三十三間堂 3代外祖石崎反求堂先生碑
石崎八郎長久は京都所司代新屋敷騎士戸田家の子として生まれ、幼少より弓術に秀でていた。安政元年(1855)2月、江戸深川道場で全国各藩の弓術指南が集い、将軍家定が隣席の下で「通し矢[千射]」の競争が行われ、石崎長久は日本一の栄冠に輝いた。この時に本家宇都宮城主戸田憲網公より登城の接待を受けた。自宅の日本日置流道場[反求堂]には、官界・学校・町家等多数の弟子が押し掛けた。また、彦根藩・鳥取藩・高槻藩等の弓道指南顧問に招聘された。門弟の知事北垣国道氏と共に平安神宮西隣りに京都武道館を設立した。明治19年12月23日に亡くなり、墓は龍安寺で反求院養道長久居士である。妻の達(タツ)は古義堂5代東峯の長女達で、男であったら伊藤家は潰れなかった[蔵書は天理大学へ]と言われている人で、伊藤達の母親は、京都御所御典医の福井丹波守貞憲の長女である。達の墓所は龍安寺で、瓊樹院貞室妙蓮大姉とある。
三十三間堂の石崎反求堂先生碑は、当時門人により三十三堂正殿階段南東広場に玉垣を回して建碑されたが、太平洋戦争後に観光事業の障害になり裏庭に移され、最近また移されたらしい。石崎家は北畠顕家の末裔という、石崎八郎は元は戸田八郎といい、新屋敷の隣の家の戸田家より養子に入った。戸田家[宇都宮系]は藤原北家藤房が初代で廃藩迄29代続いたという。何代か前の人が九州より所司代に入り、その後は与力として務めていたらしい。
栃木県益子町大羽に地蔵院が菩提寺として残っている。明治時代に戸田家は滅亡したため、石崎反求堂の子長裕の長女義子が名目だけの家を継承した。
◎皇女和宮が将軍家に降嫁した際に、反求堂先生は京都所司代御警護組頭として、中仙道を江戸へとお供した。下賜された衣装は、黒縮緬紋付羽織袴であった。途中のご様子は省くが、お気の毒であったと聞く。
市掲載許可済…HI157
石崎先生堂射碑
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