東国への侵攻 フロント
中臣氏の誕生
日本列島では古モンゴロイドの人口が東北部に最大60対1といわれるほど多く分布していた。人口が希薄な西日本に朝鮮半島と奄美大島から、水田稲作と製鉄技術を持つ新モンゴロイドが渡来して、その子孫達がクニ→国→国家→少し病的であるが帝国→国家と変化して日本を統治して来た。この渡来人の初期の勢力は、九州・山陰地方に定着していた。鞴製鉄等の技術を持って新しく渡来したグループは、九州・山陰地方には定着が難しく、東方の境界であった大和地方に侵入して勢力を固めた。大和での統治が安定すると、統治機構の最高構成勢力[オオ氏・物部氏]等は二番手勢力[大王族]を大和に残して、後に「三関の関」と呼ばれる峠を越えて、東山道を通って縄文精神の聖地:関東平野に向かった。関東平野の侵略は群馬から始まり栃木に波及し、茨城北部・福島南部へと進んだ。その侵略の過程で、侵略者のアーリア系分析知と日本列島固有のスンダランド系旧石器・縄文総合知の中庸を取ることの重要性に迫られて、関東平野の各侵略地に中臣職が置かれた。一般には中臣の中は、大王と神の中を取り持つ役職とされているが、忌部氏や物部氏の立ち位置や、中臣氏が日本の統治機構を完成したエネルギーからして、そのように単純なものではない。北関東西部の侵略地である群馬と栃木から、埼玉と東京と神奈川の縄文精神の残留地を侵略したオオ氏に、大和朝廷側が内乱を仕掛けた事件が534年に起こっている。少し遅れて、霞ヶ浦周辺から東総地域にかけて残留していた日本列島の最後の総合知としての旧石器時代から縄文時代の精神が、中臣氏[鎌子]によって表面上は分析知と総合知の共役構造を取る形で侵略された。このことが577年に私の屋敷に拠点があったと思われる下海上国造が、奈良桜井の他田宮に連れ出されて新設された日奉部に仕えたと「日本書紀」にある。この時に敏達大王は分析知に満ちた百済宮から他田宮に移っていることは、オオ氏が関東平野の侵略を通して得た総合知と分析知の中庸を取ることによって、理想の国家を作ろうという人類至高の統治機構を夢見ていたことは想像出来る。不運にも当時はさらに高度な分析知の仏教・律令制度の渡来期であり、蘇我氏の登場によって敏達・中臣の夢は実現しなかった。しかし、霞ヶ浦南東部の旧下海上国の区域には中臣氏の勢力としての郡が創設されて、茨城東南出身の中臣氏が中央で力を持つことが出来た。中臣氏の主流は蘇我氏との争いで消滅したが、支流中臣鎌足が鎌子を称し中庸の意思を継承して中央で勢力を伸ばした。彼は鎌足と改名し「六韜」を勉強したというから、分析知側に大分傾くことによって自己を保持した。この人の子が藤原不比等で、日本の支配機構を創造した一族を生むことになった。なお、乙巳の変を中臣鎌足と共に実施した中大兄皇子の中は2番目という解釈があるが論拠が不明で、中臣の中と同様に総合知と分析知の中庸の中であろう。そうでなければ、3万年以上かけて日本列島が育んだ精神が無に帰すことになる。