小倉山二尊院[右京区嵯峨二尊院門前長神町27]:伊藤家菩提寺[仁斎・東涯等の墓所は右手奥]
仁斎・東涯の墓参りに何度か二尊院を訪ねた。その度に写真を撮ったが、辺りが暗くいつも失敗した。全国の親戚の墓を参拝した経験はあるが、一番大きな墓でしかも場所も良い。だが「伊藤仁斎は元より赤貧なり」と言われていて、伯母から「仁斎はある日に食糧を買うにお金がなく困った時、着ていた羽織を脱いで売った」という話を聞かされ、その羽織の切れ端だと言って封筒に入った羽織の端切れを貰って、今でも文庫蔵のどこかに保管されている。大きな墓と羽織の話はどのように理解すればよいのだろうか、真実無偽や忠信は成立するのであろうか。尤も墓を作ったのは東涯であろうし、仁斎の思想に矛盾があったわけではない。仁斎が朱子学とは異なる思想で孔子を解釈するようになれたのは、徳川時代になって圧倒的な権力が江戸に移り、京都社会の思想的拘束が解けたことにある。
この時期に、日奉大明神29代平山24世滿篤も、その京都に出て総合知の寺院としての妙福寺を、世界の最東端千葉県銚子に創建する仕事をしている。江戸幕府に頼ることも出来るだけの幕府を構成する人々との繋がりを持っていたが、それを避け権力を失った天皇側に顕れている総合知を利用したからであろう。滿篤と東涯との交流があったらしいが、その史料は一枚しかない。滿篤が宝鏡寺に出入りしていたので、古義堂とは地理的に近く、思想的にも近いので意気投合していたと思う。
さて二尊院の二尊とは、釈迦牟尼仏と阿弥陀仏のことで、中国の善導が「釈迦が東岸にいて、人々を西岸に渡るように指示し、西岸には阿弥陀如来が手招きしている。その間に渡された橋は幅が15センチぐらいで、右は水か渦巻き、左は業火が渦巻いていて、現世で善行を積んでいないと落ちてしまう」という話があり、この話から二尊の配置が行われているのだろう。一般の人々に対しては、その解釈で良いのだと思うが、これでは哲学がなさ過ぎる。私達が生きるということは、肉体を維持すること[熱力学第2法則]と生きる理想[11次元や阿頼耶識と呼ばれる人間の思考を超えた宇宙の意思]の捕捉とに代表される。前者を釈迦牟尼仏、後者を阿弥陀仏で表し、細い道を歩むのは私達の日々の生活を表している。プリゴジンの散逸構造もこの辺に現れるのであろう。仁斎に帰るが、孔子の理論は総合知[仁]も分析知[理知]も含まれたもので、漢王朝・宋王朝や徳川幕府では王朝自身の存在が強度な分析知であるために、孔子の解釈も分析知に偏らざるを得ない。そこに林大学頭等の江戸朱子学の存在がある。伊藤仁斎の墓が二尊院にあるのは、親類の角倉了以の影響もあろうが、分析知と総合知の中庸の響きの中で選ばれたのであろう。 |