日奉創発の会  HP

日奉創発の会  HP 

 日本が敗戦に向かっていた1943-44年頃には、当地はアメリカ軍東京侵略隊の上陸の予定地になっていた。上陸隊を迎撃するための砲台の整地工事だけがあちこちで行われていた。上陸される際には、サイパン陥落時等の情報から2万b以上は射程距離のある艦砲射撃で、九十九里浜一帯の丘陵は変形し、村々は全滅すると聞かされていた。最古の日本人の心とされていた日奉精神の伝承をどうするかが重要な問題であることを竹山の木漏れ日の中で聞かされた。5歳前後の私に、万葉・古今の和歌やガンジー・ベルクソン等々の話が野山を歩きながら口承され、教える側での日奉精神の理解が十分でなかったために、本居の「もののあわれを知る」ということを最重要なテーマとして、支離滅裂な話を連日のように少年の頭に叩き込まれた。子供ながらに名前を知っていた大天才オッペンハイマーが作り出した強烈な爆弾[原爆]を落とされて真っ赤に燃え上がる東京の火柱を遠望しながら、東北地方の山の中に着の身着のままで逃げ延びる自分の姿を夢想していた。その際に今の北朝鮮でコッチェビ(花ツバメ)と呼ばれているような乞食小僧同然の少年を東北地方の誰かが拾って育ててくれる中で、少年の頭の中の日奉精神が再生することを願っていたようだ。しかし、現実の歴史はそのようには展開せずに、昨日まで鬼畜米英思想の玉乗りをしていた優秀な大人達が、今度は平和国家・文化国家の玉乗りを見事にこなす時代に入った。その時に日奉精神は今日明日に消滅する危険性は去ったが、その存在すら必要とされない社会になってしまった。それから60年が過ぎ、日本社会は発展に発展を遂げて表面上は素晴しい社会に到達したが、社会の根底において何か大切なものが欠落していることは、最近の社会現象を見れば明らかである。傀儡性が潜在する敗戦国の社会では避けられないことではあるが、このように戦後社会が品性を失った原因は、知識や論理に優れた人々の行為が必ずしも社会のあり様[宇宙の意思]と一致しないことにある。人類の発祥地点アフリカから最も遠い地域に住む日本人は、人類の東方への進出の過程で、人類の知識や論理の行き過ぎに繰り返し繰り返し修正を加えた思想を受け入れることが出来た。日本列島に古来より集積している思想構造を読み解くことによって、宇宙の意思に適った新しい思想の姿を求めてみることにしている。

T.こころの二相系

 私達の生きている広大な宇宙は、目に見えない小さな小さなエネルギーの塊が突然爆発して出来たという。この爆発には光が大きな役割を果たしている。光エネルギーは宇宙で最も速く移動し、宇宙の動の意思を代表している。光エネルギーが移動する過程で非常に稀にではあるが、粒子と反粒子が生まれその粒子と反粒子がまた一緒になって光エネルギーに戻る「対生成-対消滅」と呼ばれる過程が繰り返し繰り返し起きた。この現象が繰り返されている内に、粒子と反粒子の釣り合いが取れない場合が生じ、粒子である電子が残って物質エネルギーが生まれ、宇宙の静の意思を代表することになった。こう見てくると、自然界は互いに相手の存在を左右する二極からなる対構造[相互包摂型対構造]が基本となっていることが判る。

 下の絵は、西欧のコンクリート製の家や現代住宅とは異なり、外敵や基準などという言葉からは遠い、自然に溶け込んだ人間の生活を描いている。天文学者・哲学者・芸術家等が自然界の諸象を追求し表現しようとする意志は、人間の脳と自然界とがこの相互包摂型対構造を形成していることから生まれる。漢民族は昔は夏華族といい、夏は人間の心で・華は自然界の心であると聞く、詩経世界と楚辞世界の相違[社会思想の対構造]も外来する論理性に対する受容体内の偏りを示している。このことは、中国民族が三大文明やギリシャ・ペルシャ等の西方文明を受け入れる際に、大地湾遺跡と紅山遺跡の間やその下部構造として半跛遺跡と廟底溝遺跡の間に対構造を形成した人々の末裔であることに通じている。この中国文明が日本列島に伝来した際にも九州と大和の間に二極構造が存在した。更に、大和王権に対して房総半島では、上海上国と下海上国[日奉精神の揺籃地]の間に対構造が出現した。すなわち、人類社会にとっては対構造を作って相互に評価し合いながら、外部からの刺激を受容することが最適の手段であった。この構造は時間と空間との関係からも判るとおり、相互包摂型対構造相[共軛構造]である。

ベンガル派

 当家では鎌倉期から織豊期まで(AD900-1600年頃)は武蔵国と下総国との間に共軛構造を作り、その後はこの武蔵国と下総国との中心江戸に徳川氏が幕府を開いたことによって、下総国内の多古と鏑木の間に共軛構造(AD1600-1945年頃)を作って、それぞれの時代の支配体制との距離を確保していた。この共軛構造の中を見ると、西側に位置した一族は文明の影響を受容した精神を保ち、東側に位置した一族は文明に距離を置く精神を保っていた。すなわち、東側[日奉精神の揺籃地]に古来の精神を残そうという構造になっていた。この古来の精神は縄文の心といえるのであろう。私達が風景を眺めている時は、物質エネルギーとして時間を内部に止めた物の表面反射光を見ている。この経験の蓄積[脳だけではなく体全体への]が私達の記憶を膨らまして新しい価値の創造へと向かう。同様の過程は見られている風景側にも微量に起こり、双方の存在が風土[物質や記憶のエネルギーからの時間の湧出]を作って、各土地に特有の文化を作り出しているのである。この文化が外来の情報を取り入れる場合に、積極的に取り入れる部分と敬遠する部分に分かれての対応することが最適な対応であることは、組織保持の面から宇宙空間に本来的に備わったものであろう。ただここ5千年間位は、論理性を至上価値として追い求めて来ている人類社会にとっては、地球上各地の固有の文化の保護が重要なテーマとなっている。

U.対構造の歴史

 社会の対構造は旧石器時代(3万年前)の下触牛伏[群馬]や松尾四つ塚[千葉]の環状ブロックや、縄文時代(6500年前)の中野谷松原遺跡[群馬安中市]の広場を中心とした環状集落に見られる。最近その環状が東群と西群の二つのグループに分かれることも判り、縄文時代の東日本の多くの環状集落でも二つのグループで構成されていることが徐々に明らかとなっている。環状の中心部に、墓や捨て場や共同作業場や何もない空間を置くことは、当時の人にとって集落の中心が過去の集積であり、霊の宿るところであり、時の表現であったからであろう。現代人は星空を見上げると、ビッグバンから数光年後までの過去、そして亡き人々と過ごした日々の光に包摂されて,自己が存在することを知ることが出来る。その大宇宙の中で、時計を持たない縄文人は「時は霊、時は心」と感じていたのであろう。少し時代は下るが、この種の環状集落の現れるのが、イギリス・シベリア・ベトナム・オーストラリア・アメリカ・中国・日本と三大文明の発生地の周縁地に多いことから、外部からの論理的刺激を咀嚼して受け入れるには対構造を基本構造とする環状集落が最適なシステムであり、それらは自然界の在り様を支配している対構造が人間社会に姿を現わしたものである。この環状集落は人口が増えて社会に流動性が要求されると、離れた地点間の共軛構造へと横に伸びた姿に変化して行った。

≪松尾四つ塚遺跡≫3万年前

 5500年前の三内丸山遺跡は、中国内モンゴル自治区の興隆溝遺跡との関係で脚光を浴びたが、東北地方北部には興味を引く遺跡[是川・亀ケ岡・大湯等]が多数発掘されている。その中でも4500〜4000年前の御所野遺跡[二戸郡一戸町]の環状集落には東と西の集落の対構造を見ることが出来る。この遺跡は宮城県を中心とした作りのしっかりとした大木式土器文化圏と、北海道渡島半島を中心とした細身の清楚な円筒式土器文化圏とが重複した地域にある。その上、縄文時代中期の終わり頃には、南に位置していた大木式土器文化圏が北に勢力を伸ばす傾向があって、関東の環状集落[縄文の精神性]の北への伝播を暗示している遺跡である。資料によると、この遺跡の中央部にはストーンサークルの配石遺跡があって、それを現代人的に解釈すれば日時計の原型であろうが、縄文的には環状中空の尊さを立石で表現していることになるのであろう。

≪御所野遺跡≫(一戸町教育委員会作成)

 シベリアから東南アジアにかけての環状集落の存在した地域からは玦状耳飾と呼ばれているものが出土している。これらは対構造における中空の霊力=時間=心を表した宝物のように見える。中空が最も大切なところで、切り込みは対構造を表しているのであろう。この中空が鏡磐や鏡や太極図[周代]に進化するのは、もう少し時代が下ってからである。

 暦法・道教・儒教・仏教・漏刻等の外来の論理性に包まれ始めた大和王朝の一部では、時空を包括的に捉えることの出来る縄文の太陽信仰の重要性が増した。そのため、敏達朝では日奉部(577年)を創設して房総半島[下海上国]に残存していた縄文の精神を吸収し、壬申の乱(672年)後に伊勢神宮を中心とした古神道を完成させた。そのことはこの時期に大王がスメラミコトに変わることに成功したことにも表れている。すなわち、環状集落・東西構造集落・ストーンサークル・玦状耳飾等の中空部に宿る過去を包摂した今時[対象が宿す時間の湧出]への理解が深まったことを意味する。生活に関わっている「刻まれる時(現代人の時の認識)」と心に関わっている「過去を包摂する今時(縄文人の時への畏敬)」という「時間の両義性」の理解によって中臣氏の確立とスメラミコト体制が成立したのである。・・・現代西欧文明は複雑系等の学問の領域で、この「こころの二相系」を追求している。しかし、日本人は縄文時代からの長い月日を費やして、その二相系を心の中に宿している。大天才アインシュタインが訪日した際に日本の人々が内蔵するこの心に感動して、「ドイツでは個人主義・競争・贅沢や幸福の追求のための熾烈な闘争があるのに、日本人は自然と一体化して感情や憎悪をあらわにしない世界最高の心を持っている。日本国民は欧州に感染しないで欲しい」と述べている。全人類はこの日本人の「心(時)の二相系」の中に、その未来を見出す以外に地上に存在することは不可能であろう。

◎最近は自己組織化という難しい話があり、細胞系でも自己触媒作用が価値を創造するらしい。また、DNAの二重ラセン構造は生物系の価値表現の顕著な例である。

◎宮沢賢治『永訣の朝』には「銀河や太陽、気圏と呼ばれた世界の 空から落ちた雪の最後の一椀を・・二切れの御影石材に みぞれは淋しく溜まっている 私はそに上に危なく立ち 雪と水の真っ白な二相系を保ち 透き通る冷たい雫に満ちた このつややかな松の枝から 私の優しい妹の 最期の食べ物を貰って行こう」とある。・・この場合、雪と水の二相系は生き残る自分の心境と死に行く妹の心が共存する切ない時の流れを表し、生命の真実を伝えているのであるが、そのことは上述の「心(時)の二相系」を文学的に表したもので、雪だけでも水だけでもだめで、二相系で初めて宇宙の真理を伝えることが出来、最期の食べ物になったのである。

◎アインシュタインは1922年に日本を訪問した際に「日本人は天皇制国家主義[論理性]と二千年来のムラ社会的同型性というアンビヴァレント[両義的]な割り切れなさを持っている」と述べ、「感情表現を抑圧する躾が繊細な感情や同情心を育てた」と分析している。目の前に現れる事象に耐え悩むことによって始めて体得される感情を社会に蓄積することが大切であることを示している。