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≪国際民間条約機構(ICAO)の技術会議≫

新東京国際空港の視覚援助施設の設計に関わって発生したテーマを持って、モントリオールで開催されたICAO技術会議に日本で初めて参加しました。海外のTV番組でも三里塚闘争は報道されていて、進入灯用地が買収出来ないために独自の進入灯を開発し、その問題を乗り越えようとしていることは、ほとんどの出席者が知っていました。そのため休憩時間には、円卓会議の向いの席から、机上の資料を高くかざしたり鉛筆を立てたりして私に合図を送って来た人が多数いました。夕方には、次の日の会議資料を読むのに忙しかった私のホテルの部屋を訪れて、三里塚闘争の話を聞きに来る人までいました。その中で、ほとんど毎晩ウイスキーの瓶を下げて私の部屋のドアをノックしたのが、イギリスのジョンソン氏でありました。彼はイギリス女王から表彰を受けた光学の技術者ですが、私のどこを気に入ったのか、視覚援助施設に関するあらゆる部門について議論を吹きかけて来ました。翌日の会議資料の読解に難渋していることを告げると、毎晩各テーマの論点を要約して聞かせてくれて、それに対する私の意見を確認してくれました。初めての国際会議で英語力に欠ける私には、大変力強いサポートでした。彼は、日本に帰る際には、イギリスに立ち寄って彼の研究室を見て欲しい、香港まではイギリスが責任を持って送り届けると提案して来ました。しかし、その時はすでにアメリカ代表で世界の視覚援助施設の分野では最高の権威を持っていたゲーツ氏が、私の開発した進入灯は良いものであるが、国際的に他の部門からクレームを付けられる可能性があるので、ゲーツ氏夫妻と共にアメリカに立ち寄り、ワシントンのFAA本局とアトランティックシティのFAA研究センターに顔を出しておくように助言されて、その様に航空券を変更していましたので、ジョンソン氏の提案は断りました。この会議で幸運であったことは、通路を挟んで左隣の席にゲーツ氏が座っていたことです。自分の英語が通じるかどうかも分からず、イヤホンをフランス語に合わせて自分の発言が翻訳されているかどうかをチェックし、通訳がよどんでいると感じた時は同じことを別の表現で繰り返して話しました。ゲーツ氏の発言の様子を横から観察していると、相手の質問の内容を確認したり、自国アメリカでの調査の進み具合を話しながら、その間に巧みに自分の考えをまとめて発言していました。そのようにすれば分かり易い発言が出来ると思いつつも、英語での表現力に自信がなく、会議終了まで一度もその方法を試すことは出来ませんでした。会議終了後は、ゲーツ氏夫妻と共にアトランティックティーの自宅を訪問し、夫妻の留守中親類の家に泊まっていた12歳の娘さんがケーキを焼いて歓迎してくれました。日曜日には教会でゲーツ氏が歌うバッハの讃美歌を聞き、教会でのパーティーでは軍関係の夫人が多く、鎌倉や日光の話をしました。ゲーツ氏の研究室で、今では忘れてしまいましたが研究の歴史や多数の機器を見学しました。ゲーツ氏からは、世界の進入灯はアメリカ方式とヨーロッパ方式に大別され、それぞれに多くの研究機関の評価を経て、ICAOで採用されているもので、新空港という国策を救うためとはいえ個人の力で進入灯を開発し、世界の航空の安全に貢献して行くことは至難の業で、これからが大変であるが、貴方なら出来ると励まされた。別れ際に、もしも帰国後に私の開発した視覚援助施設に問題が起きた場合には、ゲーツ氏に直接手紙を出すように、そうすればICAOFAAが総力を挙げて援助する、またアメリカのどの空港でも見学したい場合は知らせて来るようにと言ってくれました。ゲーツ氏の指示でワシントンに向かいました。空港からホテルまでのタクシーの運転手は三島由紀夫の腹切りの話に夢中になり、広い道ではありましたが後ろを向いて運転しているので、何度も前を見るように注意をしました。時間をかけて話をしてみたく思う好青年でありました。FAA本局に徒歩で行ける所のホテルでありましたので、前日ではありましたがフィシャー氏を訪ねて明日の時間を確認しました。翌日、彼の案内で局長に挨拶し、数名の技術職員から新東京国際空港の施設全容についての質問があり、フィシャー氏の案内でワシントンのダレス空港に行き、運用中のCAT-V進入灯を見学しました。この施設には、国家としてのアメリカの航空の安全への意志が集約されていると感じました。低く垂れ込めた雲の下、宝石を散りばめた如く美しく維持されていました。一月前には名も知らなかった東洋人の私に、深い人間愛を持って接して下さったゲーツ氏とその指示に従ったFAA本局の好意に報いるためには、日本の視覚援助施設の安全性を高めなければならないと考えました。この宇宙の真理を、大天才松尾芭蕉は雉兎蒭蕘と表現しているのです。

PAPIの開発≫

 新東京国際空港の開港時は、コンコルドやB-747を始め長胴機の導入が始まった時代でありました。これらの長胴機では、最終進入体勢に入った時のパイロットの目が、従来の航空機と比べて非常に高い所を通過することとなりました。このために、進入角情報を提供する旧来の2BAR-VASISでは、オンコース信号の最低コースを辿った場合に、滑走路の手前に接地する可能性が生まれました。ICAOでは、長胴機用の高いコースと通常の航空機用の低いコースを示すことの可能な3BAR-VASISを開発してスタンダード・システムとしていました。この装置を新空港に導入するに当たって、設置条件を詳細に検討してみると、機器の配光の上部の白く見える領域と下部の赤く見える領域との境目のピンクゾーンと呼ばれていた部分が大きいために、情報としての不明確性や霧の中での光の波長ごとの減衰率の相違やパイロットの眼の色の影響等について十分に解明されていない問題があり、しかも長胴機も通常の航空機も同じパイロットが操縦する可能性が高いために錯覚することも考えられ、視覚援助施設としては成熟度の低いシステムでありました。そこで、何人かの職員の力を借りて各設置条件での設定角を図上で解析して、3BAR-VASISが設置の非常に難しいシステムであることを確認し、その旨をICAO技術会議で報告し、イギリス王立航空機協会(RAE)とアメリカ連邦航空局(FAA)とが連携して新しいシステムのPAPIが開発されました。ピンクゾーンの狭い灯器の開発がイギリスで進み、ジョンソン氏から新しい灯器が完成したから見に来てほしいとの連絡がありました。ロンドンに近いベッドホードの自宅の研究室に新型灯器が持ち込まれていました。夕方、5mほど下を通る道路を挟んで、向う側の倉庫の白い壁に白赤の境界の明確な配光が映し出されました。近隣の人達も集まり小さな祭りのような騒ぎでありました。日本なら警察に届け出が必要なのかも知れないと思いました。RAEの職員であるから許されるのか、それとも近くのパブに行った時、居合わせた少年少女から老人までに私を紹介するほどに気さくな人柄のためか、灯器の実験が笑い声の止まらぬ宵の祭りとなっていました。近隣の人達と北欧の夜空の星を眺めながら実験は終了しました。そうこうしている内に、FAAから新しい視覚新入角表示システム(PAPI)が開発されて飛行実験が始まったから見に来るようにと連絡があり、ゲーツ氏にも会いたくなったのでアメリカを訪れて、パプロッキー氏の操縦で薄暮から夜間にかけて大西洋の上空を飛んで進入を繰り返し確認実験を行いました。試作機器であったために見え方に何点か問題がありましたので、パプロッキー氏にそのことを伝えました。アメリカの東海岸の不夜城であるカジノ場のビル群の上空を何度も旋回飛行しました。その後、3BAR-VASISに代わるシステムとして、PAPIがICAOで採択(1980)され、工事局屋上に設置した灯器の性能を管制塔建物の窓から視認する実験を経て、PAPIが新空港にも導入されました。従来の3BAR-VASISの機能を解析せずにそのまま採用して航空機事故に至ることなく、事前にその欠陥を早急に取り除く(debug)ことが出来ました。…2014年8月21日のNew York Times紙によると、アトランティク・シティにカジノ場が許可されたのは1978年のことで、私は開業して間もなくの華やかな街の夜景を空から眺めたことになります。カジノ場でパプロッキー氏がいくつかのゲームを見せてくれましたが、麻雀やパチンコに触ったことのない私にとっては全く興味の沸くものではありませんでした。このカジノ場は、インターネット・ギャンブルが許可されたり、他の州にもカジノ場が出来たために、大規模な施設が経営に行き詰まって悲惨な状態にあるとTimes紙は伝えています。日本は、このような西欧文明の大雑把で短命な娯楽を真似るのではなく、それぞれの地域文化に根ざした息の長い娯楽施設を独自の発想力で開発すべきだと思っています。空港論にしても、ハブだスポークだとアメリカ大陸で発達した理論を得意げに話す人が沢山いますが、日本列島の形や周辺諸国の配置や航空輸送の機能を考慮した独自の理論を構築することが急がれます。

≪世界初の理論的維持管理システム≫

 視覚援助施設には、高速で近接するパイロットの眼の位置での動的角膜照度をあらゆる環境条件下で適正に保つことと、灯火パターンを長期にわたって均一に維持することとが要求されています。そのためには、機器の開発や設計・施工技術が重要な役割を果たしますが、それらによって達成されたシステムの機能レベルを管理する領域の仕事もあります。この領域では、ハードとしての機器性能とソフトとしての人間の判断とが、自然環境下で常時変動を繰り返えしているために、作業員の忍耐強い意志の継続が要求されます。日本では、敗戦後の駐留軍の支配下で管理されていた歴史があり、国内空港の維持管理の情況を見ましても、職場環境が暗く排水の滴るような作業場に保守員が追いやられていました。また、何を根拠に作成されたのかが不明確なマニュアルを用いて定常的仕事が繰り返されていました。空港として最も重要な要素である旅客機の3次元運動から2次元運動への移行の安全を守らなければならない組織が、このような状態に置かれていては、航空事故発生の確率を下げることは出来ません。大量輸送の時代に入り、航空機の着陸回数が飛躍的に増加すると、保守管理技術の急速な向上が避けることの出来ない緊急の課題となっていました。その上、離着陸前後の航空機の地上走行が輻輳するために、パイロットの視線を走行方向の中心線(pilot on the line)に向ける必要が出て来ました。このために、全べての走行路中心線に埋め込み型灯器を設置することにしましたが、曲線部への導入には運行経験者等から今では考えられない古いタイプの走行理論を用いて強い反対がありました。夜間の限られた時間内の作業で、これら多数の灯器を維持するためには、予め機能レベルを揃えた灯器を一括して交換する整備所方式が採用されました。先ずは機器の保管と整備作業のための広さのある建物が必要でしたが、現地から空港建設に使用したバラックが手に入り、整備所として準備が進んでいると情報が伝わって来ました。文通で収集した海外の情報では、保守職員の訓練が行き届いた有機的システムは見当たらず、新しいシステムの構築には手間取るのではないかと思っていました。暫くして現場からの要請があって、新装なった整備所を見る機会がありました。担当する会社の若い職員から保守作業の流れの中に存在する20項目以上の問題点と、その問題に対処するために自分達で開発した器具や労働環境の問題点等の説明を受けました。帰りの電車の中で、このような目の輝きを持った若い職員を採用して、この仕事に配属してくれた会社の新しい仕事への覇気に感謝すると共に、理想の保守作業員が成長するためには、可能な限り口出しはせずに、遠くからアイデアを流す方法が最適だと思いました。先ずは、現場に設置する灯器の品質管理のための配光測定装置と現場での性能をチェックする配光測定車の開発と一括交換をする周期の論理的解析法を考えることでした。

草創期の整備所

≪日本が初めて開発した灯器≫

 新空港の建設が始まった頃は、視覚援助施設のソフトとハードの両分野において、駐留軍時代の影響が色濃く残っており、FAAの開発した灯器を数個を輸入しては、全く同じ機能の製品を開発するといういう時代でした。「学」という言葉が「真似る」から来ている通り、このような時代を経験しなければならないのですが、家電製品等とは異なり、専門の運用保守員がシステムの信頼度を維持することが必要な機器では、この状態からは早急に脱却しなければなりませんでした。図面や文字で表現されない機器の性能と、システムとしての要求性能との乖離の度合いを熟知しなければ、長い年月を経過する間に、機器と技術との呼吸が取れない事象が生れるのです。この危険性を避けるためには、理想的には保守組織が関わって機器を開発することが必要となって来ます。一つの灯器を開発するためには、配光の成り立ち・航空機の衝撃荷重・静荷重・許容衝撃・路面の横滑り係数等々を解析する必要があり、ここで得られる理論と現実との乖離が維持管理の基本思想を構築することになります。昔、外国から原子炉を導入した際に、turn-key契約が問題とされました。先進国の優秀な学者と技術者が十分な性能を持たせて作った製品であるから、添付されたマニュアルに従って運転管理すれば、事故の可能性は皆無であるという思想の上の契約ですが、そもそもこの世にはそのような完全な製品は存在しませんし、全ての製品は何らかの性能の欠陥や運用保守の困難さを伴っています。マニュアルに従った運転管理では、運用保守員の技術がシステムの要求性能から遊離した状態に陥り、事故を未然に防ぐ知恵が啓発されないばかりか、発生した事故にさえ対応出来ない組織になってしまいます。製品の性能の欠陥や運用保守の困難さを熟知して、それを補填しようとする意志が運用保守員の技術を向上させ、次世代製品の開発にも力となるのです。それだからこそ、孔子は『論語』の冒頭に「学んで時にこれを習う。また、よろこばしからずや」という言葉を置いて、日々の生活を通じて「ああ、そうであったのか」と思うことの繰り返しが、人の生きることの美しさであることを伝えています。

日本人が創造した最初の灯器

≪配光測定装置の導入≫

 当時の世界の保守作業の情況を調べても、配光測定装置を設置しているところは見当たらない時代でした。スキポール空港だと記憶していますが、整備した灯器の配光を、1b先方に置いた段ボールシートに描かれた配光図に当てて輝きの濃淡をチェックしている作業を見て、その精度を云々するよりもその真摯な取り組みに感激したことがあります。視覚援助施設の目的は、各灯器の前方約1000mから数10mの間を高速で近付いてくるパイロットに適正な視覚情報を提供することで、その目的のためには、光学系の理論からして、20mの測定距離を持つ配光測定装置でも万全の機能を持っているという訳ではありません。この点が照明メーカーの技術と視覚援助施設管理の技術とに違いが生じるところです。この問題を忍耐強く追及することが、想定外の事故を未然に防ぐ重要なテーマなのです。そうは言いましても、日々の作業を許容出来る精度の範囲内で進めることは大切なことで、その手段として当時でも配光測定が重要な役割を果たしていました。しかし、遠方での動的適正角膜照度を確立するためには、20m先の立派な配光測定装置が、1m先の段ボール上のチェックよりも劣っている場合があることに配慮しながら、装置の改良を進める意志と努力が必要であります。周辺機器が急速に発達した時代ですので、ICAOの制定しているフライトパスエンベロープと走行時の情報提供空間を再確認することが重要であります。

≪配光測定車両の開発≫

 それぞれの位置に設置されている灯器とパイロット眼との間の光束の経時的変化を捕えることは、保守作業にとって必須の課題であります。当時の海外での配光測定車の情況は、開発途上であったり、開発したものの役立たずに蔵入りになっているものばかりで、参考に出来るものはありませんでした。測定車のサスペンション・タイヤの空気圧・走行技術・受光器の応答速度・舗装の状況等の影響を強く受けるために、最初は大胆で粗い開発が必要で、このような複雑な問題の解決には日本人の性格は適しているのですが、開発された車両を見た時に、保守作業に導入するのには前途多難であろうと思いました。取りあえず現場でのデータを集めてからではないと、改良の方法さえ分からない難問でした。暫くして保守作業を統括する立場になり、早速、全保守担当職員を集めて測定車の有効性についての討論を重ねました。大量のデータに基づく彼等の結論は、確率99.9%で保守作業の役に立たない無用の長物ということでした。どの職員の話をとっても正しい意見であり、このような結論の出ることは、最初から予想はしていました。そこで、皆の言う0.1%の有効な機能を抽出して、それを育てる方法を考え出すように指示しました。暫くして改良案が提示され、職員の努力で徐々に改良され、保守作業に導入されるようになりました。しかし、要求される空間光束の経時的変化を捉えるまでに、改善されているかは否かは不明で、後輩達の力量にかかっている問題だと思っています。レーザー光を用いた測量機器やコンピュータや高性能受光器等が一般化した現代の技術の下どのような発達を遂げているのでしょう。

≪一括交換周期の確認実験≫

 維持業務には定期的に保守する項目が多数あります。その周期は、作業量・人員・メーカー製仕様書等を勘案して決定されています。一定の職員を抱えた組織では、その作業の目的・周期を常時再検討して更新することが、組織の存在に関わる重要な課題となっています。例えば、滑走路中心線灯の一部に、メーカーで性能を管理した電球を一定期間設置して、気象条件や航空機の走行の衝撃等に曝した後の性能の変化を調査しました。このような地道な作業の繰り返しが、航空の安全確保の基礎となることを忘れてはなりません。

RAEFAAの職員による技術研修≫ 

 当時、FAAの若い職員達と話し会う機会があり、空港の最も大切な機能は離着陸を始めとする運航の安全で、その安全が確立されると魅力がある環境が生まれるために、人々が集まって来て多彩な経済活動をし、そのこと自体は問題ではないのですが、いつの間にか肝心な運航の安全の重要性が見えなくなっている。それを見えるように努力するのが、技術研究職員の役目であるが、最近はFAAでもこの部門の予算が削られて将来に不安を抱いていると言うことでした。そうは言っても、私的に訪問したことのあるスミス氏にしろジョンソン氏にしろ自宅に一戸建ての研究室があって沢山の機器を備えていました。このことからも、現代文明の本家である欧米社会が持つ運航の安全に対する尊崇の念は、東洋社会とは比較にならないほど深いことが分りました。その様に恵まれた環境の中で働いているアメリカ代表のゲーツ氏の穏やかで広い心を持って仕事に接している姿に驚きました。そこで、是非とも日本の後輩達に理想的な技術者の心の持ち方に接して貰いたいと思い、来日を交渉しましたが、ゲーツ氏の地位が高過ぎること等の事情があって実現しませんでした。そこて、博学なイギリスのジョンソン氏に来日を要請して、技術研修を行いました。その間、ゲーツ氏はいろいろと心配して下さって、私も面識のある国際色彩学会の著名な学者を推薦して来ましたが、研修が専門的になり過ぎては困るのでその旨を伝え、ゲーツ氏の部下のパプロッキー氏に依頼することにしました。私の思想上、学習項目を決めて予習復習をする研修方法は避けました。講師とは研修の内容について十分に話し合いましたが、職員には参加していれば自然に身につくものが大切だと考え、何も指示はしませんでした。しかし、研修が近付くと職員の机に英文に資料が置かれ、夜間シフトに出勤する職員の自転車の荷台にコンサイスの英和辞典が縛り付けてあるようになりました。自然に湧き出て来る職員の航空の安全への願いは美しいものだと思いました。これが日本人が数万年かけて到達した時空間の管理の精神です。現代は西欧文明の圧倒的力に制圧されていますが、その力が凋落した時に、日本人が回帰して行かなければならない崇高な精神の場です。

≪技術職員の海外研修≫

 視覚援助施設の技術の成立している時空間は、旅客・乗員とその家族…パイロットの視覚情報[適正角膜照度]…地上施設…空港技術職員とその家族という構造になっています。この時空間に関わる全ての人々が明日への希望を抱ける時空間を創造することが、運航の安全の基盤であります。この時空間の一部を構成している空港技術職員とその家族に対しても、明日への希望の中に生活する状態を創造しなければなりません。そのためには、出来る限り多くの職員が、世界の空港の活動状況に加えて視覚援助施設の管理の実情を総合的に見学して、自己の仕事の意義を再確認することが必須の要件となります。そのために、毎年何人かの職員を海外の空港に派遣することにしました。語学の出来ない人が海外に行っても成果がないのではという意見もありました。それは時空間の創発力を理解出来ない人の言うことです。英語が堪能な人の方は報告書を上手く書くために、素人目には成果があったように思えますが、技術の時空間にはその成果は残りません。ほとんど英語を喋れない人達が辞書を片手に苦労した経験の方が、組織としての成果は比較にならないほど大きいものです。この仕事していて最も感動したことは、保守業務を委託している会社がこの趣旨に賛同して、毎年若手職員を出張させてくれたことです。世界中で、これほどまで職員を育て、航空の安全に寄与している会社があるとは思いませんでした。

≪模型を使った進入灯の見え方実験≫

 自動車のように無数の運用経験のあって事故の影響が限定される場合は、マニュアルに従った保守管理を前提とするturn-key契約が有効ですが、視覚援助施設の場合は、情報パターンの背景が各滑走路によって異なり、世界中でも施設の数が限定され、その上事故の影響は計り知ることが出来ない状況になるシステムです。このために、保守運用を担当する職員が、常に施設性能の劣化を捉えて、最適の状態に維持管理することが要求されています。マニュアルというものは作製された瞬間に過去のものとなり、内容も限定的にならざるを得ませんので、保守職員を抱える組織では日々マニュアルを更新する意識を持って活力ある業務を遂行することが要求されています。そこで、照明学会の委員会に依頼して進入灯の見え方の調査研究を行うことにし、ミニ進入灯の作成作業を保守会社に依頼して、職員意識の総合的研修の教材と致しました。地上で保守運用する人々が、パイロットの視認情況と自分達の業務との関係を理解して、機器改良のアイデアを生み出し、更に進歩した情報へと発展し続けることを期待しました。この組織の躍動感が運航の安全の確立には必須の要件なのです。

≪新型停止線灯の開発≫

  エプロン内では航空機と各種車両の走行動線が輻輳するために、航空機を正確な位置に停止させることが要求されました。ことに大型機の場合には、自機のノーズが邪魔をしてパイロットに見えない前方地上部分が広く、前方に停止線灯を見て停止するシステムでは停止位置が後退し、しかも機体が長いので、通常の航空機の停止位置よりは、かなり後方に停止範囲を占有することになりました。そこで、パイロットに停止線表示灯が横一線に(abeam)見えた時に停止させるシステムを開発することになりました。パイロットが停止位置に近づくと、走行前方の中心線の両翼に赤色灯が1個ずつ現れて、徐々に灯火の数が増えて停止線を示す方式です。

                            ≪あとがき≫