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精神活動の基線(base-leg) HP
戦争の激しかった年の晴れた冬の日に2人の海軍の青年兵が訪ねて来た。毎日のように兵士の出入りがあった時代なので特に変わったことではなかったが、若者が客として奥の間に通されたことで大切なことが話されていることは周囲にいた人達にも直に判った。話が終わり庭に出て皆と歓談しているうちに、小柄な方の青年兵が幼い私を強く抱きしめて何も言わずに帰って行った。この時、硫黄島に特攻する若人達に志貴皇子の「石ばしる垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」の歌を用いて「人が生きるとは何か」を説いたということは後になって知った。父の話を聞いて数分後に幼い子に胸を合わせて伝えたかった無言の遺言は、「物のあわれを知る」という日本人の心が理解出来るようになれば自然に解かるであろうと思っていた。しかし、あれから60年を経過し当時の青年兵や父の年齢を超えても、彼等の間で了知された悟りの境地を理解出来ずにいる。和歌の作者志貴皇子は天智天皇の子であるために皇位からは遠ざけられ、志貴皇子の子光仁天皇は62才まで酒に溺れた振りをして皇位に就き天武系の皇后・皇太子を殺して現皇室の系統を確立した人である。追い詰められていた志貴皇子がこの歌を詠むまでに心を研ぎ澄ますことが出来たからこそ現在の皇室があるといえよう。最近のTVで月周回衛星かぐやが撮影した月面に上る地球の写真を見た時に志貴皇子のこの歌が脳裏を駆けた。「人間が生きる」ということには「心のあり方」が重要な要素であり「心」は時空を構成する時の働きである。時については仏教や道元やアインシュタインやプリジゴン等々が説明され、ホーキングに至っては虚時間という空時の冥合のような私の理解を超えた話がある。これらの優れた学説は畏敬の念を持って理解したいと思っていれば良いことであるが、厳しい境遇にあったからこそ志貴皇子が詩歌で捕らえた時空は日本人として理解しなければならないことである。このような訳で当家に伝わる1500年の地球上の時空を基線にして、日本・世界・宇宙の事象を探索している。
★鏑木古墳群(115mの前方後円墳の御前鬼塚・7世紀初)を造営した人々の長であった下海上国造は577年に敏達天皇の創設した日奉部に関わった。縄文精神の伏流水である日奉精神が歴史上に表われた最初である。当時の仏教伝来による社会の論理化に対抗する精神であったが、波状的に押し寄せる論理化の流れに吸収されて消滅した。
御前鬼塚
★始祖日奉大明神を祭る日野宮神社(930年頃):日奉宗頼は932年に武蔵国国司に任官している。当家の系図ではその後に隠岐に流罪になったという。理由は書かれていないが将門の乱の直前であり、武蔵国の人々の精神と都の人々の精神の違いに感動し、彼の東国精神への憧憬がその原因であったことは、後の鎌倉幕府内での関東武士の精神のあり方から見ても明らかである。
日野宮神社
★平山城址(1100〜1200年頃):6代平山始祖季直・7代季重は、源平の合戦以前から那須氏・千葉氏とは盟友関係にあった。また、頼朝の佐竹攻めに参加したことから茨城県内にも恩賞地があってその地とは後代まで関係を保っていた。日奉氏には立川氏・横山氏等いくつかの別流があり、平山氏もその一流である。日奉城の多摩川に対する位置関係と平山城の淺川に対する位置関係が近接酷似していること、季重との年齢差の関係もあろうが頼朝に対して武者所を称し続けたこと、城のある丘陵地を日奉の峰と呼ぶこと等によっても平山一族が日奉精神という坂東の両義的精神を正確に継承していたことが判る。
平山城址公園
日奉の峰社
★大悲願寺(あきる野市五日市町:1191):7代平山季重が源頼朝の監視の下に真言宗豊山派の寺院を建立した。この建立は関東に新入りの中央指向勢力[頼朝]と坂東武士[季重]との力の均衡の上に実行された。西行が奥州への旅の途中で頼朝に招かれた時に土産に貰った銀の猫を門前で遊んでいた子供に与えてしまった話がある。この話を縄文の心と中央指向精神との均衡と見ている。後の時代の話になるが、伊達政宗は秋川でアユ釣りをした折(1622)に、この寺で休息して白萩を楽しんだ。一株ほしいと思ったが言葉にすることが出来ずに奥州への旅についた。仙台に帰ってからも忘れられず、早馬を飛ばして一株所望した。これも縄文人の心であろう。
大悲願寺
★日蓮聖人(1222-1282):鎌倉に在住していた平山9〜11代の時代の人だから、当然風聞は入っていたろう。南総の太陽信仰を十分に吸収した思想で、当初から日奉精神と通じるものがあった。
★日持蓮華阿闍利(1250-1295-1300):日蓮より御本尊を建治2年(1276)に受け、弘安5年(1282)に身延本応寺[窪之坊]を開いた。永仁3年(1295)に「一天四海皆帰妙法の旅[東部環球巡錫]」に出発し、東北・蝦夷地を布教して、アイヌの交易船で沿海州に渡り、中国北京の西の宣化で高僧として布教したという。東に伝播して来た思想の返し波効果で、元帝国への単身での壮烈な伝道である。宣化古文書が数点発見されていてその真偽が問われているが、「異郷で病に臥し、日蓮と父母の面影を慕いて涙を流す」「飛び去る雁を眺めて、望郷の念にかられる」という詩は人間日持の心であろう。「本化別頭仏祖統記」を著した日潮の時代に、この窪之坊と当家が深い関係にあったことは多くの古文書から明らかである。東部環球は地球が球形であることをコペルニックス(1473-1543)以前にすでに常識になっていたことが判る。
日蓮が日持聖人に授けた御本尊(1276)と渡航経路
★13代平山季信(-1372)は、中山3世日祐(1298-1374)に入門して日擁入道[太陽を心に抱く=日奉]と称して、多古町の浄妙寺(1346‐61)を改宗建立し、東京あきる野市上平井には日輪寺[願主平山民部大輔景朝]を改宗再建しその完成は死後の至徳元年(1384)という。季信は足利尊氏には協力したものの、幕府とは不即不離の立場をとるようになった。仏門に入ったのもそのためであろう。応安5年7月(1372)10日に入寂。当時の寺は大衆の教育・医療・情報管理が主であるが、実態は城と変わりはなかったと思う。日輪寺は後に戦いの中で焼失している。当時の浄妙寺は今とは別の場所にあったが、飯高談林・中村談林の成立に重要な影響を与えている。この後も、後北条・徳川という新入り支配に対する非体制思想の基を築いた。
壷岡城(1330-1590頃)
法性山浄妙寺〔改宗創建〕
文和5年(1356)日祐聖人
★24代光義[天文15年(1546)生]は北条氏康と戦って敗れ、藤橋城[青梅市]は永禄6年(1563)に落城した。
藤橋城
★竹林山妙光寺は千葉氏により浄妙寺(1346)と同時代に真言宗より改宗創建された。その後(1580頃)に25代平山図書光高は源平合戦以来の友族那須氏と共に中村地区の拠点として竹林山妙光寺として再建し、島城から鏑木城に入城し帰農した。
〔再建〕
★商人武士北条早雲の小田原入城(1495)により、坂東武士の両義的精神は風前のともし火となった。当家では、池上11世仏寿院日現(1496-1561)の説く不受不施義によって、日奉精神を補強していた。
★鳳凰山玉林寺(1339:あきる野市五日市、臨済宗建長寺派):桧原城主24代平山氏重再興
★天正10年(1582)に24代季邦は累代神霊供養(日奉精神)を父和泉守季助の七回忌に建立した。
★25代光高[幼名愛千代麿]の『武運長久祈』(身延山16世日整:1577)は、日奉精神の消滅を考えなければならない厳しい時代の一族の願いである。光高の伯父氏重はの小田原攻めの時(1590)に前田利家連合軍に桧原城[東京都桧原村]を落とされ自害し、光高の妻の父刑部少輔は飯高城を日蓮宗の飯高檀林として退いた。その後、秀吉からは一族に配下に入るよう勧誘があったが全てを断っている。秀吉側との距離を取り得たのは、日蓮宗と上杉氏を介しての情報網のお陰であった。岩舟地蔵は光高の父藤橋城主光義[東京都青梅市]の妻鶴寿姫の念持佛だと檜原村教育委員会が説明している。多古町中村地区は古来から日奉精神の盛んな所であったが、光高が下海上国の中心の地である鏑木に労せずして入れたのは千葉氏や日蓮宗の後援があってのことであろうし、一族に日奉精神を実現する村落の建設と言う強い意志があったからでもあろう。なお、日本寺と呼ばれている中村檀林を開いた慧雲院日円は椎名氏の出身とされているが当家系図では光高の妻の弟となっている。
岩舟地蔵
『武運長久祈』
★飯高檀林と中村檀林[日本寺]の創設には関わりが深いが直接ではないので別項で解説する。
★東栄山妙経寺は天文10年(1541)4月に24代平山丹後守光義が日奉精神発祥の地鏑木邑の真言宗原の坊を日蓮宗に改宗して活動の拠点としていた。その後(1582頃)に25代平山図書光高が鏑木城に入城し帰農することになって妙経寺ととした。恐らく下に示す日賢聖人のご本尊が書かれた頃の創建であろう。
[1625年頃、改宗創建]
★寂静院日賢[中山19世]は日充等と共に身池対論に破れて遠州横須賀に流罪となった。聖人は当家とは関係が深く、数巻の御本尊が残されている。下に掲げた御本尊は対論の直前の寛永2年(1625)8月3日に平山図書常尊院日慶[25代光高]に逆修したものである。
日賢聖人御本尊
★仏性[安国]院日奥は日現の不受不施義を継承した京都妙覚寺の聖人である。秀吉の東山方広寺千僧供養(1595)へ出仕を拒否して京都小泉に隠棲した。家康によって大阪城で対論(1599)させられたが所信を変えず対馬に流罪となった。家康は日奥の不抜の信念を愛していたようで、慶長17年(1612)に釈放された。益々信念を堅固にするために元和9年(1623)に下に掲げる発願をした。身池[身延を中心とする受派と池上を中心とする不受派]対論(1630)で再度対馬に『死後の流罪』となった。
佐渡島参詣御願状(1623)
★泰虞院日舜(-1624)は25代平山の一族で遠寿院日充の兄である。浄妙寺9世・平賀本土寺14世となり、山口県防府の寂光山本因寺の開山でもあった。浄妙寺時代、誦経中に樫の木の下から多聞天・吉祥天が出土したという伝承がある。家康の関東支配を心良しとしない人々は毛利氏との情報伝達システムを構築していたのであろう。寂光山本因寺という名が面白い、囲碁の本因坊と何か関係がありそうだ。
★遠寿院(1584-1650)は日舜の弟で浄妙寺12世・中村談林8世(除籍)に就いたが、寛永元年(1624)に「日天子[日奉大明神]起請文」を書いて当家と絶縁した。江戸の酒井忠世邸での身池対論に破れて、将軍家光により岩城に流罪となった。翌年の寛永8年(1631)に流謫地での気概を伝えた偈を届けて来ている。
日充聖人「日天子起請文」
★椿新田絵図(1670年頃):マラソン・コースの距離とほぼ同じ長さの堀が干拓地の周囲を廻っていて、外側に昔からあった田の水位を守っている。このような大規模工事を成功させるには日々の小さな出来事への細かな配慮である。鍬や鎌さえ持たなかった入植者が、照れば砂埃・降れば泥まみれ状態の中で何に希望を繋ぎ、300年を経て一流の農家に成長して行ったかということの中に人間が生きるという本質が秘められている。干拓時の地図の右上部分は幕府御用地で地味の良い水田であったが、24世久甫が力を注いだ所は図中央の黄色部分の砂地であった。百済王の末裔で身延山36世となった日潮聖人(1674-1748)と力を合わせて、法華経の精神「是法住法位、世間相常住」の顕現に努めた。それが16世紀末に鏑木に入った時の日奉精神の実現の願いの一つの現われであった。
椿新田干拓絵図
七面社(1737)創建
稲荷社(1730年頃)創建
★29代久甫(1672-1744):1715年に幕府の寺社政策に触れないように配慮し既存の寺院を引寺した形式をとって世界の最東端の地である銚子に海上山妙福寺を建立した。秘蔵創建記録集の中に『海上山』掲額の下図があり下海上国精神[日奉精神]の実現のために命名したことが判る。
29代久甫
海上山
妙見宮掲額原本
★興栄山朗生寺[匝瑳市野栄]の日朗聖人追善碑は日(ニチギ)聖人(1681-1753)の唱導により、享保8年(1723)に建立された。日は平山久甫の友人である、日潮聖人を身延山36世に推挙した人である。久甫はこの碑の建立を支援した。
★法性山正岳寺[多古町]の服部与五左衛門[普政院古信日慧居士(1721)]追善碑:与五左衛門は南玉造村新田[柏熊]開発し、1700年2月18日に大堀村[匝瑳市]賢徳寺を引寺して正岳寺を開基。与五左衛門は久甫の親友で、新田開発[新村]と寺院創建というシステムは椿新田開発の場合と共通性が認められる。
★36代皐次郎は明治の始めから東総地域の多数の学校の設立支援のために私財を投じた。明治31年(1898)には古城村に尋常高等小学校一式を村に贈った。
尋常高等小学校
★37代忠義は国体明徴が流行していた世相の中で論旨に両義性を持たせた「教育会の精神」という論文(1931)を書いている。その中で無料医療・教育・女性の向上を説き、しかも部分的ではあるがそれらを実現している。不幸にして、それまで大陸での戦争の後援施設であった香取海軍航空基地は真珠湾攻撃(1941)以後に戦争の主体が太平洋側に移ったために戦争の表舞台に躍り出ることとなった。1943年には大本営直属の第一航空艦隊(司令官角田覚治中将)が組織されて巨大な軍事基地となった。古城村は海軍基地への土砂・水道や電気の供給施設・食料等の提供という厳しい経済環境の中で1943年から健康保険組合の組織化を始めた。誰もが見落としているのは、この組合活動を通して万葉集や漱石等の講読が行われていたことである。
国民健康保険組合診療所(1947)
★38代は日奉創発神社(1998)を再建して日奉創発の会を開催して日本民族固有の精神を探索している。
日奉創発神社
当家は明治・昭和の過度な論理性に揉まれて完全に潰れてしまったが、日奉精神の千数百年に亘る論理的精神からの距離の取り方から、新しい時代の人類の精神を探るのが、日奉創発の会の目的である。