大雪山龍安寺[右京区龍安寺御陵下町13]:石崎家の菩提寺[墓所は石庭の左奥]
細川勝元と山名宗全が戦った応仁の乱(1467〜1477)で龍安寺は焼失した。妙心寺の塔頭(タッチュウ)西源院の方丈を移し再建した。正法山妙心寺は、釈尊が嗣法の弟子の摩訶迦葉に向かって「正法眼蔵涅槃妙心」という句から取ったものである。
明治維新後、龍安寺は石庭を取り囲む油塀も崩れて哀れな姿であった。石崎長裕は復興案を住職と相談した。資金を作るために、昔所有していた山林の払い下げ願いを申請した。また、龍安寺雲山会を組織して一般人から寄付を募ることにしたところ、すぐに葛野郡有吉郡長からの賛同を得られた。苗木数万本[桜・楓]の寄付等が続々とあって全山が緑化した。払い下げも40町歩が許可になった。風景絶雅、春秋の眺めは素晴らしく、一変して屈指の観光寺となった。
★これは私見であるが、この石庭は小堀遠州の作と言われ、江戸初期で新しいものである。特に、遠近法や黄金分割が用いられており、その上、臨済禅という新来の仏教にその思想を置いているから、日本古来の庭園ではない。遠近法や黄金分割の建造物を見て成長したエリザベス女王が見て感動するのは勝手だが、日本のこの分野の識者が日本古来の庭と同調するのは軽薄である。
|