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日奉精神の自然観 HP 日奉大明神38代平山33世高書
闘病の中に悠久を慕いて、ボチボチと気の向くままに作成中
梅原猛氏が東日本復興会議に関わることになって、これからの日本の新しい哲学を考えるという。大変結構なことであるが、東日本復興会議そのものがいつか来た道的なものだし、西欧哲学に深く染まった梅原氏がその西洋哲学を批判しているものの、これまでに経験して来た論理的雰囲気を超越出来るかどうか大変疑問である。氏は原発事故を文明災と捉えているようだ。確かにそうであろうが、現実には東日本大震災そのものがもっとも根源的な出来事で、5000年来の論理性に傾倒し過ぎた現代人類文明の諸相を根底からひっくり返し、学問[論理性]そのものの限界を教示した出来事である。
例えば、津波を押し止める防波堤についてはどこまで高くすれば安全かという問題がある。自然界の持つエネルギーレベルと比較して人工物のエネルギーレベルが矮小であることと、防波堤は広範な生活空間に建造されることとのために、いつどれだけの規模で起こるか分からない津波に対して、複雑多岐な生活環境に身を置く人々の安全を確保することは根本的に不可能である。学問のある人達は高さ6bの堤防が3bの津波を防いだ事例をあげて堤防の有効性を強調するであろうが、その堤防が存在したために長い時間をかけて知らず知らずに後代の6bを超す津波による巨大な被害の原因を作っていることを肝に銘ずべきである。自然現象は畏敬すべきものであって、人間が立ち向かい凌駕するものではない。大切なことは出来る限り高台に居住地域を誘導する政策と、津波襲来区域から短時間で高台に避難出来る特殊形状の道路と、海抜40m以下の地域では電柱等の公共物にその場所の海抜や非難方向の矢印の表示・緊急事態であることを知らせる白色閃光灯の設置[昔スイスのレマン湖で見た]とを各自治体に義務付けるべきである。……日本人のDNAには、権威あるいは脅威を敬遠する尊い機能が埋め込まれている。呉や越の人々や扶余族等の日本列島への渡来は、それぞれの時代の大陸での権威からの逃避であり、更に古くスンダランドで形成された古モンゴロイドそのものも、中東や地中海で形成された論理性やスンダランド水没の脅威からの逃避が生み出した人々である。すなわち、今回の大震災は、5000年来高度に発達した西欧の論理性を盲目的に信奉して来た明治維新以後の日本社会に対して、モンゴロイドの本流としての日本人に、自己本流の思想である中庸性を回復することを求めた宇宙の意思の顕現である。
寺田寅彦氏は1935年に「予想しがたい変化を天気と呼び、天気と季節は温帯にのみ存在する。この変化に適応するために不断の注意と多様な工夫を要求されるために人間の知恵が養成される。その上、日本は大陸の東側・大海の西側という気象学上不利な場所に位置している。日本海とそこを流れる対馬海流の存在が、日本の気候を温帯の中でも全く独自なものとしている。春雨・時雨・氷雨等の雨の名称や稲田の闇を走る稲妻や花曇り等の気象に関わる言葉の豊富さも日本文化の特異性を示している。こういう語彙の中に日本人の自然観が濃密に圧縮されている。日本人はどこから渡来したかは問題ではなく、渡来後長い時間をかけてこの独自の気候環境から学び適応して来た。日本列島は大陸の周辺部分が揉み砕かれたもので地殻構造が多種多様である。そして火山活動が加わって景観に得意な異彩を添えている。このために、各地に小都市が萌芽し、民族をその地に土着させて風土的特徴を持った地方性が涵養された。過去の地殻活動の余響は火山活動・地震として現れており、月に一つや二つの地震は必ず起こり、死者を出す地震も3・4年に一度は起こる。一生に一度や二度は死者を伴う津波を経験する。動かない台地に住む人々とそうでない地に住む人々では、自然に対する観念に大きな隔たりが生じている。美しい景観は過去のこうした地殻変動によって作り出されている。火山の爆発は女神に見立てられる曲線美の山々を生み出し、降灰は老朽化した土壌の回春に効果がある。日本の大地は《母なる慈愛》と《父の厳格》の配合が良く、人間の最高文化を生み出す見込みがある」という主旨のことを書いている。
約4000万年前にインド亜大陸がユーラシア大陸に衝突しヒマラヤ山脈を隆起させて、現在もバイカル湖付近の降下点に向かって大陸を押し続けているという。その余波で約2500万年前にウラジオストックの沖に連なっていた陸地が大陸から分離し、東方に押し出されたのが日本列島である。この動きは平行移動ではなく、北海道東北部と九州西北部を起点とした観音開きの移動で、当然の結果としてホッサマグナと呼ばれている地帯に深い谷が出来た。約50万年前に伊豆半島が北上してこの深い谷間を埋める地殻運動が起こった。このことから分かる通り、日本列島は東日本が北米プレート上に載る大地で、西日本がユーラシアプレート上に載る大地である。この動きの結果として東方への指向性が最も強い場所は銚子市であること[この理由から日奉族は海上山妙福寺を銚子に創設した]を示している。2008年の四川省大地震も今回の東日本大地震も諸説あるものの、約4000万年前からの地殻運動が生んだものという。4000万年という時間とインド亜大陸とアジア大陸という巨大な空間が作り出す自然現象の巨大地震に、たかだか5000年程の人知に頼って対抗しようと考えても所詮良い結果は得られず、想定外を繰り返すばかりとなるのは必定である。自然の脅威には逃げる以外方法はないのであり、それが真理というものである。
寺田氏が言うように自然の変化に富み美しい景観の日本列島は、東日本が北アメリカプレートに載り、西日本はユーラシアプレートに載っていて、それらの中間に山岳地帯が形成されている。この列島に北から南からと五月雨的にスンダランドからの古モンゴロイドが移り住んでモノ・マナ精神を持ち込み、各地の自然が醸し出す東方指向性の影響を受けつつ多彩な太陽信仰に発展し八百万の神を出現した。そして約15000年前頃から縄文時代に入り、東日本は当時の気温上昇の恩恵に浴して各地に八百神的地域文化が発展したが、西日本は姶良火山大噴火の影響等によって地域文化の発展が少々遅れていた。このような状態下の日本列島で、約2800年前から弥生時代に入り大陸から古代エニセイ川上流文化の影響を受けた論理性を備えた古モンゴロイドの東進と新モンゴロイドの南下が始まった。初めは朝鮮半島の真蕃郡(漢王朝)や辰国(新羅)の人々が出雲以北の日本海沿岸に渡来して出雲族(夏王朝・周王朝の論理性)と呼ばれ、各地域でソフトな論理化が始まった。続いて、中国の歴代王朝を輩出した匈奴の論理性の影響を受けた扶余族(漢王朝の論理性)等が北九州に入り、出雲族を駆逐して大和に入った。
八百万神を中心とした社会の発展がやや遅れていた西日本に、朝鮮半島より移住して来た天孫族が大和に入った時代には、大和の東に位置する山岳地帯(後の時代の愛発関・不破関・鈴鹿関)の東側に広大な地域(東日本)が展開し八百万神的精神文化が圧倒的な勢力として存在していた。そこで、太陽神として扶余系タカギムスヒを信奉する大和勢力は、彼等の信奉する外来太陽神では、日本列島の人々の精神を統治出来ないことを悟り、伊勢の磯辺族や渡会氏を窓口として東日本の土着精神を吸収し始めた。最初はモノ・マナ思想を吸収して後のオオモノヌシ・物部氏の基礎を作り、続いて東日本の各地の太陽信仰アマテル精神を吸収して後のアマテラス精神の基を作った。しかし、アマテラス体制が藤原氏の列島支配の論理に従って整理されたために、縄文精神の集約とはかけ離れた西欧一神教的神話が作り出され、天皇霊の祖先神でありながら歴代の天皇が参拝しないという不思議な信仰の歴史が続いた。
梅原氏は新しい日本精神の主柱に「草木国土悉皆成仏」という日本固有の自然観を置きたいらしい。そのことは偉い先生に任せるとして、東日本大震災によって政治家・官僚・物理系学者・文科系学者等がたかだか数百年程度の期間に流行している論理を信奉して生きていることが明らかにされた昨今、日本人がこの列島で生命を営むということは何かを示して頂きたいものである。さて、私は幼年時に、この「草木国土悉皆成仏]は天台智の「一色一香中道(真理=仏性)にあらざるなし」から来ていて、この精神は釈迦を含めて水系エネルギーの循環が盛んなモンスーン地帯に住む古モンコロイドの基本精神であり、人類の究極の精神であると聞かされていた。その時代は大東亜戦争の最盛期で、この戦争に勝っても負けても人々の心は論理側に過度に傾いて、軽薄な大衆心理の中で生活しなければならなくなり、日本人が営々として築いて来た人類の至宝の精神は失われて行くと聞かされていた。
縄文精神の社会実践を重視する日奉精神においては、分析知で差異を追及する学問の領域での思考とは異なり、太陽信仰アマテル精神も、草木国土悉皆成仏も、梵我一如も、もののふの道のものも、皆同じ真理を捕えていると考えていたようである。大自然という仮想球体の中心に自己が存在し、自己が修養を積んであらゆる対象の仏性[宇宙真理]を認識することによって自己が啓発拡張されて、自己の存在が時空間の創発力を高めることになるとしていた。
1941年12月8日に、日本はハワイのパールハーバーを奇襲空爆して大東亜戦争に突入した。その後、ガダルカナルの戦い等で苦戦を強いられたために、我が家の近隣の香取海軍航空基地を拡張して日本の主要な基地にすることなった。この拡張工事が決まると多くの軍関係者が我が家に出入りするようになり、予算の乏しい軍の事業を支援することを要請された。父は我が家そのものの財政が傾いていたために、始めは軍への支援を断っていたが、数百年をかけて祖先が築き上げて来た古城村や近隣に負担をかける訳にもいかずに、その任に当たることになった。戦争というウエストファリア体制が作り出した国家の狂気に服従することは想像を絶する負担で屋敷内の土蔵が一つ消え二つ消えという状態が続いた。現代社会が郵政民営化や消費税率引き上げを日本の存立に不可欠なものと騒ぎ立てるように、当時は東部軍管区情報として国民の戦意を掻き立てる情報がラジオから毎日流されていた。その様な不安定な状況下で、父はあえて国民健康保険制度の村への導入や愛育委員会の確立に力を注いでいた。私を連れて九十九里浜の見える高台に登っては、大きな双眼鏡で太平洋を見つめることを繰り返していた。水平線の向こうにはアメリカの軍艦が出没していて、船影の見えない水平線の向こうの2万bの彼方から艦砲射撃が行なわれて、鏑木丘陵の形状が変わるであろうと教えていた。軍への協力と人々の健康促進という対立する仕事[宇宙空間の秘める両義性]に全力を傾注しながら日奉精神が消え去る状況を私の脳に叩き込むことで日奉精神の最終ランナーになるであろう私の辿るべき道を教えていた。
朝鮮戦争・ベトナム戦争と続いた戦争特需の恩恵を受けて日本社会は世界2位の経済大国に成長し、最近では子育て手当等と呼ばれて合理的な制度が確立しているように見える。おそらく歴史学者はそれらの活動の内容を科学的に経済的に検討して進歩した制度と評価するであろう。しかし、戦中・戦後の厳しい財政の中での愛育委員会の活動を目の当たりにしていた私には、当時の方がそこに集う人々の目に活気があり、社会が夢を追って動いていたように思われる。父はその活動の合間を捉えて参加者にその場その場で臨機応変に夏目漱石・森鴎外・万葉・古今等を題材に講義をして愛育活動に生命の息吹を注いでいた。資本主義社会という軽薄な過渡期文明の中を生きなければならない私達は、子育て手当のように金銭と子供とが直接関係する制度しか策定出来ず、折角の制度に心を涵養する仕掛けを付与することが出来なくなってる。これでは例え日本の人口が増えても、周辺各国に伍して活躍出来る人々に成長させることは不可能であろう。あらゆる支援活動には、どのようにして人間としての心を添えるかが重要である。話は変わるが福島の原子炉はGEの設計らしい、この場合には購入前にその設計図を日本の若手技術者がどれだけ検討したかが疑問である。実際に現場で管理を担当する若手の技術者が設計図を基にして模型を作って各部位の機能を日本人の心で評価することが、原子炉のようなスーパーシステムの導入には不可欠の要件である。原子炉再開の議論があり耐震構造や防波堤の高さ等ばかりが議論されているが、何よりも重要なのはシステムと管理する人々の間の心の交流である。
さて、日奉精神は、朝鮮半島から渡来した高い論理性の大陸思想を信奉する大和勢力が、近寄り難かった関東地方南部に残留していた縄文精神を源流としている。大和勢力の渡来以前に、島根以北の日本海沿岸に渡来していた比較的論理性の低い出雲族が伊勢や新潟方面から北総周辺地域に入って海上国を作り、少し遅れて現在に埼玉氷川神社付近へ勢力を伸ばして武蔵国として縄文以来の太陽信仰を組織化した。この縄文精神は、最近の資料では縄文時代の初期の自然の破壊を伴うムラの建設等が一段落した頃に、日常生活には全く必要とされないモノを、日常の施設を作るのに必要とされる数千倍の労力と時間を費やすことによって涵養された精神であるという。その施設には、円形・楕円形・方形の列石や、台形・環状の盛土や、木柱や壕があった。三内丸山遺跡(青森県・6000‐4500年前)には、3本ずつ向かい合って木柱が直線に並んでいて夏至の日の出と冬至の日の入りの方向と一致している構造物がある。ここで出土した土器から判断して、工事が1500年間すなわち50代もの間にわたって継続していたことが分かる。大湯環状列石(秋田県・4000-3500年前)では、3人がかりでやっと運べる大石約7500個を7`離れた所から石質を選んで運び続けている。各世代においては、施設の未完成が続くわけだが、ひたすら未完成を続けることが縄文精神の真髄であったという。時代を超えて未完成を追う精神の継続の中に、西欧論理性にどっぷりと浸かってしまった現代人の理解を超えた縄文精神の主体性が存在している。アブラハム以後の西欧合理性の影響を受けた弥生時代以降現代までの精神と縄文の人間本来の精神の違いを探りたいが
縄文時代の典型的非日常構造物としては環状列石遺跡(ストーンサークル)がある。世界最古のストーンサークルはエジプトのNabta Playa遺跡(BC4500-4000年)で、日本最古のストーンサークルは長野県の大野遺跡(BC2500年)と言われている。イギリスのストーンヘンジはBC2500年頃のモノで、建設に500年一説には1000年の期間のかけていると言う。