古義堂堀川下立売上る東側四丁目]:日奉大明神38代の9/8代外祖伊藤仁斎・東涯等の居宅・講堂

『古義堂のありし日』

伯母:戸田義子は、「重光おじいさんのこと、堀川塾のこと」という短文を教会の会報紙の裏に書き残していた。伊藤仁斎の古義堂での講義は連綿と引き継がれ、8代伊藤輶斎重光で幕を閉じることとなった。伯母の文は、旧仮名遣いの下書きなので、読み易いように少々手を加えたが、感覚は残した。

 堀川古義堂の塾へ学ばせてもらうようになったのは、祖母:[重光の姉]の計らいであったかと思う。九才の頃との記憶である幼少のことで先ず「女士学」という厚い厚い本を机に置いて字撞き音読のお稽古に、重光おじいさん自らではということで、嗣子琢也さん[仁斎の次男:梅宇系の人]が教授に当たって下された。それが終わると、百人一首の講義を始められ、その余暇は家庭の見習い、おじいさんの手習いが始まるので、急いで墨摺りの手伝いに行った。重光おじいさんはいつも難しい顔をして、墨摺りは海へ陸へとゆるゆると摺ることだと、大きな唐墨を右手に与えられ大きな硯の前に座らされて、小さな手一杯に握り、幼い私にはなかなかの力仕事であった。沢山並べられた大小の筆いずれかを選んで、大きな唐紙に墨黒々と見事に、子供心にもあのように書けたらどんなに楽しかろうと見とれておった。このおじいさんへの揮毫依頼は山積みであったので、なかなか忙しくやりきれない様子、八畳の座敷一杯に黄色の唐紙、白色の画用紙などに大書したのがタラタラと下げられ、その上御祠堂へ行く廊下にも垂らされて、後で聞くところには神社仏閣碑蹟の額など大きな文字を良く書かれて残っている由、こんなお手伝いで、書くのは習うまでにはならなかったが見学にと墨摺をさせられた。このおじいさんはとても庭掃除がお好きでまた花作りも得意で、45百坪の畑を耕し夏期には桔梗・撫子・女郎花などその当時でも昔懐かしい秋草一杯に、全く全くお花畑の美しさ、地には白砂一面に敷かれて全くこのおじいさんのお勤めの青山御所のお花畑もかくやと思われ、なお小屋にはそれの道具である砂流し(スナトオシ)の荒いのから細いのまで、箒きもの幾通りにも順序良く掛けて整頓の有様、培われる花もかくやと、裏木戸を出た所に柿の大樹一本、そこは小高い丘になって木の下には床机、お三時には赤毛布を敷いてそれはそれは、指先ほどのお握りを木皿に載せてお上品な思い出は明治の昔のお八つの風景である。…祖母から聞かされた話によると、この重光おじいさんは大正天皇さんが皇太子の節、御養育係として青山御所に出仕というやら、当御所のお花畑や日々のご様子そのまま。

「幼児の頃」

 学制が置かれて十数年を経ておる頃ではあるが、市内には幼稚園併合の学区は凡そ十二ヶ所位の少数、幸い通学も出来得る道のり十丁余りの所に待賢小学校があり、兄と共に満三才より入学毎日女中に連れられて勉強したもの。在学中大変な思い出にあったことは・・読解不能・・通学の途中六才の頃、女中の注意も聞かず大したこととは思わず、石垣の堀を滑り降りた途端、石にて左脚の骨を打撲したのが、不運にも骨髄炎を起こし大変なことになり、折柄府立病院外科部長猪子先生の御執刀のもとに大手術を受け幸いにも片足切断の危機をまぬがれ、34ヶ月にて全治し、学齢には差し支えなく入学が出来て嬉しかった。その時代、先生は外科の国宝と称されたほどの名医であったので手術の鮮やかさは、どの先生が見られても驚かれる痕であった。左様な御蔭で何の不自由もなく、こうした手術の痕のことは一切忘れ、学校での運動も何の懸念なく完全な足と同様の感じで・・読解不能・・高等小学時代は女子の運動への舶来ものの輸入期と申そうか、女子野球が盛んに流行、こんな足であるので父兄には秘めて、学校だけ選手としてよくした。・・読解不能・・思いがけないケガに合ったが、有り難いことには生涯病気で診てもらったことはない。診察してもらうようなことは一度もなく健康そのもので暮らす事が出来た。正岡子規は東京大学で野球が学び、吐血するまで捕手をやっていた。伯母は10年ほど後だが同様に捕手をつとめていて怪我をし、足を更に悪くした。お転婆娘であったのだろうが、自分の責任なので余り語らない。強気

市掲載許可済…,Former Residence of Ito,Jinsai "Kyotofukoh"

伊藤仁斎と日奉精神   HP              平山高書 (server-shared.com)