武州南一揆『武蔵国船木田庄の平山氏』
日奉大明神13代季信…浄妙寺創建(1361)・左衛門尉・日擁入道
〃 14代盛季…八郎
〃 15代季慶…八郎・対馬守
〃 16代季泰…右衛門尉・将軍満兼(1398-1409)に仕える
季雄…阿波介
季則…弾正忠
〃 17代正泰…伊賀太郎・民部大輔、将軍持氏(1409-1439)に仕える。永享11年(1439)2月10日持氏と共に戦死 平山三河入道
季種…左馬允・兄と共に戦死
貞泰…今宮中務丞・相州に住す
〃 18代有季…民部少輔、成氏(1449-55-97)に仕える。古河に住す
☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ ☆ 北条・大江グループの和田氏攻めによる和田の乱(1213)の時は、平山季重(1140-1212?) は病で亡くなっており、弟の今宮次郎 [和田の乱で戦死?] ・平井三郎致重や長男小太郎重村・小次郎重友[和田の乱で戦死?] ・伊賀守季武・孫の筑前守太夫判官重実等が対応した。
武蔵国多西郡船木田庄[八王子市と日野市]を本貫とする平山氏は、応永年間(1394-1428)において、南一揆を形成し、守護代の大石氏や長尾氏と対立した。船木田庄は新庄(1334)・本庄(1385)が東福寺に寄進された。『室町幕府奉行人下知状(1419)』によると、平山三河入道は、船木田庄全域にわたる京に送る年貢を全て数年間(1394-1428)にわたり対捍[タイカン:拒否]したとある。大よその総額は20貫文で、25lが寺納分・50lが国雑用分であった。關東公方足利持氏下知状では、武州南一揆は平山三河入道に合力して、甲州からの兇徒と国内の問題に対処するように指示している。足利持氏は、1418年に南一揆に対して政所の公事を5年間免除している。東福寺は、1420年に室町幕府へ平山三河入道の対捍を訴えている。平山氏は、開発地主であり谷戸集落を支配して、直営田・庄田・新開田・畑地・在家・屋敷地・炭窯までを管理していて、公権を超える力を持っていた。問題の平山三河入道は、日奉大明神17代正泰である。徴税権をほしいままにする関西勢力・東福寺[分析知]への関東勢力[総合知]の対抗措置である。 |