琵琶湖疏水の第二トンネル:
2代外祖石崎長裕。
石崎長裕(1860.4.21−1911.8.31)は、石崎長久の4男であったが、流行病で長男次男三男が3日のうちに亡くなったために、家督を相続することになった。母方の叔父伊藤重光[古義堂6代]が皇太子[大正天皇]の養育係として新都東京の青山御所に勤めていたので、士族として軍人教育を受けるために青山御所に引き取られた。幸いに叔父と父親が共に陸軍大将小松宮彰仁殿下と友人であったので、士官学校の前身で学ぶことになった。勉強は工学が好きでその方面に力を入れていた。殿下とは日常生活を共にすることが多く、謡曲の相手をさせられた。しかし、父の死亡[明治19年12月23日]により京都府庁に務めた。京都知事北垣国道氏は石崎長久の門人であった。暫くして、京都大学が設立され、府庁に務めながら京大で土木工学を学んだ。琵琶湖疏水工事が始まり、東京帝国大学から着任した京都帝国大学土木工学部田辺朔朗・二見鏡太郎・中沢岩太の三先生の下で、府庁職員として大学で学び、疏水工事の全工程に携わった。特に三先生から腕試しとして第二トンネル工事の全責任を任され、土木工学の実力を養う事が出来て、その後に、東本願寺前七条駅北の大噴水や両本願寺の設備等を手掛けた。山陰線の敷設工事に私宅の屋敷が掛かり東隣地に移った。反求堂も小さくなったが立派に再建された。墓は龍安寺にあり、大龍院長裕居士である。妻は京都丹波国南桑田郡稗田野字佐伯神主松本續の子梅野で、墓所は龍安寺で龍光院梅室貞香大姉である。
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