日奉精神より見た成田空港  HP

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≪心境≫ 新東京国際空港の航空保安施設の設計・維持方式の開発については、直接担当した仕事であったので、今日までは何も記録に残さずに、この世を去ろうと思っていました。しかし、先年大病を患い療養中にTVを見る機会が増え、福知山線事故の日勤教育・北海道JRの連続事故・福島原発事故直後の対処・中国の新幹線事故・韓国大統領の船舶事故時の涙の記者会見や、それらの原因として東洋社会に蔓延する天下り体制の弊害の論評等を繰り返し聞かされました。現代世界文明の本家である欧米社会では、この種の想定外の事故を未然に防ぐ方法や発生した場合に対応する論理が不完全ながら整備されています。東洋社会では、西欧世界文明の表層を真似ているために、いったん事故が起きると根本的な対策が取れずに、その解決を時の経過にゆだねる状況が見て取れます。精々、ハードシステムと管理組織が形式的に導入されるだけの悲しい状況が続いています。あらゆるシステムの安全性は、そのシステムに関係する人と物の一期一会の連続する生命活動の中での他者への愛おしさから生まれるもので、権威や名誉から生まれて来るものではありません。資本主義という論理性の優先する時代の中で生きねばならない現代の私達にとっては、一人一人の生命が互いの安全を希求し合うシステムを構築することは、大変難しいことです。私の小さな経験を、以下に書いてみます。

≪まえがき≫ 戦時中であった幼い頃は、日本社会全体が一億一心を叫んでいた時代でありました。人間社会の創発性に価値を置いた縄文時代からの日奉精神を希求していた父には、非常に生き辛い時代でありました。歴代の日奉精神の継承者は、その精神[人間社会の創発性]を社会に顕現するために、山林や田畑における水エネルギーの循環[山林や農業からの収益]を用いて人々の集う農業集落を開発して来ました。南関東に真言・日蓮という大乗仏教が普及すると、その論理性の影響を受けて「利他行」という硬い呼び名の下でこの集落開発が続けられていました。科学や経済学が発達してしまった現代現代に生きる私達にとっては、人間の存在の真諦が見えなくなっていますが、農業集落を開発するという行為は、構成する人々が有能か無能かは従属的な価値と見做して、可能な限り多くの人々が元気に生活する中で、一期一会を繰り返す時空間の創発価値が人間の存在にとって重要だとしています。この一期一会の時空間に生命活動に、安全性の創発[中庸という難しい問題を含んでいますが]が潜んでいるのです。縄文時代の環状集落の存在には、当時の人々が認識していたか否かは別として、この時空間が維持されていました。環状集落に続く環状列石の建設では、一つの環状列石を作る行為が1500年間も続いたと言われていますが、このことは建設作業の継続が生きるということ[哲学]と同意義であったことを示しています。この価値観[日本的八百万神精神]は、人類の発生地であるアフリカから最も遠い東日本に、吹き溜まるように渡来した人々が獲得することの出来た人類の最高で究極の叡智であります。この古代日本人の叡智はユーラシア大陸の最東端の地である当地下海上国に最終的に生き残りました。その中心が六世紀末の一時期に、私の屋敷に位置していたと考えています。この時代は、アーリア系の分析知の影響を受けた儒教・仏教・律令という論理性に浸された人々が、朝鮮半島経由で日本列島に渡来し、列島での支配層を形成していました。しかし、彼等の階層構造思想[タカミムスビ神的]では、この列島に充満していた複雑系創発性に軸を置く縄文精神を統治することは難しく、その悩みの解決策として敏達天皇による日奉部の設置(AD577)があり、私の屋敷に居を構えていた下海上国造が奈良桜井他田宮へ招聘され、支配者層の中で日本人古来の複雑系創発性精神が追求されました。しかしながら、この時代は仏教や律令という論理性が急速に興隆して、日奉部自体もその中に取り込まれてしまいました。暫くして稀代の天才藤原不比や天武天皇が世に出て、官僚以下の一般大衆を統治するための一手段としてアーリア的な伊勢神宮を頂点とした日本神道と、民衆の生命活動の複雑系創発性を眺める天皇霊[安全性はここに潜んでいる]という二極構造(ambivalence-structure)が構築され、全世界に類例を見ない崇高な日本人としての精神性が構築されました。

 平安時代の後期には、アーリア系思想の一つである仏教が盛隆して、社会に天皇霊的精神の低下が進みました。この状態を憂慮した日奉宗頼は、武蔵国司を就任(AD932)したのを機会に、日本精神を回復するための社会構造を南関東に構築しました。その末裔平山季重は鎌倉幕府の重鎮でありながら、幕府に対して不即不離の関係を保っていたのは、日奉精神の維持に重点を置いていたからであります。

 鎌倉時代から江戸時代までの武家政権は、アーリア的貴種指向であったものの、インドのカースト制度でいえば第二段階のクシャトリア的地位であったために、実質的には精神における地方性が尊重されており、一定の条件さえ満たせば、縄文の心を伏流水とした日奉精神を維持することは許容されていました。明治時代に入ってアーリア精神の本流である欧米の思想が、長州藩を始めとする関西勢力によって日本列島全域に浸透させられると、人間社会の複雑系・創発性に価値を置く日奉精神は滅亡への一途を辿りました。この二極構造の滅亡の最後の情況が、父の香取海軍航空基地[成田空港の4分の1]の建設への協力を引き換えとしての、国民健康保険制度[農業集落の開発と同じ意義]を生み出す仕事でした。この間を通じて、父は日奉精神を論理的に説くことはなく、五・六歳の私に仕事の現場を傍観させ、その帰り道に山野を散策しながら、万葉集・ベルクソン・夏目漱石等を使って宇宙論・時間論を繰り返し話していました。これが差し迫った敗戦を意識した父の遺言であることは、幼い私にも十分に理解出来ていました。

 野山を散策しながら語り続ける話は、覚える必要は全くなく、その環境の中で木々の梢や草のそよぐ動きとの一体性を感じることが大切だと思っていました。夏目漱石の有名な『草枕』の「智に働けば角が立つ、情に掉させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい、住みにくいからと言って引っ越すわけにもいかず、人の世は住みにくいものだと悟った時に、詩や画[苦悩と煩雑の超克]が生まれる」という書き出しを使って、人の世の成り立ちを説いていました。海軍兵士へ訓示をする場合でも漱石の非人情の境地を、国民健康制度の創設に関わる人々を集めては、万葉集やクオヴァジス等いろいろな古典について話していました。この訓示や古典の話をしている時空間は、父にとっては漱石の言う詩や画の世界でありました。幼児の私には、訓示の流れる時空間や古典を説く西日の射し込む小部屋に、日奉精神の真髄が潜んでいると認識していましたし、それを何らかの形でこの世に表現することが、私の生きる道であることは理解していました。彰義隊の上野戦争の際に砲声の聞こえる三田で講義を続けていた福沢諭吉を例に、団結を強要するのは西欧の思想であり、一億一心では日本社会は行き詰ってしまうと説いていました。

新東京国際空港公団へ≫

 明治維新以後の財政貧困な国家では、地方の公共事業には手が回らず当家はその支援を余儀なくされました。そのために幾度となく我が家は崩壊に瀕しました。その最後の崩壊が敗戦後に訪れました。そのような中でも、父は日本中で私一人ぐらいは、学校に行きたくなければ行かなくともよいから、秋空の巻雲を静かに眺めて大自然の語り掛けに溶け込める人間になるようにと、何十枚の欠席届を毛筆で書いてくれました。そのような訳で、滅亡したとはいえ私にとってこの屋敷が、法華経でいう「法位に住し」ていて・華厳経でいう「真珠の網の一つの真珠」であると確信していました。就職する際も、職場が家に近いこと、生涯の目的である日奉精神の解明に支障のないことを条件にしていました。幸運にも冨里に空港が出来ることになり、それを待っていましたが、いろいろの変遷があって三里塚に出来ることになりました。就職してみると、エアポート・オーソリティーとは名ばかりで、社内には自前の研修もなく、空港の論理を説く人も全くいませんでした。私は日奉精神に関わる者として、論理性を避けなければならない人間なのですが、この状態では多数の生命の安全を守る空港の職員にはなれないと焦り、その日暮らしをしている若手職員を集めて国際法・国内法・技術書を読む会を作り、その不明な点を書き出して、それを解決することから始めました。

≪空港計画室へ≫

 そのような日々を重ねていたある日の午後、国の補佐官として新東京国際空港の基本計画を策定された人がやって来て、新しい進入灯を作ってほしいので、空港計画室に来るようにと言われました。その人の条件は、これまでに集めた資料は全て渡す、国際法・イギリスのRAE・アメリカのFAAの技術資料および照明理論に適合するシステムを開発することと、その開発には一切口出しはしないということとでありました。私の方の条件は、空港計画室が権威の象徴としている予算編成には一切関わりたくないということでありました。この条件に対しては、公務員は律令時代の大蔵省から始まっていて、金庫に近いところにいるものだと説得されましたが、私は口には出しませんでしたが日奉精神の継承者として、地位や名誉に執着するようではシステムの安全は生まれて来ないということを確信していましたから、そこは譲れず物別れ状態で、緊急性の高い進入灯の開発には同意しました。要するに空港計画室全員が予算編成に奔走している中で、一人孤高を維持出来る気力があるなら、それはそれでしょうがないということでした。長期にわたって、この問題ではいろいろと苦労されておられたようですが、その後一切口にされませんでした。

≪世界に類例のない進入灯の開発≫

 世界中が航空機着陸支援システムの標準化に向かう趨勢の中で、絶対に航空機事故の原因とならない新しい進入灯システムを個人の能力で開発することは難しいことでした。さらに民間空港の場合は、風向に合わせて滑走路の舗装の両端から離陸が開始されるために、釣り合い滑走路長の理論が適用されるという条件の下での開発ということになります。

釣り合い滑走路長

 その上に、航空保安用地が土地収用法の対象となっていなかったために、進入灯設置用地の形状や障害物件の位置が土地の買収状況に従って日々変化する状況下にありました。新しい進入灯の開発の成否によっては、新空港そのもの基本計画に欠陥があったことになり、裁判で用地の買い戻し権が発生する可能性もあるということも聞かされていました。このために、毎晩7時のNHK-TVトップニュースで進入灯用地の問題が取り上げられ、国会質問主意書の回答案の作成等の雑用が多く、なかなか国際民間航空機関[ICAO]やアメリカ連邦航空局やイギリスRAEの技術資料を読み込む時間もなく、私的に旅行する際は急行には乗らずに各駅停車を選んで資料を読む時間を作っていました。旅先からも定期的に起点となる人に電話で情報を確認するだけで、携帯電話のない時代でしたから現代の人達の様な仕事からの束縛感はありませんでした。

 進入灯の国際標準方式としては、平坦な用地の場合の建設費がほぼ同等という条件下で、情報の冗長性に重きを置くアルパー方式と、情報の質に重きを置くカルバート方式とが採用されています。アメリカでは世界各地に多数の基地があり、航空灯火に知識のない電気作業員が保守する空港が多いために、アルパー方式が採用されています。日本の場合は、アメリカ軍の占領下で発展したために、必然的にアルパー方式が採用されて来ました。新東京国際空港の基本計画を策定した人達は、他の要因もありましたが、この占領下の情況から脱皮する意志でカルバート方式を採用したそうです。新空港の南北方向に配置された4000m主滑走路の当時の土地の買収状況は、南北共に4000mの離陸走行は期待出来ましたが、着陸走行には北側が約200m・南側は約1000mの末端の内側への移設が要求されていました。この設計条件下で、精密進入カテゴリーU運用を考慮しながら、国策である4000m滑走路という基本計画を実質的に満足させることが、進入灯開発の使命でした。北側はカルバート方式を残す方針で内々に非標準進入灯の設計を進めていました。南側は進入灯のパターンを根本から開発する必要があったために、情報の質よりも冗長性を高めることに重点を置き、アルパー方式の変形を用いることにいたしました。この判断の要因は、灯器自体の機能不足と保守技術の習得が間に合わないことでした。進入灯システムの開発は、国際法における標準化の大勢の中にあっても、1968年前後の国際法の各条項には各国の実状を救うための多くの但し書きがあり、その点に関する各機関のウワーキングペーパーを取り寄せて検討してみると技術的には問題なく、国際法を満たす新しいシステムの開発が可能であることが分かりました。そこで、将来の土地収用法上の裁判への対応を考慮して、国際法への準拠点を一項一項について確認しながら設計を進めました。しかし、敗戦国の悲しさで、新しいシステムの構想は出来ても、その要求を満たす機器がなく、外国製品の物まねをすることは理解されても、日本独自で作り出そうとする意欲を関係者に持たせるには時間が必要でした。しかし、この意欲が航空灯火システム全体の安全性を数段と向上させることになるので、日本独自の開発を強力に推し進めることにしました。それでも構成する機器の内には性能不足の問題が残り、科学的実験を重ねて一応の解決策を見出しました。そうこうしている内に、北側用地の立木伐採が進み、南側だけの進入灯を開発すれば良いことになりました。滑走路の使用形態の4分の3が4000mに対応出来る進入灯が開発され、民間空港に適応される釣り合い滑走路長の思想を満たす4000m滑走路が完成し、事業認定上の問題も解決され、日本初の新しい国際空港が開港しました。

 空港の最も重要な機能は、高速で進入降下する航空機の三次元運動から滑走路上の二次元運動への移行を安全に行うことです。着陸時の上下方向の一次元の減少は、地表という物体(obstacle)が瞬時に障害物件(obstruction)に変化させる可能性を潜在させているするために、滑走路表面に施される塗装標識と共に、この宇宙で最速に伝搬する電磁波を使って、理想の進入コースからの偏位と速度を精密にコントロールするシステムが滑走路末端周辺に構築されています。その一つが波長の比較的長い電磁波である電波を使ったILS[計器着陸装置]であり、もう一つが波長の短い可視光を使った航空灯火です。勿論、滑走路上の標識も昼間の反射光を用いた情報で、その面積効果は進入時の基本情報として重要な役割を果たしています。ILSの地上からの情報は航空機に搭載されたアンテナで受信されてコックピトのそれぞれの機器に伝達されますが、航空灯火の情報はパイロットが視認するもので、アインシュタインが言う通り光には色はなく人間の眼の視細胞の働きによって認識される心理物理量です。

フライトパスエンベロープ

 1903年のライト兄弟の初飛行以来、飛行機の離着陸は、初めは昼間に限られていましたが、やがて夜間の着陸も必要になり、最近では霧等の悪天候でも清澄な昼間と変わりなく安全に離着陸出来ることが要求されています。その上に、航空輸送の大衆化が進み、あらゆる気象条件下で安全な運行が継続されることが、人類に課せられた最重要のテーマの一つとなっています。離着陸時の安全は、パイロットの操縦技術を始めとする航空機側の技術の向上と、それを支援する地上側の施設の向上とよって成り立っています。この内、新空港の視覚援助施設について、新しい進入灯はじめとする全システムの開発を担当しました。その折に考えていたことは、松尾芭蕉が『奥の細道』で、松島から平泉へ行こうとして雉兎蒭蕘(チトスウジョウ)[雉やウサギを狩る猟師や木こり]の行き交う道で迷って、石巻の港に出たという記述でした。当時の石巻港は東回り廻米[約三十三万石]の最大拠点で、芭蕉の歩いた道は4bの幅があり、その上に弟子の曾良が付き添っていたので道に迷うはずなどはなく、芭蕉の文学的表現だそうです。だからこそ、この記述には芭蕉の大切な思想が内蔵されているのです。自然発生した道は、最初は獣が自身の安全を考えた通り道を作り、その跡を追って猟師や木こりが、人間にとって安全なルートに改良します。暫くすると、通行人以外の人達も加わって道標や柵や休憩所が設置されて、より安全な道路へと成長して行くのです。芭蕉は松島から直接平泉に行く予定を変えて、石巻への街道を歩きながら、目の前の道に集約されている古代からの人々の安全への願いに感動して、雉兎蒭蕘の行き交う道で迷ってと表現したのです[芭蕉の他の俳文に、心は高きに遊んで、身は蒭蕘雉兎の交わりをなしとあるそうです]道路と同様に航空機の着陸進入コースの場合でも、『星の王子さま』の作家サン・テグジュペリの作品に、アフリカの夜空を飛行場の灯りを求めて彷徨うシーンが何度も出て来ますが、このような多くのパイロットの安全な着陸への願いが、飛行場への進入のコースを確立し、そのコースを辿って降下して来る航空機を地上で待ち受ける人々の安全への願いとが相まって、フライトパスエンベロープが構成されているのです。エンベロープ内を高速で近づくパイロットの眼の位置での地上灯火からの角膜照度という物理量に着目して研究は進められますが、実際のパイロットの視認は心理物理量として再評価されねばなりません。このようにして定められるシステムの完全性(system-integurity)は冗長性(redundancy)設計によって強化されます。その状態を長期にわたって維持する(maintain)ためには、深夜滑走路上で作業をする人々の意識を如何に高めて、穏やかに安定させるかという重要な課題があります。この維持の分野は敗戦の影響が強く、羽田を始め国内空港では遅れていました。文通で知り得た海外の情報ではかなり進んでいると想像していました。しかし、北米やイギリス・オランダの空港を実際に見学すると、季節労働者等の問題もあってお粗末なものでした。『貞観政要』でいう創業と守成の間を、技術が循環することが安全を確立するための理想なのですが、先ずは新しいメンテナンスシステムを創造することから始めねばなりませんでした。安全ということの真諦は人が生きるということで、それはパイロットの後に座っている数百人の乗客と地上で維持運用に携わる作業員という多くの人々の安寧を思い続けることによってはじめて達成されるものです。        次のページ