氏ウマノジョウムツル]

 〃   :16日、屋島に向かうも780艘が破損し逗留

 〃   :18日、摂津源氏渡辺より6時間[実際は28時間]で阿波勝浦[津田島]漂着

         津田島の旧領主藤原親家が義経を招き、屋島へ案内

 〃   :19日、民部太夫の親類桜庭能遠を破り、大坂峠を越えて、

牟礼・高松に放火、屋島を奇襲

 〃   :20日、那須与一の扇の的当て

 〃   :21日、平家[約千人]は志度浦に、義経軍[約300騎]に追撃されて西へ

 〃   :22日、義経軍は大津島[周南湾]付近に集結

 〃   :24日、壇ノ浦の決戦…海戦