水分子の意思 HP

水分子の意思とヤマトこころ  HP 【次のページへ】          日奉大明神38代平山33世高書 

 日奉精神は、体内時計の働きが活発であった縄文以前の古代人が保有していた、太陽光の働きを畏敬する精神で、文字が伝来した以後の史料等の人工物から、この精神の本質を探ると、古代人が希求していた精神とは逆の精神が作り出されることになります。東日本大震災で自然エネルギーの想像を絶する力を経験しましたが、太陽エネルギーはその力とは比較にならないほど巨大なものです。この太陽系において、地球周辺の空間[ハビタブルゾーン]では、水が存在するために適した環境が整っています。絶え間なくエネルギーを供給し続ける太陽光と、そのエネルギーを利用して無数の生命体が存続するための多くの価値を創造する水とが、日奉精神の構成要素であることは容易に想定されます。光エネルギーと水という二つの構成要素のうちで、光子はプランク定数の考えに従うと波長によってエネルギーが異なるために、多様な創造性を秘めています。また、この光エネルギーを捕捉する水も、宇宙に存在する物質の中でも特異な物質で、その多様な性質が複雑怪奇な生命体を生み出す原因となりました。日奉精神は、生命体である人間という形式が、究極的に表現する宇宙の意思であり、ビッグバン宇宙論が正しいとすれば、空間ー光子[場]−質量の関係の中に存する精神であります。

2つの水分子の結合

 水分子は酸素原子1個と水素原子2個から出来ています。水分子はピラミッド[実際は4角錐なので水とは異なる]型のような正四面体の型をし、その中心に酸素原子が位置していて、四面体の四つの頂点の内の二つの頂点に水素原子が+に帯電して位置し残り二つの頂点は−に帯電しています。水分子同志が近づくと+の頂点と相手の−の頂点が水素結合[会合液体]します。他の種類の分子集合と比べると、分子間結合力が強くて離れにくいために、沸点[100℃]や融点[0℃]が高く保たれています。また、周囲の水分子との接合点が四つと決まっているために、球体の最密充填の十二個と比べて、氷は隙間の多い結晶構造となります。氷が融けて分子間距離が広がると、別の水分子が入り込んむために、4℃で最高密度を示すことになります。海や川や水溜りの水は表面から凍り、地球の表面で生成された有機体の情報が、氷の下の4℃の水の中に保存されて、地球が氷河時代になっても、有機体の複雑化は継続されて、地球上に歴史という重要なソフトが生まれました。創造された細胞には、無数の超微細な空孔があって、その中に閉じ込められた水には、15・30・45・60℃の温度で、分離圧が極値を示す特異な性質があります。生物はそれぞれ値の中間の温度を利用して生存し、人間の体温が37℃付近に保たれているのもこのためです。水分子の構造は一瞬[10の−12乗秒]で生成消滅を繰り返していて、生体を構成している水分子自体も一瞬にして外部の水分子と入れ替わっています。大人の体重の約60%は水で、腎臓で1日約180Lの水が再生されています。これらの水に関する基本知識の下で、生命・自己・精神を考えることが重要となります。

 現代人が、文化や文明と言いながら地球上に歴史を刻んでいる行為は、無数の人間という形をした水袋が、地表をあちこちと移動し、遭遇する水袋との間で、新しい価値を生み出す過程に過ぎません。最近のミクロ世界におけるヒッグス場や湯川秀樹の中間子論そして創発理論の進歩等から、マクロ世界でも生命体という水袋同志の遭遇空間で新しい場が生まれて、遭遇した生体の精神的エネルギーがその場に注がれ[善知識=よき友]、文化や文明の基礎となる新しい価値が創発されていると類推することが出来ます。

 日本列島には、1万年以上前から縄文人と呼ばれる古モンゴロイドが住んでいました。鹿児島の姶良大噴火等の火山活動の影響だと思いますが、縄文人は日本列島の中央構造線の東側、すなわち北米プレート上に集中して住んでいましたこの人々の縄文環状集落は、一日を通じて相互の存在を意識することが、最も大切な価値[善知識=よき友]であると、無意識に体得していたことを示す遺跡であり、いわゆる日本的八百万神[中東やギリシャ・ローマの多神教とは異なる]の源流です。人間相互間の価値の創発システムを、日々の生活を通じて維持することが、環状集落の意義ということになります。この精神が漸次北上して東北や北海道にある環状列石へと変化して象徴性が現れました。縄文環状集落は、後代に、仏教の「是法住法位、世間相常在」や老子の「隣り合う地域の人々の生活は見えているし、犬や鶏の鳴き声は聞こえるが行き来はしない」とあるように、社会が創発性を大切にしている理想郷といえます。環状集落の中心には、墓が作られている場合もありますが、現在の創発システムが過去に生活した人々との間でも成り立っていることを示しています。

 総合知の中で生活していた縄文人は、大陸から十数万年の時間をかけて、間欠的に渡来した人々の子孫です。ユーラシア大陸の西の端のヨーロッパでは、二十万年前頃にクロマニヨンが登場し、その後の約十七万年間の長期にわたって総合知を発達させ、沢山の洞窟壁画を残して、忽然と何処かに消滅したと[バスク人がその末裔とする説も]言われています。しかし、今のベトナムの南方にあったスンダランドに住んでいて、後に古モンゴロイドとなった人々は、少なくともクロマニヨンの総合知を継承していたと推定されます。このスンダランドの水没に従って、四方に拡散した古モンゴロイドの精神であるマナ・モノや、後代のシャカ・老荘等の精神は、このスンダランドの総合知の伝承したものです。シャカ・老荘の思想となりますと、文字が発明された以後で、アーリア系の論理性に対抗またはその影響を受けて生まれた思想でありますが、総合知の本質は正確に伝承されていて、水の匂いのする総合知と言えます。老子第8章[上善の水]では、水は他を利して競争をせず、目立たず、最高の善であると説いていますが、その水の性質は、水分子のファンデルワルス・双極子・水素結合の力の絶妙なバランスによって創出されています。

 日本列島に住んでいた人々の精神の変遷として、先ずは圧倒的な自然の中で家族や小集団を大切にしていた人々の心[自然環境の内在化]の集積があり、そこに古モンゴロイドのクロマニヨン的総合知が伝わり縄文人の精神が生まれて、主に東日本で発展しました。BC500年頃から中国北部を経由して、シュメール・ドラビダ等の論理化の進んだ総合知が伝わって来て、弥生・古墳時代が形成されました。その後に、道教・儒教・仏教等に姿を変えたアーリア系の論理性が伝わって律令時代に入りました。

 人口の少なかった日本列島西部の大陸プレート上に大陸東部から多数の人々が渡来し、日本古来の総合知が急速に分析知に置き換わり、関西地方で文化が開花しました。律令制[国家という虚構]が導入されようとする時期に、この論理化にブレーキを掛けようとしたのが、敏達天皇の日奉部の設置(AD577)であります。しかし、その後も朝鮮半島を経由した中華文明[アーリア系の崇高性・論理性]の流入によって、日本文化の論理化は極度に進み[白鳳・天平・平安文化等]ました。この歴史の大きな流れの変化を敬遠したのが日奉宗頼による南関東での日奉精神の再構築(AD932)であり、平山季重[日奉の峰]の一の谷の戦(AD1184)における先陣の活躍も総合知の故郷・南関東に日奉精神を維持しようとするトリガー的役割であります。この論理化を敬遠する心は、「もののふの道」[宮本武蔵以降の職業的論理的な武士道とは別種]を信奉する坂東武士の精神基盤を形成していましたが、鎌倉幕府以降の体制が論理性に傾いたものであったために、日奉族は千葉氏・那須氏と連携して、鎌倉幕府に対して面従腹背的な行動を取り続けました。鎌倉時代以後の南関東は、商業化された武士という形で論理化が進んで、総合知の維持を目指す日奉族は、滅亡の窮地を何度も経験しました。戦国時代末、商業武士の典型的存在であった後北条の支配に対しては、日奉族は同族で敵味方に分かれて対応せざるを得なくなりました。その後の更に論理性の進んだ豊臣秀吉からの招聘に対して、24代光義は相州の山に入って仙人になったと称して、自己の論理化を回避しています。これらの時代を通じての総合知維持の社会活動は、集落と寺院を開発して人々の生活の安寧を目指していました。これは大乗仏教の利他行で裏打ちされた日奉精神です。水袋としての人間の多数の集まりが、質素で楽しく日々を重ねる空間を、人間の存在にとって最も大切な営為であるとしています。これは縄文環状集落の心であり、原日本人の精神であります。日奉精神としては、やや論理性に傾いているものの大乗仏教の力を借りなければ、時代に対応出来なかったことを示しています。

 戦国時代末期なって、東総における千葉氏の支配が衰え、日奉精神の維持を千葉氏の力に頼ることが出来なくなって、日奉精神の発祥の地・鏑木村を日奉族の自力で開発しなければならなくなりました。しかし、幸いにも徳川幕府は建前上の支配機構である天領として鏑木村を管理したために、実質的な自治を行うことが出来ました。有名な干潟八万石の開拓に際しても、幕府も日奉族も表面には立たず、江戸の新興勢力等の欲望を利用しています。開拓が一段落して彼等の欲望の行き詰まりを見て、日奉族は開拓地外の伝来の土地を売却して、百石部落や三軒家部落を開発して万力村の基礎を作りました。日奉精神の在り方として重要な点は、江戸時代を通じて十一人の当主が交代していますが、誰一人として名主等の体制側の役職に就いていないことです。歴史学者の方々は、この状態を大名主と表現していました。日奉族が人間の精神として、国という支配体制[論理性]を敬遠して来た史実を解明出来ないままに、それらしい単語が当てはめていることを注意すると、豪農という更にあいまいな表現に代えられました。同様に人別帳にも当主は記載しないように注意を払っていたようです。これの事実からも、日本の風土の語りかけている尊い人間の在り方[総合知]をもう少し深く読み解いてほしいものです。

 このように、日本列島では、北米プレート上[東日本]で人類の古来のそして究極的価値である総合知が満ちていました。約2500年前頃からは、大陸プレート上[西日本]に大陸から中東・西欧で生まれた文明が到来して繁栄し、現代に至るまで全土を覆い尽くしています。それでも、鎌倉時代から江戸時代までは、総合知に敬意を払った文明が続いていました。黒船の来航後、論理性の強い西欧文明が太平洋から直撃し、長州藩を始めとした分析知の素養に富む関西勢力が、支配体制を構築しました。平安時代から亡弊国として論理化を敬遠して、営々と培ってきた東日本の富を、明治維新というキリスト教資本主義を信奉する関西系の人々が収奪して、近代国家という論理性を全国に浸透させました。国内の収奪が限界に達すると、西欧の植民地主義を真似て大陸の富を収奪する戦争を行って失敗してしまいました。しかし、敗戦国日本は、幸か不幸か朝鮮戦争とベトナム戦争の特需の恩恵を受けて、世界第二の経済大国という幻影を掴むことになりました。文明というものは、メソポタミア・エジプトから始まって、全てが凋落するという宿命にあります。アメリカを中心とした西欧資本主義文明や中国の共産主義文明も凋落する宿命にあり、現実に社会の諸相で凋落が見え始めています。この緊急事態を避けるために、最近はグローバル化やエコを標榜して大量消費社会の再生が叫ばれています。しかし、これらが人類社会の存続に対する劇薬でないことを、社会学者や生物学者に検証してもらいたいものです。

 西欧資本主義という強度な論理性の故郷は、現在、西欧諸国が戦争を行っている中東やアフガニスタンであります。その地のセム系とアーリア系の人々の思想が源流となっています。この地域の風土は東南アジア・モンスーン地域の風土とは対極の性質を示しています。水の循環エネルギーの恩恵が少なく、元々の多神教社会の下では、才能を持って生まれた人々の欲望を満たすことが出来ませんでした。このために、ヤハーウェーやアフラ・マズダーやブラフマンという最高神を有する宗教が生まれました。これらの宗教社会では、神職者集団が他者には理解出来ないような複雑化した秘儀を編み出すことによって、その地位を保っています。このために彼等の社会では階級差別が必要不可欠な要素となっていて、選民思想やカースト制度はその典型的なものとして存在しています。この論理性の強いバラモン教の栄えた地域の東側で、水の循環エネルギーの恵まれた地域で育った釈迦が、バラモン思想の論理性を敬遠し総合知を取り入れることによって、仏教が生まれました。仏教は、バラモンと同様に論理性の高いゾロアスター教の栄えたペルシャの東側で、水の循環エネルギーの比較的恵まれた地域に伝搬して、その総合知をゾロアスター教的論理性で再修正することによって、大乗仏教[利他行・空]として生まれ変わり、パルティア・ソグド等の西域人によって中国に伝えられました。このために、アーリア人のミスラ神が阿弥陀仏や弥勒仏となり、ゾロアスターのフラワシ祖先信仰が盂蘭盆となって東伝して、日本古来の精神を取り込んで、「草木国土悉皆成仏」の仏教が生まれました。

 世界各地で多くの神々を信じていた石器時代から青銅器時代へと発展した頃に、ロシアの南側で火=太陽[ミスラ]と水[ヴァルナ]を中心とした階級的神格が現れ、その神官階級に属していたゾロアスター(BC1500年前後)によって、アフラ・マズダーを中心としたゾロアスター教が作られました。相前後して、メソポタミア文明の栄えた地帯ではヤハウエの神格が現れ、前13世紀のモーセの出エジプト・バビロン捕囚(BC587‐538)・ユダヤ戦争(AD66‐70)の混乱の結果として一神教へと論理化が進みました。また、ギリシャでは、ソクラテス・プラトン・アリストテレス等によって哲学(BC469-322)が完成し、アレクサンドロス大王(BC356‐323年)の東征によって、その思想がゾロアスター教・バラモン教の故地にまで影響を与えることとなりました。大乗仏教の成立には、このように最も論理性の高いアーリアの思想がいろいろな形を取って影響を与えていますので、国家の成立期で論理性を渇望していた日本社会には浸透し易かったと言えます。しかし、総合知に育まれてた日本人の多くは、心の深層で物足りなさを感じていました。この空隙を埋めようとする試みが、敏達天皇の日奉部の設置(AD577)であり、藤原不比等による一神教的日本神道[分析知]と天皇霊[分析知に基礎を置いた総合知]という二極構造の構築であります。渡来して来た人々の論理性では捕えきれない縄文精神を捕え続ける曖昧性に崇高な価値を見出したのが、大天才不比等の天皇霊であると考えます。この総合知と分析知との間の揺らぎの一例としては、徳川家康と仏性院日奥聖人との間の心の揺らぎがあります。これを日奉族として25代図書光高が如何に捉えて対処したかが重要だと考えますが、大変複雑ですので別に機会に述べます。

 真珠湾攻撃が行われた頃、父は香取航空基地の建設に協力することを海軍の関係者から内々に要請され、それは全財産を失うことを意味していたので自身は乗り気ではありませんでしたが、田の畔草を刈っていた人々から助けを要請されて、村長を引き受けたと語っていました。敗戦を意識していた父は、日奉精神の真髄=日本人本来の精神を自身で探る余裕を立場上失ったために、それを私に託していました。野山の散策を装いつつ、ベルクソンの時間論について暗記している夏目漱石の小説のいくつかを用いて説き聞かせ、時には天台智の摩訶止観を雨あられのように私の頭に語り掛けていました。5歳程度の私に理解出来る訳もなく、辺りの景色を見ながら聞き流していましたが、摩訶止観を聞いてる時は、どうしてこうまで難しく論じなければ人生が語れないのだろうか、これでは高僧や大寺院は生まれるだろうが、道行く人達に目の輝きを与えられるのだろうかと思ったりしていました。今にして思えば、アーリア人等の創造した論理性は、更なる高度な論理性を生み続けることによって、価値があるとされる性質があるためです。

 このように、5世紀頃以来日本列島の古来の総合知を根底から変質させて来ているものは、道教・儒教・仏教等の姿を借りたセム・アーリア系の分析知であります。その分析知の代表は、ゾロアスター教・ヤハウエ教・バラモン教・ギリシャ哲学であります。これらの精神の特徴は、戦争の中で生まれた思想で、戦争という場で高度に熱せられた水袋としての無数の人間が遭遇することによって、善悪は別として多量な価値が創発されることが利用されています。乱雑かもしれませんが、これらの精神の発祥地では、青銅器や騎馬や車輌が登場して、交易が発達して、平時でも無数の人間が遭遇する機会が生まれ、高度な文明が創出されました。中国では夏[価値]・殷[商]・周・秦と全ての王朝が、騎馬や交易を基礎として西方から誕生しています。日本列島でも、5世紀頃に馬が移入されて関西に統治機構が誕生し、群馬の名称が残っていることからも分かる通り、関東平野北部に支配体制が及んで来ました。

 このセム・アーリア系の論理性の末裔であるアメリカを代表とする西欧文明と中国を中心とする共産党文明が、現在は全人類を支配しています。文明史を見れば明らかなように、滅亡しなかった文明は存在しません。文明の中に生きている人には見ることが出来ないものですが、離見の見とでも言いますか、現代資本主義社会を少し離れて眺めますと、現代社会は人類の使命や理想[清楚]への設計図を持たずに、ただやみ雲にエネルギーの争奪を繰り返しています。エネルギーは使用する量に比例してその空間を疲労させ、結局はその国土が疲弊してしまいます。現在の野山や農村の自然環境やそこに住む人間の活気を、戦前のそれと比較して見れば一目瞭然です。

 現代文明の源泉はセム・アーリア系の精神でありますが、彼等の精神は戦いの中で生まれています。その原因は、人類発祥の地アフリカからユーラシア大陸に人類の祖先が間欠的に進出する際の出口に位置していたために、争いの絶えない社会が継続して存在していたことによっています。論理性に生きる人々の価値の創発には、水袋としての人間同士の激しい遭遇の機会が必要不可欠であって、戦いはその最高の場ということになります。しかし、戦いは多数の戦わない人達の犠牲によって成立するものです。戦い[平和というハッピを着た経済や学問も含めて]すなわち文明は、社会の差別を基盤として成立しています。インドのカースト制度はその典型です。インド・アーリアの聖典マハーバーラタ6巻バガヴァット・ギーターを見ますと、御者クリシュナを装った最高神ヴィシュヌが戦いを厭う王子アルジュナに「行為の放擲(ホウテキ)=無心で正しい戦い」を行い、真実のアートマンに達し、ブラフマンと一体化するように説いています。これはカースト制度の上位二階級の中で成立する理論で、自然環境の中の人類全体にとっては成立しないものです。仏教はこの論理性の限界を補うために生まれましたが、西伝してゾロアスター教やギリシャ哲学の論理性の影響を受け大乗仏教に発展して、中国・日本に渡来していますので、論理性が強まった仏教となっています。このため、古モンゴロイドの総合知を宿している中国や日本で、廃仏運動が起こりました。数万年のスケールで人類史を眺めると、文明が成立してから現代までの論理性の歴史は、過渡期の文明と言えます。廃仏運動とまでは言えいえませんが、敏達天皇の日奉部の設置は、文明に洗脳されていない、より純粋な日本の心が、消え去さろうとしている総合知を留めて置こうとした努力であります。

 老子の「上善の水」では最高の徳は他を利することといい、大乗仏教でも利他行として尊ばれています。現代は分析知の究極の発達段階の、資本主義の海の中にいるので見えないことですが、利他は人間存在の根本機能で、老子や大乗仏教がどう説いているかは問題ではありません。縄文環状集落や環状列石は、その人間存在の根本機能の尊さを地上に表現したものです。利他は、日本人固有の精神ではなく全人類の基本精神ですが、アジア大陸東南部や日本に住む人々に強く現れるのは、人類の発祥地から遠く幾多の困難を乗り越えていることと、水の循環エネルギーが豊富なことによっています。未来社会では、仕事は名誉や対価のためではなく、利他の徳を積み重ねるために行うようになります。そのためには、文明観を根底から変える必要があります。

 日奉精神を継承する社会活動の基本は、人口密度の低かった時代では山林の再生力[水の循環エネルギー]を用いた農村集落の開発でした。この開発を通して後の時代に利他行と呼ばれる精神が現れ、その集落の活動を距離を取って見つめることが、人間の最高の美徳であり、日奉精神の発露であり、藤原不比等が創出した天皇霊であると考えています。「世界に冠たる国民皆健康保険制度」を日本社会に定着させたのは朝鮮戦争の特需による日本経済の復興にあることは否定出来ません。それ以前にも、この制度の基礎となった努力は全国にあったようです。その一例を、太平洋戦争中の日奉精神の利他行としての父の活動の中に見ろことが出来ます。土煙の舞う香取海軍航空基地建設や直向きな兵士達の活動の裏から息衝いて来た健康保険制度の成長を、記憶に頼って簡単に記します。 

 1931年[昭和6年]:「教育会の精神」という論文で、農村地帯における無料医療・教育・女性の地位向上を説く

 1938年[昭和13年]:厚生省発足、国民健康保険法公布←→国家総動員法公布

 1939年[昭和14年]:ノモンハン事件、米穀配給統制規則公布、干潟海軍飛行場[中国大陸戦線へのパイロットの養成]

 1941年[昭和16年]:真珠湾攻撃

 1942年[昭和17年]:干潟海軍飛行場は大本営直属の第一航空艦隊が駐留する香取海軍航空基地に昇格[太平洋戦争の表舞台へ]、当家の裏の農地から基地造成用の赤土・水源・電源ルートを提供することによって、国民健康保険制度の実現の障害を取り除く…鎌倉・足利・豊臣・徳川等の政権からの不即不離の距離を取ることによる利他行の実現=日奉精神

 1943年[昭和18年]:古城村国民健康保険組合の組織化、愛育委員会の併設

 1946年[昭和21年]:戦争協力者として公職を追放された

 古城村国民健康保険組合[昭和23年]  愛育委員会[昭和21年]

[昭和28年]

 1950年[昭和25年]:朝鮮戦争勃発…年末より特需景気

 1986年[昭和61年]:父は癌の痛みを耐えて、開発に心血を注いだ健康保険制度から距離を取って、九十二歳の人生を閉じました。最期は十分おきに繰り返す入院の勧めに、治ったら行くと繰り返し答えていましたが、その応答の声が聞こえなくなったのを確認して救急車を呼びました。居間から担架で担ぎ出されて、前庭の奥に消えて行く父を見送りながら、なぜか秋風に揺れては返す草原の波の上を歩いて立ち去る父の姿が脳裏に浮かんで来ました。ジャン・ジオンの「木を植えた人」のような感情に浸りました。「もののあわれを知る」を基本理念として国民健康保険制度の実現に努めた者が、自分自身はその制度を避けて逝くという「もののあわれを知る」を窮めた人間らしい最期でした。当時八日市場保健所長を務めておられた本田保三氏がお悔みに訪れた際に、「自分にも制度の重要性は理解出来たが、あの頃は戦時下で医者にさえ反対する者がいて、しかも秋にしか収入のない農村地帯で保険料を徴収することは不可能だと思っていた」と話していました。繰り返し発生した矛盾の中での人生であったためか、夜は子供達を集めてアンターレス・スピカ・カシオペア等の星々を指差しながら得意な「島宇宙説」を聞かせていました。この時期に所蔵していた全ての日本刀や鉄砲は基地建設や保険制度の事業資金とするために人手に渡ってしまいましたが、衣装籠の中に懐剣と短銃だけが残されていました。二階へ上がって秘かにそれを見る度に、アメリカ軍の艦砲射撃により村が消滅する際の、坂東武士の末裔としての覚悟が伝わって来ました。敗戦後、日本国の指導層が自ら戦争の責任を取らず、平和という隠れ蓑の裏で生き残り復権して行く姿を見て、父は懐剣や短銃も手放し、戦死者の村葬一つ一つを丁寧に弔う好々爺に変わっていました。

 日奉精神は1万年を超える縄文の精神ですので、父も私も十分には咀嚼していませんが、取りあえず父の立場では「もののあわれを知る」という精神を実社会にどう適応するかということになります。アメリカ軍[ニミッツ海軍元帥]の九十九里浜への侵攻作戦によって、死別が近いことを知っていたために、幼児の私を陸海軍の施設や健康保険制度の現場に機会あるごとに連れ出していました。そこでの知ったことは、日々遭遇する諸問題の流れの中で、いつ適切な虚構を導入するかでありました。例えば、先に述べました農村での保険料の徴収問題ですが、父は僅かに残っていた自分の財産を売った資金を二階に保管し、あちこちの集落でパラチフス・コレラ・赤痢等の発生の知らせが入ると、軍や東京の知人を頼って薬を探し出し、人を雇って薬を東京まで購入に行かせ、医者に配布していました。この措置によって、保険料を支払うと命が助かるという噂話が隣村までも流れて組合の運営が進んだと、その仕事に携わった方から後年に教えらえました。しかし、これらは方便の世界の出来事でありました。アメリカの爆撃機B-29の編隊が1万bの上空を銀翼を輝かせて悠然と飛行する緊迫した世相の中で、人々が健康を求めて集う僅かな機会を捉えては、その人達に万葉集・漱石・荷風等の話を聞かせていました。この一瞬の風光の中に、人間が生きるということの真諦が凝縮され、「もののあわれを知る」という精神が顕現されていること知らされました。このような無給の仕事を可能にした原動力は、嫁入り道具を売却して陰で家計を支え続けた母の精神力[伊藤仁斎・石崎反求堂の精神]でありました。話は変わりますが、祖父は明治の混乱期に学校を創建したり、近隣の村々に風琴[オルガン]等を寄贈して農村の教育の普及に努めていましたが、この祖母も50人もの女中さんを使う身分にいながら、自身は冬でも足袋を履きませんでした。昔は地震時の火災対策として、就寝前には炬燵の土瓶に水を足す習慣があり、離れから長い廊下を母屋まで、水を汲みに来る祖母の鉄瓶のきしむ音が私の寝床まで聞こえて来て、「足が冷たかろうに」と思っていました。私の知る限り、この二人は世の一般の女性がするような装飾品を身に着けたことは一度も見たことがありません。この緊張した清貧さを百年・千年と維持することによって初めて日奉精神が現成することを、この家の空間[場]が教えるのです。この精神的位置が法華経でいう「法位に住す」に通じるのでしょう。

 この虚構ということの重要性を更に考えます。文部科学省が監修した宇宙図によれば、図の上部真ん中に人の絵があります。この人の絵は、私達一人一人を始めとしてすべての存在の、宇宙での位置が表されています。1つの存在とビッグバンの始点を1対1の対応で描き、それぞれが掛け替えのない存在[草木国土悉皆成仏]であることを示しています。人の絵の下側に描かれているローソクの炎のような立体形状の外縁の部分だけが、その人が知覚可能な過去の空間であることを教えています。私達人間には、人の絵より上側に位置する未来は全く見えず、すぐ横の現在も見えません。自分の手の平でさえ、過去のわずかな部分だけしか見ることが出来ないことが分かります。私達はよく空(ソラ)の向こうに未来を夢見ることがありますが、実際は、空(ソラ)という過去の表象の中に、未来という虚像が浮かぶだけなのです。未来を夢見ることは、長い経験に裏打ちされた時空への信頼によってのみ成り立っています。

ヒトゲノムマップの一部

 同じく文科省が監修したヒトゲノムマップでは、137億年の時間の経過の中で複雑に現成された宇宙意思が、ゲノムという形式で私達一人一人に書き込まれ、未来を制御していることを教えています。この未来図も宇宙の長い長い過去の出来事の集積に基づく時空への信頼によって成立しています。人類の場合は太陽エネルギーの散逸系の中で身体の全てが構成されていて、太陽エネルギーの影響を超越していると思われる人間の思考も、太陽エネルギーを基盤としなければ成り立ちません。宇宙や太陽光への信頼によって虚構されている人間の思考は、東日本大地震や誰かとの出会い等の予想を超えた出来事によって、新しい現象が日々刻々と創発されるために、不安と希望を綯い交ぜにした未来を内蔵しています。このような未来の不確定性のために、戦時中に父は幼児の私に日奉精神を伝えるのが難しく、小学校の校庭で軍人を集めて訓示をした際には、私を階級章を付けて居並ぶ幹部兵士の末席に座らせて聴講させ、訓示が終わるとすぐに裏山に昇って、訓示とは全く異なった内容のベルグソンや夏目漱石の「時」を、全く理解出来ない幼児の私に話しかけていました。この行為を何度も繰り返しているうちに、父を含め校庭に集まっている人達はすべて虚構の中に生きていて、ただ遠く栴檀の木の上空の空間やマイクも無く大声で話す声が途絶える一瞬に、校舎の裏側から聞こえて来るトウトウトウトウという筧の音に、永遠性に繋がる大切な何かがあると思うようになりました。

  新薬が開発された時には、薬類の全く入っていない偽薬[プラセボ=泣き屋ギリシャ語]を作って、医者にも患者にも知らせず[二重盲検法]に開発された薬と偽薬を使用して、薬の効き目を確かめます。一般に偽薬の効果は3割程度ありますので、開発された薬に偽薬を超える効果が出ないと開発が中止されるそうです。このように投薬にはプラセボ効果が存在するために、信頼出来る主治医に巡り合った場合、薬効が上がることがあります。プラセボ効果は患者の自然治癒力と心理効果で生まれますが、東洋医学以外の客観性が主体の近代医学では余り重視されていないそうです。分析知の発達していなかった江戸時代以前の医療は、僧侶や名士に頼ったものであり、彼等の実施した医療処置はほとんどがこのプラセボ効果を期待したものだと推定されます。日奉族が千年以上にわたって開発して来た村落には、通信・医療・教育等の総合知を備えた寺社が併設されています。西欧の分析知が支配的となった明治維新以後では、祖父の教育や父の医療の普及というように分析知的制度に偏って村落を開発するように変化しています。この寺社・学校・診療所等は、それら施設が村落に存在することそれ自体が、当時の村民にとってはプラセボ効果を及ぼしていました。西欧の価値観に洗脳されている現在の日本人には理解し難いことですが、明治維新以後の論理的・経済的・科学的・客観的等の思考による成果は、徐々に総合知の要素が薄れて、社会を維持するための必要条件は満たしていますが、人間社会としての十分条件とはなっていません。東日本大震災は、社会に重層的に潜在するプラセボ効果[虚構性]を、もう少し深く考えるよう警告しているように思われます。

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