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 航空機の運航の安全を維持することは、現代の人類の活動にとって最重要な課題の一つであります。新東京国際空港の開港を可能にするために、新しい進入灯の開発を任せられた時には、世界の最東端の地である北総において、美しい光の輝きを用いて、世界中の人々を日本に迎い入れるという仕事に、私のライフワークである日奉精神との関連が想起されて深い感銘に浸りました。しかしながら、現代人が全幅の信頼を寄せている文明というものの諸相[航空産業もその一つ]には、プラトンの『国家』やヒンドゥー教の聖典『バガヴァッド・ギーター』でも説かれているように大きな欠陥が隠されています。このために、感銘を受けた仕事ではありましたが、常に一定の距離を取って対処しないと、ライフワークである日奉精神が見えなくなる頭脳に変質してしまう危険性を感じていました。現代文明は、それ以前の各文明もその性質を表しているのですが、中東に近い地域に住むインド・ヨーロッパ語族やセム系のアジア人が、生活の中の争いを通じて構築した分析知的思考に極度に偏った性質を帯びています。この偏った文明の中で5000年以上もの長期にわたって歴史を重ねて来ましたので、全人類が学問・経済・武力の分野で競争に勝つということを最高の価値であると錯覚しながら存在しています。このために、人類はこの狭い了見を離れて、雄大な宇宙的見地から人間の存在を眺め直すことが不可能な状態に陥っています。最近の宇宙理論では、138億光年の全宇宙の中で、人間が関わることの出来る通常物質はたったの5%以下、残りは暗黒物質(22%)と暗黒エネルギー(72%)で構成されていて、しかも文部省監修の宇宙図によると、通常物質のほんのわずかな部分のみが、私達人間にとって感知が可能であることを教えています。このことは、いかなる超天才が現れても、その知識には限界[欠陥]があることを示しています。宇宙の成り立ちがこのような状態でありますから、取りあえず私達は、それぞれの時点で最善とされる社会機構に従って生き、可能な限り多くの自然の事象との感動を繰り返すこと以外に自己に与えられた生命を全うすることは出来ません。

  日本の敗戦が間近に迫った頃、父は香取海軍航空基地の水兵を慰労するために炊き出しをしていました。食事の前に小学校の校庭に200人程度の若い水兵が整列し、父の訓示を聞くのが慣例でした。その情景を小学生用の椅子の上に立って観察しながら、日奉精神の本質=時空とは何かを考えるのが、幼児の私への父の課題でありました。訓示が終わると急いで二人だけでその場を立ち去り、林間を歩きながら本居宣長の「ものあわれを知る」やベルクソンの「持続」を聞かされました。このようなことを繰り返している内に、今で言うならば、ギブソンのアフォーダンス認識=時空間に潜んでいる行為の可能性[未来への希望]を管理することが、人間の存在にとって最重要なテーマであると思うようになりました。湯川秀樹も原子核を構成する陽子と中性子の間では時空の受け皿が生まれて、そこにエネルギーを供給し合うことによって原子核の安定が保たれていると説いていました。人間を含め物体が存在する意義は、時空間にある変化を起こすことにあります。幼い頃からこの時空の創発性について考えて来ました。幸いにも日本人の精神の根底には、この創発性を重視する心が連綿として受け継がれており、各時代時代に渡来した文明[武力・経済力・知力]を敬遠する精神として顕現しています。現代の跛行的な西欧資本主義社会が崩壊した後に、この縄文の総合的精神が人類の究極の精神として復興することになるでしよう。人類が資本主義の限界を知るまでには、百年かかるのか否かは判りません。あまり時間をかけていると生命体としての地球が再生力を失って、人類の歴史が終焉に向かうことになります。私達には、『マハーバーラタ』でバガヴァッド[聖者]がアルジュナ[戦士]に説くように、行為の結果を放擲した行為を持続することは不可能でしょうし、仮に可能であっても、非接触民等を除外した思想ですので、情報化の発達した未来社会には適応出来る教えではありません。ここを補完出来るのが、縄文の精神を基盤とした日本の鄙の精神です。西方のアーリア系思想が中国大陸で秦・漢という論理性を発達させ、その余波を受けて日本列島に律令制度が定着する際に、その反作用として登場したのが日奉精神で、文明を敬遠する日本精神の一例です。このアーリア系と縄文系の思想の二面性を両立(ambivalence)させたのが、藤原不比等や天武天皇によるアマテラス神道と天皇霊の二重構造精神であります。大陸で鄙の精神を経験した人々が渡来して、日本列島で雅の精神として振る舞う曖昧性が、繰り返し繰り返し発生し蓄積されたために、清楚で曖昧な人類の最高の精神が涵養されたのです。

 黒船の来航によって日本列島全体がアーリア系思想の末裔である西欧文明の大波に飲み込まれてしまい、その結果としての太平洋戦争の敗戦によって、祖先達が長い歴史を掛けて培って来た日本固有の精神が消え去って、限界集落という形で滅亡へと向かっています。この文章を書いている時に、TVでは理化学研究所の醜態が報道されています。トップを含め全組織が過度の欲望の中を泳いでいるにもかかわらず、一人の女性の行動を取り上げて悪意を論じています。資本主義社会を綱渡りしている現代日本文明の中に正義など存在出来るのでしょうか。ロシアがクリミアを併合してウクライナとの間で国際問題になっていますが、ギリシャ語に代えられたロシアの元の名はルーシといい、農耕民の東スラブがノルマンの支配を受けて生まれた民族でキエフに中心を置き、地方勢力であったモスクワはキプチャク汗国の影響を受けて勢力を伸ばしました。クリミア併合はアーリア思想発生の地での兄弟喧嘩のようなものですから当事者間で上手く収めて欲しいものです。西スラブにはボヘミアがあり、その美しい自然の中で育ったドボルザークは、現代文明の中心アメリカに渡ってもボヘミアの自然の美しさに惹かれて「新世界より」を作曲しています。彼はアメリカ文明の中に居ながらも、遠くからボヘミアの自然の創発の美しさを最重要視しています。アトランチックシティーの西日の当たる教会で、ゲーツ氏がバッハの讃美歌を聞かせて呉れました。それが何を意味していたか、バッハを理解していない私には全く分からずに過ごしてしまいました。ましてや、それが航空の安全に如何に関わっているかは、知る由もありません。しかし、他者を思う心が安全を導き、人が生きるということの本質であることは違う余地がありません。考え中