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京都御所
東国武士は、元服前には京都に出て学問・武芸の修得に励むと共に、関係の深い公家等に出入りして使い走り等々の仕事をすることによって、京都に集まって来た全国の同輩を通じて構成される情報網を持つことが、その後の活動のエネルギーであった。この京都社会の息遣いを、幼い日の私の経験から推定するのも的外れかもしれないが、太平洋戦争以前のことで滅亡する前の我が家の三度の食事時の出来事から推定してみる。間口13間に付属棟4つ付く大きな家のニワバ[土間:多摩地区でも同じ呼び方をしていた]に広い板の間が隣接していた。厚い茅葺屋根のため夏は涼しく冬は暖かかった。ニワバの東北の一角に大きな穴が掘られ下竈があり年中無休でお湯が沸かされて、その煙が屋根裏を循環して萱屋根の寿命が保たれていた。そのニワバに接して広い板の間があり、朝昼晩と多数のお膳が並べられ、担当の女中さん達が近所の人々を引き入れて、食事の接待をしていた。ワイワイガヤガヤと飛び交う話題の中から誰かが重要な話を抽出し、主人に伝えることになっていた。半径10q程度の地域のあらゆる情報が生きた形で絶え間なく収集されるシステムである。今の情報伝達は、TVやスマホによるため情報が個人の脳に直接伝わるために、利点もあるが情報を多くの人の脳の間で移動する際の価値の創発が起こらない欠陥がある。少なくとも、京都社会はそのような創発性を保有していたから、全国から武士の少年が集合していた。平山季重はその慣例に従って藤原氏の何処かの家で修養を積んで、後白河天皇の北面の武士を務めたようだ。日奉族として源頼朝に対しては常に不即不離の距離を取っていたので、頼朝より更に分析知の強い後白河法皇を後ろ盾として選ばなければならなかったのは、人の世の難しさを示している。また、時代は下るが平山滿篤も同様に若い時は京都で修養を積んでいる。幸いに徳川幕府というある程度総合知を理解する政権下で、天皇側も権力を失って総合知に傾いていた時代で、後に述べるが京都の社会も伊藤仁斎を生む環境にあったために、彼は天皇・幕府を取り込んだ形で日本民族の総意として、世界の最東端[銚子]に日奉精神[海上山]の殿堂「経王宝殿」を建立した。
後白河天皇・院北面の武士=武者所:日奉大明神7代平山2世季重
後西上皇・中御門天皇:日奉大明神29代平山24世久甫