水分子の意思2

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 冒頭へ  約1万年前頃からの麦作農耕の発達の影響を受けたヨーロッパでは、例えばエジプトでの農閑期のピラミッド建設の作業を通じて、物事の原因を細かく分けて考える分析知すなわち論理性が発達しました。この論理性が遊牧民の優れた移動能力によって東方に運ばれ、南ロシヤ草原ルートを経てエニセイ川上流域文化へと伝搬してモンゴルの周辺に達し、その地域で中国南部から北上して来ていた古モンゴロイドを刺激して論理性に芽生えた新モンゴロイドを生み出しました。この東伝の過程で北極星に対する信仰[後代の龍信仰・出雲族・妙見信仰・神道]が生まれ、新モンゴロイドの精神に内包されました。一方、中国南部の古モンゴロイドの住むモンスーン地帯では稲作農耕が発達していましたが、この地域では水の循環エネルギーが豊富なために分析知に頼る必要性が少なく、古来の総合知を維持することが出来たために、穏やかな心を持つ人々が生活していました。[この歴史から中国大陸においてでは支配体制が北部で発生し、現代は西欧で生まれた共産主義という高度な論理性を保っています。この影響を受けて、日本列島では関西にあった支配体制が関東に移って西欧で生まれた資本主義体制を採用しています。いずれも借り物の文明の中を喘いでいることになります。その国土に適合した自前の支配体制を作り出せるが、今後のアジアのリーダーとなる試金石となりそうです]。中国大陸における南北の文化二極構造の間には、黄河という文化交流の障害物がありました。黄河の上流域では深い渓谷が、下流域では氾濫の続く広大なデルタ地帯があったために、今の西安や洛陽の地域が唯一の南北交流が可能な地帯となっていました。先ず最初に南部の稲作地帯で、物資の需要と供給の二極間で生まれる価値を利用した交易で資産を成した人達が文明を起こしました。その後に彼等は自分達の物資と北側のヒエ・アワ農耕地帯の物資との二極間に価値を生み出せば更に大きな富を築くこと出来ることを知り、今の西安や洛陽の地域を中心に夏[価]という王国[中華文明]を作りました。次いで、北側の人々が狩猟採取で培った移動能力を利用して広範な交易である商業を発達させ、夏の都を襲って殷[商]という王国を作りました。このように、中華文明の発生期には交易[金力]が重要な役割を果たしていますが、その裏には文字の使用の発達[論理性の浸透]が作用しています。その後、西方アーリア系の高度な分析知の影響を受けた周王朝[知力]と秦王朝[武力]の支配体制が現れ、続く漢王朝[金力・知力・武力を総合した]が誕生して、中華としての論理性が完成しました。この漢王朝の制度が日本列島に影響を与え、日本の律令時代以降の支配階級が高天原として崇めるようになりました。

 中国大陸南部の人々と同様に自然の恩恵に浴し穏やかな生活を営んでいた日本列島の縄文社会に、大陸北部の中華地域で盛衰した支配機構が、それぞれの時代の戦乱の影響を受けて間欠的に伝搬して来ました。それらの大半は歴史に記述されていませんが、記載されているものとしては、古い時代から順に出雲族・ニギハヤヒ族[物部]・卑弥呼・神武王朝・崇神王朝・応神王朝・継体王朝等と続きました。最初の出雲族・ニギハヤヒ族は渡来地域が出雲と北九州と異なりますが、秦帝国の強度な論理性を避けて渡来したために、彼等の論理性は穏やかなもので、先住の縄文人と良好に融合して日本各地に分布することが出来ました。次に、魏から冊書[王侯クラス]によらずに制書[役人クラス]と軽く扱われて「親魏倭王」に任命された卑弥呼は…耶馬台国という国名も同様ですが…中国の文献に載っているだけなので、倭王達[華僑が実権を握っていた]から共立された形式を取った五斗米道の影響を受けた魏の傀儡政権[華僑総合代理店]かも知れません。その後の神武・崇神・応仁・継体等の王朝は、中国北東部や北朝鮮を源流とする太陽神タカミムスヒを信仰し、鉄や水銀等の鉱業権を求めて争う総合商社のようなもので、弥生末期からの寒冷化で疲弊していた西日本に、新羅や百済を介して侵入して来た華僑勢力だと思われます。これらの王朝は漢王朝で発達した強い論理性を伴っていたために、中央構造線の東側に残留していた縄文精神を支配することは出来ずに大和に止まることとなりました。

 神武・崇神王朝以降の渡来支配者層は、東日本で維持されていた八百万神的太陽信仰を吸収しなければ、日本列島全域を統治することは不可能なことを知り、先に渡来していた出雲族やニギハヤヒ族の浸透力を使って東日本の太陽信仰の情報収集を続けました。その成果の一つが三輪山のオオモノヌシ信仰の構築であり、続いて伊勢の出雲族の渡会氏による東国のアマテル信仰の収集があります。時代が下って論理性の更に進んだ応神王朝が出現すると、関東地方に佐野や太田の地名が多数分布していることから分かる通り、先行の神武・崇神朝の関係者はヤマトから関東に追い出され、また、ニギハヤヒ族は物部氏と呼ばれて王朝の武士の役割を務めるようになりました。壬申の乱(672)後には、各王朝が数世紀にわたって東日本の八百万神信仰を吸収した成果を踏まえて、藤原不比等らによって日本列島を統一する指針をとしての古事記・日本書紀が編纂されました。その内容はアマテラスを中心とした西洋の一神教に近いものであり、藤原氏による官僚的日本列島の統治には有効な内容となっています。本来の意味での八百万神の真髄を捉えた神話とはかけ離れたものとなっていますので、稀代の大天才藤原不比等は、天皇霊をその支配構造から超越させるアンビヴァレント[両義的]な二極構造を構築し、明治維新になるまでは天皇は伊勢神宮を参拝することもなく、また一般の国民も仏教を中心に生活することで日本社会特有の品性が保たれていました。

 さて、日奉精神は、この渡来支配者層が南関東の縄文精神を彼等の論理性の中に取り込む過程で、他田日奉族として歴史上に引き出された人達の精神です。この関東南部に残留していた縄文精神は、初めに出雲族によって海上(ウナガミ)国として、次いで武蔵国として歴史の表面に押し出されました。海上(ウナガミ)は海の上に昇る太陽を崇拝することを意味し、下海上国造が577年に[法華経がこの頃に伝来した]大和の他田宮へ招集された時に日祀または日奉と改められたもので、海上と日奉は同じ意味で、世界の最東端の精神・人類の究極の精神・鄙の鄙を意味します。このために、日奉部の生立ちとして大王の日祭神事の補助等の仕事をしたとの説もありますが、それは大して重要でないことが分かります。重要なことは、日奉精神が人間の脳と自然界[太陽]との間の創発を、日本列島の上を流れた時の移ろいの中で、如何にコントロールして価値を現成して来たかということです。それがあるからこそ、下海上国造が東の果てからわざわざ奈良まで招集されたのです。話が横道に逸れますが、全ての人間には生命体あるいは細胞の意思としての総合知が備わっています。しかし、農耕と遊牧の発達に伴って言語を用い始め、哲学や科学等という分析知が爆発的に発達したために、現代の西欧物質文明という奇形が生成されてしまいました。例えば、人類文明の進むべき正しい方向が東方だとするならば、現代知識人達は西へ向いて走っている空調の効いた快適なバスの中で、東方に向かうべきだと力説しているようなもので、自らバスを降りて東に向かって歩いて見せる人は誰もいません。病院のベッドで暇つぶしに国会中継を見ていると、俳優並みに着飾った議員達が、東日本大震災の被災者達の生活の惨状や電力不足を議論している光景に見るにつけ、国会というシステムや民主主義の根幹を深く問い直す時が来ていると思いました。2011年3月11日の大震災は、人類に多くの教訓を残しました。首相や高名な学者よりは、震災直後に無料で周辺の住民に食事を提供し続けた食堂の経営者達の方がはるかに人間として優れていることや、原発は原爆と危険性は変わりなく広島・長崎への爆撃という故意による被害を除くと、原発より原爆の方がはるかに安全に管理されて来たという事実は、原発の地球上での不適合性を示していることや、弥生末期の冷害と神武・崇神王朝:貞観地震と藤原政権:江戸末期東日本天災と明治維新政府等の例が教えるように、大災害後の国家による社会の論理化の増進で、日本人の心から大切な何かが失われていること等には十分な配慮が必要とされています。

 吉屋信子の少女小説「小さき花々」の短編の一つに「田舎の親類」があります。東北の田舎から東京の大学に進み都会で家庭を持ち、両親の墓も東京に造って都会人になりきっていた親子3人は、時折訪れて来る田舎の親類の人達を田舎っぺと毛嫌いしていました。そんなある時、父と娘は先祖の法事で止むを得ず田舎を訪れなければならなくなりました。その時の親戚の人達の献身的なもてなしで、都会生活には欠けている人間として生きるための何か大切なものが田舎にはあることに気付かされ、二人の心が大きく成長して行く様子が書かれています。先ずは、田舎の小学校1年生の男の子が来客に間に合うようにと高い山に登って、見たこともなく美しい深山石楠花を沢山手折って来て呉れたことに娘の心が開かれます。そして、田舎の親戚が長い間何も知らせずに他人である父娘の先祖の墓を守ってくれていたことを知って、父の心も開かれて行くというストーリーとなっています。アインシュタインは1922年に日本を訪問した際に「日本人は天皇制国家主義[論理性]と二千年来のムラ社会的同型性というアンビヴァレント[両義的]な割り切れなさを持っている」と述べ、「感情表現を抑圧する躾が繊細な感情や同情心を育てた」と分析しています。目の前に現れる事象に耐え悩むことによって始めて体得される感情を社会に蓄積することが大切であることを示していますが、「小さき花々」もそこを捉えているのです。今回の東日本大震災で失ってはならないものは、この日本固有の縄文の心…名誉や金銭を超えた人間の究極の姿…であります。

 私が5歳の頃、世間は太平洋戦争に突入し騒然とした空気の中で、昔の母屋の大きな床の間の真ん中に小さな日現聖人のご本尊を掛けて、父から中国天台宗の開祖智の「摩訶止観[円頓止観]」の話を何度も繰り返し聞かされました。今にして思うと、父自身が仏教を十分に理解していた訳ではありませんし、その父の話でさえも私には記憶に留める能力がありませんでした。法華経の成立がキリスト教の論理性の影響をどれだけ受けていたのか理解していませんが、智が北魏や隋という北回りの論理性からの影響を受けていたため、「摩訶止観」の構成が理屈っぽくあまり好きにはなれなかったことを記憶しています。しかし、流石に古モンゴロイドの本拠地長江流域の仏教だけあって「諸法実相」を説き、この思想が日本列島に伝来して縄文の精神を吸収し「草木国土悉皆成仏」を生んだことには感動させられました。父はこの考えを夏目漱石・森鴎外の「低回趣味」「則天去私」や[遊び」またベルクソンの「持続」等と絡めて、この世[知覚可能な宇宙]における時間の美しさや愛おしさからの創発性を説いていました。人間が生活するために欠かせない3つのパワーとして知力・武力・経済力がありますが、それらは人間が生きるための十分条件ではありません。このために、戦時下でも平和な経済社会であっても、時間の創発性を追求する心を欠くと、その人が何のためにこの世に存在したのか分からなくなってしまいます。

 フィルプ・フォレストの「SARINAGARA」は、長女を疱瘡で失った時の小林一茶の句「露の世は 露の世ながら さりながら」の心情をフランス語の短編として綴ったもので、私達人間は幼い日々に見た夢を現実のものにしながら人生を送っているのであって、その夢は見たことのない黄色に似た種類(une certaine sorte de《jaune》)の色に浸っていると書いています。私達は毎日の生活を意志の力で前進して来たと錯覚しながら生きていますが、…「世の中は 地獄の上の 花見かな」…実は横に進んでいるだけなのです。この虚構された人生から永遠に締め出されたことを悟った時に、悲しい透明な夕暮れのような黄色い世界に帰って行くのだということを知り、この現象をデジャヴュ[ありし日の夢]と呼んで、ひとは最後まで残っている幼き日の夢に、憂いを溶かし込むのだそうです。一茶は2歳で孤児になり、村の子供たちにいじめられて、か弱き者の心を知りました。…「我ときて 遊べや 親のない雀」…その一茶に、乳や薬を与えてくれた祖母や読み書きを教えてくれた人もいました。こうして5歳にして、人間というものの意地悪さと限りない美しさを経験しました。その経験を句作の中で実証するのが一茶の一生であったと言います。人はこの世に生まれ、幼い日々にいろいろな経験をし、それらを基にして大きな黄色に包まれた夢を見ますが、その後の壮年期の人生の中ではその夢を忘れて、学問や政治や経済に関わる生活に没頭して生きるための道化を演じ続け、年老いて孤独に気付いた時に、幼児期に見た黄色い夢に帰って行くとフォレストは説いています。私は昔から一茶のこの句を思い出すたびになぜか涙を流していましたが、これほど深く読むことは出来ませんでした。この句の「露の世は 露の世ながら」は高度な宗教論理の部分で、「さりながら」は人間の本質[諸法実相]に帰った部分と捉えていました。しかし、私の人生で淡い黄色い夢など見た経験がありません。確かに戦時中の兵士の集会で訓示する父の声を聴きながら大切なことはその会場にはなく、遠くの栴檀の梢の向うに見える空にあると思い、そのことを一生かけて追って来ました。それは夢ではなく天然色をした思い出です。昨年集中治療室で麻酔から覚醒した時に、金色のトンネルの中で車椅子に座り介添えしている男性が後ろにいる幻覚を見ました。車椅子は動く様子もなく、ただ赤と黄色の光線が自分に向かってくるのを見ましたが、そこに人生の憂いを繋ごうとは思いませんでした。太陽光のエネルギースペクトル分布[波長別のエネルギー量]を見ると、波長が550nm付近で最大のエネルギーを地球に届けていることが分かります。その地球で生息する人間の目は太陽のエネルギー分布に適合するように進化していますから、昼間の視感度曲線は波長550nm付近が一番良く見えるようになっていて、緑・黄・赤と僅かな波長に違いを識別して私達は心の糧としています。このために、生命が厳しい条件に置かれた時に見る夢に、黄色を始めとするこれらの色が脳の活動を支配するのかも知れません。そう言えば、黄昏や黄泉という言葉もあります。

 日奉精神は、敏達大王が他田宮で行った日祭りを幇助した人々の精神と表現すると、一見理解出来たように思えますが、実際には何も分かったことにはなっていません。敏達大王側の行っていた日祭りは、高句麗・百済系の太陽信仰タカミムスヒの祭典であって、儒教[礼記王制…天子は天地を祭り、諸侯は社稷を‥]を作り出した中国北東部の風土の影響を受けているために、形式も内容も整っていたことと思われ、わざわざ日奉部を設ける必要はありません。日祭りを幇助させたというのは大和政権の勢力拡大[倭名類聚抄の日部]に属する表面的な仕事の一つです。大陸農耕文化の発達に欠くことの出来ない暦に関わる「二至二分[冬至・夏至・春分・秋分]」の精神が、内モンゴルの興隆溝遺跡等を経由して、非農耕の縄文文化に影響を与えたものが、日奉精神の原型であるとも言えそうですが、あまりにも論理的な後学的解釈になってしまいます。日奉精神を考える場合、縄文時代の中部地方と関東地方で生まれた環状集落を作り出した縄文人の自然観・人間観を無視することは出来ません。環状集落が北上して東北地方で発展した環状列石に付随する日時計や「二至二分」信仰は後発的なもので、漁労における「山アテ」等の知識に大陸の論理性が加わったものと考えて、ここでは除外します。縄文精神で特筆すべきものとしては、日本列島が水のエネルギー循環に恵まれたモンスーン地帯に含まれていて、狩猟採取漁労で生計が立てられたために、自然との共存共栄が維持出来たこと、煮炊き用土器に華やかな装飾を施す程の広い心を持つことが出来たこと、生活に必要な第一の道具以外に土面・動物模型等無数の第二の道具[芸術性]さえ持っていたことが挙げられます。更に重要視しなければならないことは、多数の環状集落が存在し、その中には二つのグループの対に分かれている双分制の採用もあり、数の表現に3と3が6を表すという二倍効果が採用されていたことであります。このうち、環状列石は千数百年の間にわたり数十世代をかけて引き継がれた精神が作り出したの遺跡で、現代で言えば、雄略大王の頃に片田舎の人達が立案したプランをその子孫が数十代にわたり受け継ぎ、現代の子孫がそのプランに従って工事を続けているということになります。このことは、縄文の人々が遠い昔の先祖への尊敬と、未来の時空への信頼とを強く持っていたことを示しています。そのような気が満ちている風土に生きることが、非常に心地良いものであったかを教えてくれます。こう見て来ますと、二つのグループの対や二倍効果という現象が多数集積した形状としての環状集落であり、それを芸術的に地上に表したものが環状列石であると推定されます。人間は無数の対象物と直接的に関わって生活しているように表面上は見えますが、その奥底で人間としての存在を支えているのは、対象物の存在によって創発されるその場の雰囲気であります。環状集落を構成する各家々相互の間で無言の内に作り出される信頼や安寧が掛替えのないものであり、それらが創発される環状集落の中心部には先祖の墓が設置されています。日本列島の八百万神信仰は、この共役構造の創発力に根差したものと言うことになります。

 アマテラス信仰は日本列島を統治するために、藤原不比等[母は車持氏・上毛野氏になる田辺史大隅による養育]・持統天皇[アマテラスの原形]等が大陸論理性[儒教・道教・仏教とキリスト教]を活用して日本列島の八百万神信仰を組織化したもので、それらを神話・神道と呼ぶことによって藤原一族[不比等の一族]による日本列島の統治が進みました。しかし、その結果として、官僚型支配機構の持つ暗さ・堅苦しさが日本列島を覆うようになり、それ以前に大和を支配した大王グループ達が求め続けた縄文人の夢のある理想に生きる社会とは、遠く懸け離れた歴史が続くようになりました。3世紀頃より神武・祟神・応神と名付けられた各大王グループが、日本列島の中央構造線以東に残留していた縄文の精神を探り続けていましたが、壬申の乱後の社会的要望から、それまでに集積した情報を大陸の論理性[アーリア思想]を用いて纏めることによって古事記・日本書紀が生まれました。八百万神の信仰は、体系を持たない「天網恢恢疎にして漏らさず」的な存在であったにも拘らず、一神教的で論理的な神話が出来上がってしまいました。このため千年を超える歴代天皇が伊勢神宮を参拝しないという不思議な結果を招いてしまいましたが、このことは逆に、夢のある理想社会を希求するという天皇霊の精神が、長い期間にわたって健全に維持されていたことを示し、全人類にとって最も尊い精神を持ち続けたことを意味しています。環状集落に代表される空間の創発力維持の精神が、人類の存在にとって最重要であり、ある距離を置いてそれを求め続けることが天皇霊であることを、曲がりなりにも歴代の天皇が認識し続けたということです。明治以後の優秀過ぎた西欧かぶれの日本人の一部には、日本書紀を誤用して万世一系と騒いだり、敗戦後には狩猟民族であってその成立の歴史の全く異なるイギリス王室を皇室の鏡として見習うことを推奨する人達がいることは誠に困ったことです。歴史家ではありませんから、現皇室が継体天皇から始まるのか天智天皇から始まるのかは良く分かりませんが、天皇霊が尊いのは、そのような歴史の長短を論じる様な単純な学問ではなく、縄文環状集落や環状列石が捕捉している時空間[宇宙]の創発力に、至高の価値があると認識して希求し続けた歴史にあるのです。それは二極間の創発力から生まれるもので、例を挙げると、宇宙の意思としては対生成ー対消滅、連携する銀河、二重らせん構造等と枚挙にいとまがありません。

八百万神太陽精神[関東の縄文環状集落が起因]

≪雑談≫  大和に到達した渡来系支配層によって論理化された太陽信仰の起点としての奈良県の檜原の地名は日原の意味です。白川静の[字統」[字通」によりますと、「原」は字形としては崖の下に三泉が流れ出る様子を示すのが本来の意味で、平原を意味する「原」は別の字形で狩猟の予祝儀礼を意味した文字が「原」を転用するようになったとあります。しかし、すでに周礼や楚辞に平原の意味に用いられていることから、檜原は狩猟民族であった渡来系支配層が「天」の代わりに「縄文の八百万神太陽信仰」を遥拝する儀礼の場所と解釈出来ます。多くの人々が集う場所である原は、ヘブライ語でarh(牧場)に定冠詞hを付けてharh(原)またはbar、ヴェトナム・カンボジャのチャム語でpala、与論島でparu、台湾のアミ語でpala、マレー語でpadai、インドネシアのランポン語でpalat、インドネシアのマカッサル語でpalak、パプアニューギニアのニューブリテン島語でpalad、フィリピンのタガログ語でpalar、ニュージーランドのマオリ語でparoまたはpala、朝鮮語でphyol、新羅・九州でパル、アイヌ語でpara(広い)、樺太のオロッコ語でhala、アムール川河口のギリヤーク語でpal(山)、満州語でhaliまたはala、蒙古語でhalaということから、世界的にほぼ同一に発音されています。ただ良く分からないのが、中国語で原をyuanと発音していることです。BC8世紀のアッシリアには地名としてハラがありました。原の同義語には野・平があり、日本語では同義語を抱合せることが多く、平野・平原・野原という単語がそれに当たります。これらの例から、日奉族の関わる日原・檜原・日野は同じ意味の言葉となります。また、ヘブライ語のbar、ルクセンブルグやハンブルグやヨハネスブルグのburgh、リバプールのpoolも原の同義語と推定しています。これらの単語では、p音で始まるものとh音で始まるものがあり、p音単語が流布した後にh音単語が流行したのではないかと思われます。このように類似した単語で、原が表現されていることは、人類の生存空間として原が重要であったことを示しています。また、田中勝也「古代史原論」によると、伽羅の語源として満州語のhala、ツングース語のkala、モンゴル語のxalaを上げて族を意味し、チベット語には国を表すharaがあって高天原の原に通じるといっています。

 太陽信仰を説明する際に、ある山の頂に春分の太陽が昇るとか、冬至の太陽が沈むとかを詳細に分析した素晴らしい理論があります。しかし、そのことは、幾世代にわたって二極間創発力を信じ続けた人々の心の継続の結果が生んだ現象で、初めから意図したものではありません。ここで大切なことは、余り太陽信仰を科学的に論理的に解明すると、時空間の創発力の愛おしさが消えてしまうことです。東京都西多摩郡檜原村は、日奉宗頼時代あるいはそれ以前の武蔵国造時代から、日奉族の拠点であったと推定されます。その根拠は、崇神天皇がアマテラスを奉ったとされる奈良の笠縫[重ね陽]邑に檜原神社[元伊勢]があり、泊瀬の天神山が真東に位置しその山頂から昇る太陽を拝むことが出来る場所だそうです。三輪山は、この泊瀬ー檜原の東西基線からは少し南にずれています。この状態を万葉集巻7の1095では、「三諸つく 三輪山見れば 隠国(コモリク)の 泊瀬(ハクセ)の檜原 思ほゆるかも」と詠っています。三輪山は「もの」という形で二極間創発力を捉えている信仰で、檜原神社よりは少し古い形式です。檜原のアマテラス信仰では三輪山信仰に太陽の全能性を加わえたもので、論理性に傾きかかった太陽信仰へと変化しています。後代の古事記・日本書紀に示されている藤原不比等のアマテラス信仰では、太陽信仰が一神教的論理性[アーリア的]に変質しています。崇神時代にアマテラスが存在したとは考えられませんが、支配者側の太陽信仰は刻々と変化するもので、不比等時代の理解を全てのアマテラス信仰に当てはめるのはナンセンスです。さて、この檜原ー泊瀬の太陽信仰が、日奉宗頼によって関東に持ち込まれ、約800年をかけて日奉族によって東京都西多摩郡檜原村ー千葉県銚子市海上山妙福寺の東西太陽基線が生まれました。これは日奉族による意思継続の力が地上に現れたもので、縄文環状列石を50世代以上にわたって作り続けた縄文精神の末裔ということになります。現在の皇居も長い歴史の結果として、この東西太陽基線の上に載っています。ビッグバンから現代までの宇宙の諸相に対して、離れた所[場の理論では、入れ子状態]から影響を与えている宇宙の意思の存在を無意識のうちに知覚し、それを日々の生活の中に表現して来たのが鄙に住んでいる日本人の精神であって、天皇霊の源泉です。このような洗練された精神が潜在しているにも拘らず、現代日本の支配者層は西欧文明の虜になり植民地主義を真似て敗戦の痛手を受け、その後に西欧の資本主義を真似て世界に乗り出しましたが、人口減少や国土の疲弊でこの分野でも将来性はありません。それぞれの国民にとって大切なことは、若い人々がその国の山河の中で将来の夢を抱ける状態で生活しているか否かです。最近のTVニュースでは、日本の国境の島々を巡って喧々諤々ですが、今の日本社会の対応はそう悪くないと思います。相手国の国旗を燃やしたり建物を破壊したりと、西欧諸国でよくある行動を真似する人が大勢いる国家では、いつの日かそれが自国に降りかかって来て難渋することになります。その現象を古代から祟りと呼んでいます。日本人は西欧人や大陸人とは異なって、一見無意味に見える縄文環状列石を1500年間以上かけて作り続けた総合知を大切にする民族です。現代日本は、ウエストファリア体制後の国家という笠の下に入っていますから、万やむを得ず論理的行動を採らねばならない場合もあるのでしょうが、一般人としては相手国の方々をより一層大切に取り扱うことです。そうすれば少なくも日本人には神の祟りはありませんし、それが神の国といわれる所以です。

 このことについて、もう少し話を進めます。日本で最初にノーベル賞を受賞した湯川秀樹は、素領域[素粒子の大きさ]論の中で、原子核の陽子と中性子がなぜバラバラにならないかを考えた時に、場の理論[総合知]を採り入れてメゾン[中間子]を発見したと述べています。受賞された当時(1949)は、御夫人湯川スミが教え子であるという京都の伯母が、毎夏休みに当家に逗留していた間、夜毎に縁側で月を眺めながらよもやま話に花を咲かせていました。その大人達の話を傍で聞きながら、中間子とは何であるかを知ろうとしていました。遠い遠い昔のことで正確には覚えていませんが、ある時には裁縫の縫い糸のようなものといい、もう少しまじめな時には、夕食の支度で醤油を借りに来た隣の小母さんの所に砂糖を借りに行くような場合に、お互いの心に流れる感情のようなもので、社会はそれが無くては成り立たないという程度に理解していました。後に調べると、湯川は『奥に細道』の冒頭文「月日は百代の過客にして、行き交う人もまた旅人なり[無常こそが宇宙の本質である]」の元文である李白の「天地[空間]は万物[素粒子]の逆旅[仮の宿]にして、光陰[時間]は百代[永遠]の過客[旅人]」から、素領域論を考え出しました。蜂の巣のように形状の異なる仮の宿の何れかを選んで泊まっている客が素粒子というものであって、互いに近接している陽子と中性子との間には逆旅[中間子の宿]が生まれ、そこにエネルギーが溜まって中間子となるという働きがあるから、原子核の形状が保たれているということを知りました。いずれにせよ、空間が現象を生み出す主役で、その空間の形状に合わせて素粒子の性状が決まるのです。最近のヒッグス粒子[場]の発見も、非常に出現確率の低いヒッグス粒子の逆旅を捉えたということでしょう。陽子と中性子の距離は非常に短く、その逆旅の寿命は距離に比例して非常の短いものとなっています。この空間の性質は人の心にも影響を与え、1週間に1度ぐらいは会うことの出来る人と、遠くに住みほとんど会う可能性のない人や悲しくも永久の別れをした人との間とでは、全く異なった感情を抱くものです。

湯川秀樹・スミ氏ノーベル賞受賞記念「軒近き 竹の葉ずれの さやさやと 世の平安を かたるひねもす」

 湯川の思考を芭蕉(400年前)・李白(1300年前)・荘子(2300年前)[知北遊:世人直為物逆旅耳=世間の人々は物が来ては泊まるただの宿屋を為しているだけだ]と遡って行きますと、古モンゴロイド系総合知に辿り着きますので、縄文精神と同じ系統の思考ということになります。このことから考えますと、日奉族が武蔵ー下総に南関東太陽基線を維持することによって、後代に江戸文化・近代東京文化を発生させる空間を整えたのも、一族の意図や願いというようなものによって起因したのではなく、太陽基線上の時の流れの中で平凡な人生を送った無数の人々の摩訶止観[諸法実相に生きる]の維持が、その地域の空間に影響を与えた結果ということになります。今、この文を書きながら、生きるとは次のようなことかと思いました。それは李白が光陰と表現したもの[時]を、天才芭蕉は月日[月と日が巡る時]と書き変えて、風土の時の流れとして表現していることの意味です。特に月の動きが導く時の流れは格別です。伯母が訪ねて来ていた時代には新幹線もタクシーもなく、近くの駅からは徒歩または牛車で旅してました。そのような時代だからこそ、月が東の空から西の杉林の穂先に隠れるまで時の流れを感じながら、種々雑多な話をするという美しい日本人の生活が楽しめたのです。私は子供であったために、床に入っていると遠く庭をはさんで向こうの縁側から静かな話し声が聞こえていました。65年も経った今、その時のことを思い出すと、月の動きが紡ぎ出す時の中での戦時下の苦労を乗り越えた人達の語らいを愛おしく懐かしく感じられます。月による時の表現としては、何といっても川端康成がノーベル賞受賞記念講演『美しい日本の私』の中で、明恵上人の「雲を出でて 我に伴ふ 冬の月 風や身にしむ 雪や冷たき」を解説した部分です。「雲に入ったり出たりして、禅堂に行き来する足元を明るく照らしてくれ オオカミの吼え声も恐いと感じさせないでくれる冬の月よ、風が身に沁みないか、雪が冷たくないか」という明恵の詞書を示して、日本人のしみじみとした優しい心を伝えています。「日待ち]や「月待ち」は、集落の人達が集まって日や月が出るまで飲食し話し合う風習であり、日奉部の祭祀と関わっているという説があります。無視出来ない説だと思います。天動説や地動説に関わりなかった人達が日や月が紡ぎ出した時と冥合することは、言い知れぬ自然への愛おしさを人々の心に植え付けていたのであります。母は1日の家事が終わると決まって氏神様の石段左下の位置に立って月を拝んでいましたが、アームストロング船長の月面への小さな一歩(1969)がTVで放映されると、「足跡を拝んでもしょうがない」と止めてしまいました。科学技術の限界がこの辺にあるのかもしれません。現代の私のこの部屋ではLED光源と電波時計に囲まれて、殺伐とした夜を送らざるを得なくなりました。航空事業が発達し、無数の情報が行き交う現代人は、それらの作り出す虚構の中で生活しなければならず、時空間の演出力を感じられなくなってしまいました。アインシュタイン・オッペンハイマー・湯川秀樹という巨人達が、原子爆弾の開発に関わっていることも事実で、論理性の限界・人間の思考の限界を示しています。東日本大震災を教訓にして、文明とは何か人間の生存とは何かを問い直すことが大切だと思います。

 

 この時空間の創発力への信仰を、平安時代末期の歴史上で最も有名な32代祖平山季重について考えてみます。彼は源義経を大将とする一の谷の戦(1184)に従軍しました。源平合戦の全容は平家物語・吾妻鏡等に語られていますが、観戦していた人はいないわけですから、京都に住んでいた著者が多くの読者が満足するように虚構した情報の集積となっていて、参戦した坂東武士は皆一騎当千の武将として歌い上げられています。大切なことは、季重にとって源頼朝は貴種[アーリア系思想]ではあっても年来の主人ではなく、頼朝がどれだけ南関東の時空間の創発力[当時はもののふの道]を理解しているのかについては、当然のことながら疑問を抱き続けています。ましてや大将源義経に全幅の信頼を寄せているはずはありません。この合戦に参加している坂東武士は、それぞれに多かれ少なかれ同様な思いを抱いていました。源平合戦の中でもこの一の谷の戦が、日本の支配機構が関西体制[高天原・律令=中華文化の亜流]から関東体制[縄文環状集落の故地・日本の独自性]に交代する最大の転換点でありました。それだからこそ、季重は単騎で義経軍を抜け出して遠回りをして平家本陣を突き陣営を攪乱して、義経軍の突入の安全を確保しました。日本の運命を決したこの一瞬のトリガーは彼の勇気にあったのではないかと、末裔である私も誇りに思っています。

東京都日野市平山図書館脇の碑(1851)

 季重の父季直は、日奉族全体が武蔵七党として武門色を強めて行く中で、日奉の峰[東京都日野市平山6]に平山城を構えて、日奉宗頼以来の日奉精神の維持に努めました。その子季重の前に、関西勢力の一方の旗頭である源頼朝という貴種が現れて、関西勢力の支配体制を打倒しようとする矛盾した状態になりました。今の社会情勢と似ていて、平家による資本主義的軽薄性が横行し始めた当時の社会を、日本人本来の質実清廉な社会に帰そうという目的は、坂東の「もののふの道」を満足するものでしたが、頼朝という貴種に導かれることになると、いつの日にか先祖返りする可能性の高い事態であることは、坂東武士の全てが肌で感じていたことだと思います。このことが、季重をして武者所という名を頼朝の前でさえ使い続けさせた理由だと考えます。鎌倉政権からは墨俣城以東への帰国を一時的に止められたり、武蔵国の所領を西多摩地区だけに追いやられたり、難しい立場に追い込まれています。しかし、季重の子孫達は和田の乱を起こした和田義盛とは異なり、幕府側の挑発に対しては貴種である名族千葉氏等の力を借りて回避し、主力を奥多摩と下総で日奉精神の発展に注ぎ続けました。このために、平山を名乗る一族には、日奉精神を維持する平山と、武門に特化した平山と、同族横山氏の平山と、千葉氏から出た平山とが混在しています。中国や韓国のような論理性の強い国では系図に重きを置きますが、日本では系図は余り意味のないこと[人類史的にも]で環状列石の構築の経過でも分かる通り、一族が伝承し顕現した精神がどのようなものであったかが大切なのです。 

 千葉県の中央西部と東部において縄文精神を伝承していた先住民の各グループを、海上国としてまとめた海上族[出雲族]と呼ばれる一族が現れました。その海上族の一部が、東京都多摩地区に進出して先住民各グループを武蔵国としてまとめました。この海上族は毛野国から南関東へ進出して来た出雲族と考えられます。遅れて毛野国から武蔵国に入ったニギハヤヒ[後の物部]系の人々が、埼玉県秩父市や川口市あたりで勢力を拡大し、武蔵国の支配の中心地を多摩地区から埼玉古墳群地区へと移動させました。この時の争いが、日本書紀でいう武蔵国造の乱(534)ということになります。この混乱に乗じて多摩地区は大和朝廷に奪われ、関東の出雲族の拠点であった毛野国の中にも朝廷の直轄地が作られて、関東の縄文精神を維持していた人々が続々と大和朝廷の支配に屈服しました。続いて、大和朝廷では敏達大王が自ら他田宮に移って日祀部を設け、千葉県の鏑木地区に逼塞していた海上族を大和に移動させて他田日奉族として体制側に取り込みました。これにより、関東は物部氏・藤原氏・平氏・源氏等の大和勢力の草刈り場となり、実質はともかく朝廷側では関東を亡弊国と呼ぶようになりました。この時代の後期に国司として多摩に着任した日奉宗頼は、日野市東光寺地区の七つ塚あたりに居を構え、その地区は七尾村ともいい、武蔵七党の拠点でもありました。この七の文字は、北斗七星から来ているもので、大陸における北斗七星信仰の影響を受けたという四隅突出型墳丘墓を構築した出雲族が、多摩地区を支配していたために名づけられたものと思います。すなわち、縄文環状集落時代に、武蔵地方と海上地方とはすでに縄文精神の共役二極構造[後の日奉精神]があり、その構造が出雲族のクニ的支配に代わっても維持されていました。その後に大和側の論理性が侵入すると、縄文精神の共役二極構造では「もののふの道」が生み出されたものの、徐々に社会の表面からは消えてしまいました。日奉精神を継承する平山季直・季重とその子孫達は、関西論理性の亜流である鎌倉幕府内で地位を保つよりは、この二極構造を維持することを最優先しました。幕府に対して圧倒的な力を持ち、下総の地を支配していた千葉氏の力を借りて[貴種には貴種を]、奥多摩と下総に日奉族としての共役二重構造を、その後数百年にわたり維持していました。

 原子核内では陽子と中性子の間に逆旅[仮の宿]が生滅して形状が維持されるのは、質量の存在によって影響を受けた空間に変質が起こるからです。また、2012年5月4日のNASAの発表によりますと、アインシュタインが予言した4次元の「時空のゆがみ」を、望遠鏡装備の人工衛星を地球の周回軌道に乗せ、遠くの恒星の観測角度の僅かな変化を調べることによって、地球の自転の渦効果と質量による「時空のゆがみ」が、彼の予想した通りに存在することを伝えています。このように、原子核内という微小な空間から宇宙という超巨大な空間に至るまで、「時空のゆがみ」が宇宙の存在にとって重要な働きをしています。分析知によって存立している学説を超越すると、仏教の「空」や老子の「無」・「道」は、この「時空のゆがみ」の鼓動を説いたものでしょう。8代外祖伊藤仁斎は、朱子学が説く物の価値に関わる「理」とエネルギーの働きをする「気」とからなる二元論を、「理」が人間性[気]を抑圧するとして否定し、外圧を受けない根源的な宇宙に充満する「気」の一元論を導きました。彼は「物は両=二ありて、而して後に化す。…これ天地自然の理…」と説いて、活道理[動]すなわち場の理論の存在を示しています。日本人が論理性の強い学問という領域を超えることが出来れば、アマテラス信仰が捉え損ねた天皇霊の真髄が見えて来ると思われます。東日本大震災は日本人にそこに気付くことを諭しているようです。二極間を流れる歴史そのものが日奉精神すなわち縄文環状集落精神の創発力であります。

 少し脱線しますが、関東平野では毛野国[群馬・栃木]から下総国・武蔵国[南関東]への文明の流れが、古代から江戸時代中期頃まで続いていました。文明の流れがあったということは、その間長期のわたって毛野国が高い文明を維持していたということになります。約3000年前の芦ノ湖の形成やその後の富士山の爆発によって、今の東海道ルートは多量かつ安定した交易には適していませんでした[土器の分布を見ると、強引な結論かも知れませんが]。このために、関東平野は大陸からも遠く、平野の西側と北側は山地で囲まれて、大陸の論理性の影響が緩やかであったために、縄文精神を残留することが出来ました。そこへ、関西地方の勢力の移動が始まり、最初は出雲族が、次いでニギハヤヒ[後の物部氏]が侵入して、クニ的支配[論理性の浸透]が芽生えました。その後、朝鮮半島から馬を活用した交易が渡来して、碓氷峠付近から大量に関西系の文明が、群馬地方[群馬=天皇の乗輿を作った車持氏と牧の存在に因んで命名]に流れ込みました。神武勢力が佐野という地名を、崇神勢力が大田という地名を、紀氏が鬼怒・荒川という地名を…というように数え切れない文明が流入して、今にその痕跡を残しています。こうして、高崎市あたりが関東地方で最も文明の発達[論理性の強い]した拠点となりました。この文明の源である大和の支配層は朝鮮半島からの渡来人ですから、それぞれの移住地に故郷朝鮮の地名が付けられました。群馬県の鏑川は韓川と呼ばれていたのが、武士勢力が台頭して鏑矢[スキタイで開発されて、ロシア南部草原ルートを経由して約3500年前に中国へ、約1800年前に日本へ]の鏑川に変わったといわれています。また、多胡碑(711)は渡来人のために多胡郡が設置されたことを記念した碑です。下総国の日奉族の地「日部」に多古と鏑木の地名が生まれたのは、平将門を討伐した平良文の子孫千葉氏が、高崎市の七星山息災寺[出雲族の拠点と推定・妙見寺]の妙見信仰を下総国に普及した際に、群馬の日奉族が発祥の地へ移住して来て、故郷の名跡[多胡碑・鏑川]から多古・鏑木の地名が生まれたと考えられます。その他にも、下総には太田[現旭市]・足川[辛川=韓川]の地名や干潟八万石開拓時(1700年前後)の入植者に佐野の出身者が多いのも、毛野国から下総国への文明の流れがあった証拠となります。ここで注意しなければならないのは、妙見信仰の普及は表面上の事実で、実際には天台宗信者の持つ情報伝達システム[軍事・医療・教育・農業技術]を千葉氏が新しい支配地に構築して地域支配の安定を図ったということです。

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