日本の精神    HP

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 約1万年前に氷河期が終わって気候が温暖となって人類が活発に活動し始めた。その後も周期的に寒暖が繰り返えされて、その寒い期間の厳しい気候条件を克服する努力の中で、麦作や稲作が開始され、それが畑作農耕や水田農耕に発展して文明が起こった。その後に訪れた寒冷期には、農作適地への文明の移動が起こり、その結果として日本文明が成立した。人類の誕生そのものにもアフリカ(チャドの人骨)の乾燥化が影響していることからしても、厳しい気候条件が人類の進化に欠かせない条件となっていることが判る。しかし、最近の世界の諸相を見ると、今日までの文明を支え続けて来た軍事・経済・学問と呼んでいるものの機能が、人々の未来への希望を満たす能力を持っていないことが明らかとなりつつある。この問題を解くカギは、日本列島に渡来した大陸の論理性[文明]を縄文系先住民の思想が如何に受け入れ咀嚼して来たかを見ることにある。

 人間は他の生物とは異なり、自分とその帰属する集団の将来の幸福を希求し、遠い未来社会でのその実現を生甲斐として日々努力している。しかし、人類の幸福とは何かと問われると、答えることはなかなか難しい。現代の社会においては、それに向かう端緒を見出すことは不可能な状態にある。5000年来、人類は幸福が文明の繁栄の中にあると錯誤し、それぞれの時代のリーダー達がそのことを喧伝して来たために、真の意味での人類の幸福が捉えずらくなっている。最近、文部科学省の配布した宇宙図[宇宙理解図]を見ると、椀のような外縁が宇宙の広がりの過程を示し、椀の上部の円形の口が現在の宇宙の大きさを示している。椀の中にあるローソクの炎のような形の表面部分だけが、炎の形の頂点に立っている自分が観測可能な過去の宇宙である。今、この文を書いている机から谷を越えて冬鳥が飛んでいる状況が見えるが、厳密に言うとこれも過去の出来事を見ている訳で、私達はその時その時に感知出来る過去の事象を「今の出来事」と虚構しることによって存在している。この事実への信頼は生命にとっては最も大切な経験則であるが、その限界を注意深く配慮しないと、論理が教条的となり、希望のない社会が出現する。この宇宙の虚構性を十分に理解しつつ、諸対象との心地よさを虚構すること[共鳴]が人類の究極的幸福に連なるのであろう。

 歴史上の出来事を見ると、短期的には行為の結果は確信出来、所期の成果を収めることが多いが、長期的には当初の意図とは異なった結果が生まれ、場合によっては想像を超えた逆の結果が生まれていることも多い。そのことが人間の精神にどのように影響し、社会の動向を規制し、文明の創造に関わっているかは、解明の難しい問題である。少なくとも厳しい条件下で耐乏生活を続ける人々に未来の希望を感じるのは、彼等が宇宙の原理としての幸福への希望を宿しているからであろう。カオス理論のストレンジ・アトラクターの一つに二極構造をとるものがある。これを見ていると、人間には悪人も善人もいなく、時[風土]の悪戯があるだけのように思える。

 宇宙は銀河の存在しない領域(ボイド)と無数の銀河が密集している領域とで構成された網目状の構造になっている。3世紀に成立した華厳経の慮舎那仏品に「そのかたち因陀羅(インダラ)の網の如く、諸仏がその中に存して充満したまう」とあり、網の全ての結び目にあらゆる事象[事事無礙]を取り込んでいるという考えがある。この考えと現代において観測されている宇宙構造とが共通していることが分かる。科学の発達していなかった時代に、釈迦あるいはその後の経典編纂集団の人々の無数の脳がすでにこの領域まで見通していたことになる。この事実は、人間の脳そのものが、宇宙と同等の機能構造を構成していたからに他ならない。

銀河の集合体網

 その網構造を構成する銀河団の中では二極構造を構成している銀河が多く観測されている。ことに渦巻銀河同士の二極構造は形状そのものが美しい。我々の銀河とアンドロメタ銀河とは同様に二極構造をとって接近しつつあるという。この状態は二つの銀河が偶然に出会って衝突または通過する過程であろうが、宇宙が存在するためには欠かすことが出来ない何らかの価値の創造があるから、星雲の近接が各所で起こっているのであろう。

渦巻銀河二極構造=創発

 生物体内で最も重要な役割を果たしているDNAは二極構造を構成していて、それぞれの塩基鎖は渦巻構造と似た螺旋構造をとっている。ここでは塩基配列そのものに重要な意味があり、それが相手方の鎖の塩基配列を決めるという強い関係を維持している。このシステムが持つ高度な論理性が、全生体が環境からの刺激に対して明確な対処行動を起こす理由であろうし、高等動物と言われる人類が決定論的宇宙からカオス宇宙まで宇宙の意思を理解しながら、自身の幸福のありかを探し求めているのが現在の地球上の出来事である。地球以外の他の星に生体が存在するか否かは不明だが、DNAとは別のシステムで宇宙の意思を小物体の中に取り込むことは不可能であろう。

DNA二重構造

 人間の脳は右脳と左脳とが脳梁で結ばれている二極構造で、双方が同等の機能を持つ部分もあるようだが、右脳は思考の情緒的分野を左脳は論理的分野を担当している。全く同じ機能でないものが共役していることは、将に宇宙の意思の神秘であり、人類に「法華転法華」「相即相入」等々のカオス宇宙の理解を可能にしたシステムである。現代までの産業を支えていたものは宇宙誕生時に生成した素粒子である電子の働きの利用であったが、西欧近代科学の最先端を行く航空運輸システム等の未来産業の分野では、多数の人間の脳の集約と分散の過程で現われる二極構造による価値創発が重要性を増して行くであろう。

左脳右脳の二極構造

 アフリカで誕生し地中海沿岸で発達した人類は、ヒマラヤ山系の南側の海岸沿いと北側の草原を数十万年という時間を費やして各個人がそれぞれの生活領域を行きつ戻りつすることにより自然に東西の道を形成して、日本列島の周辺にまで到達した。人類以前にオラウ―タンやチンパンジーや猿人がどのような移動をしていたかは不明だが「雉兎芻蕘」というように先行した動物の通り道を辿って行動した結果において形成された道である。それぞれの道が東を指向している理由は、狩猟採取を営んでいた人々が同類の食料を求めたためであろうが、クロマニヨンの末裔といわれるバスク人が東方への憧憬を抱いていることから、東方を指向することが人類の基本的志向であったためと考えられる。始めは南側の海岸沿いルートを通ってジャワ原人や北京原人が東アジアに現われ、その後に新人が登場して先行した原人・旧人の道を辿ってオーストラリアに至った。これと相前後してロシア南部を通る草原の道を辿ってバイカル湖周辺に新人が到達した。南ルートでは地中海周辺を追われたクロマニオンの末裔がメソポタミア・インダス文明に関わりながら東進して中国南部で百越を形成し、倭族・倭人が生まれ稲作を完成して日本列島に渡った。その後に中東で、律をはじめとする論理性が発達し、草原の道を辿って東方へと伝達するとともに、草原の道の南に隣接していたオアシス農業拠点を東西に繋いで後に文明伝達の大動脈となるシルクロードを完成し、中国を経由して日本列島に膨大な文明を伝えた。

 人間が脳裏に浮かんだ映像や想念を岩壁等に描き表わすことは、旧人のネアンデルタール人(200000〜25000bp)以前の古くから行われていたというが、新人のクロマニオン人(36000〜12000bp)が残したアルタミラ洞窟の多くの壁画の中に「マカロニ」と呼ばれている抽象画がある。いろいろな解釈があるようだが、人間の思考の基盤を形成している曖昧性を表現し、その後の迷路のような抽象画も、その曖昧性の持つ時空間要素を表現したものであろう。世界の岩画集を眺めると、生命の躍動するバイソン・牛・馬・人等の絵の中に半獣半人の魔法使いと呼ばれている像がある。ホモサピエンスと他の動物との心の境界領域を表現したものであろうが、この状態を超越した表現が抽象画となったのであろう。彼等が自己の力を超越した意思の存在を知覚したことによって、人類が全宇宙の申し子になって行く道を歩んだのである。

(アルタミラ) (イタリア・アメリカ・アルジェリア)

 縄文中期(10000bp)の土器の表面には、渦巻紋様同士が連携している図が描かれている。アラスカ西海岸のランゲルやブルターニュやエジンバラやオーストラリアでも縄文渦巻紋と同じ渦巻紋が岩に刻まれている。また、アイルランドではニューグレンジ遺跡の石塚が建設された時代5000bp)に縄文渦巻紋様が多数連結した紋様として描かれている。古代人は日々遭遇する複雑で捉えようのない出来事に時間が深く関係していることを認識して、渦巻紋様を重要視していたのであろう。

    日本(縄文土器)アラスカ(ランゲル) フランス(ブルターニュ) 

 イギリス(エジンバラ) オーストラリア アイルランド(ニューグレンジ)

 中国の周王朝から漢王朝にかけて社会が論理化したのを嫌って、中国大陸南部から移住したというトラジャ族は連携渦巻紋様を装飾化した多数の図柄で住居を飾っている。コート・ジュボアールのグレボ族の仮面に頭に渦巻紋様を載せたものがある。

インドネシア(トラジャ) アフリカ(コート・ジュボワール)

 これらの事実から、人類は自己も含めて宇宙の全存在がそれぞれに遠い過去からの歴史を背負っていることを古代から認識していたことが判る。このように歴史を背負うそれぞれの個体が時空間を移動する過程で遭遇する対象の歴史と相互に共鳴しあうことが、それぞれの存在[生きるということ]の意味であると理解していたようである。下図に示すように全世界に背光を持つ人のペトログラフが発見されている。人間とは各人が固有の長い歴史を背負いそれを表現出来る能力を持っている存在であること描いたものである。

光背(カナダ・ハワイ・アルジェリア・イタリア・スウェーデン・オーストラリア)

 南ロシアのアンドロノヴォ(4000年前・小麦・牧畜・青銅器)文化が東伝する過程で、牧畜社会から遊牧社会が誕生し発展した。その草原ルートの南側に東西に展開していた砂漠地帯にオアシス農耕集落が点在していた。草原とオアシスの近隣する集落同士でそれぞれに二極構造を形成しながら、周囲からの新しい刺激に対処していた。草原文化の刺激を受けたオアシス遊牧民は点在する農耕集落を帯状に東西に繋いで、後に「シルクロード」と呼ばれる文明の伝播ルートを新たに生み出した。これによって、黄河中流域[中原]には北の草原ルートからは統治の論理性が、西のオアシスルートからは物質文明が伝播して中華文明が生まれた。

論理性と文明の東伝

 草原ルートの東端のエニセイ上流域文化[高天原・女神天照大神の源郷か]が南満州を経由して、また、中華文明および長江稲作文明は山東半島・遼東半島を経由して、朝鮮半島に達した。これらの文明が朝鮮半島から日本列島に伝わるには、辰韓・新羅の東岸沖を南下しているリマン海流に乗り南下して対馬海流に乗り移ると出雲や北陸に到着するルートがある。このルートは渡航の意志がなくとも難破船が漂着する可能性もあった。その他にも頻度は低いが、済州島周辺の多島海から南下して五島列島に入る経路もあった。日本列島への大陸文化の伝来は、初期にはこのリマン海流ルートによって出雲や北陸で開花し、後に出雲系の神々と呼ばれた人々が西日本を支配した。その後、朝鮮半島での造船技術が発達し釜山周辺から対馬海流を横断して北九州へ渡来する人々が増加し、扶余・高句麗・百済の匂いの濃い文化が多量に北九州に伝来した。

 日本列島が大陸文化を受け入れた際に、出雲と北九州という二極構造が出現していたたことは、後に形成された日本文化の特性(ambivalence)に大きな影響を与えた。中華文明の中原には草原ルートとオアシスルートが存在し、そのフィルターを通過した情報が出雲ルートと北九州ルートという二極構造をとって大和文明の三輪山麓に現われている。

 その後に、高度の論理性を持つ遊牧民族の東端に位置していた高句麗が朝鮮半島を南下した。この影響で九州の国々が論理性を増して、瀬戸内海を通じて大和に論理性の高い国家を誕生させた。さて、国々を治める最高神として3世紀頃より三輪山大己貴命が、6世紀頃よりは高皇産霊尊が、7世紀頃以降は天照大神が創出され、高皇産霊尊が創出された時には従来の大己貴命の機能が大物主命[和魂・三輪山]・狭井坐大神[荒魂・麓]・太陽神[宮殿]に分割されて大己貴命は出雲に返され、太陽神は伊勢に移され、7世紀になって伊勢の太陽神が国家最高神天照大神に昇格したという説がある。この説が正しいとして、南方モンゴロイド系の神[もの]が日本列島に点在していたところに、先ず出雲経由で大陸的論理性が三輪山神[もの]を刺激して最高神大己貴命として生まれた。しかし、仏教の伝来等次々に九州経由で到来する大陸的論理性に対処しきれなかったために、高皇産霊尊を最高位の天津神に据え代え、大己貴命の機能を分解して国津神とし、大己貴命は出雲の源郷に帰されたのであろう。

 こうして成立した大和国家の論理性が4世紀頃には北関東に入り、関東にも毛野国と呼ばれる大陸論理性が誕生して南関東の社会[もの的]を刺激した。このために南関東ではこの大陸的論理性を受け入れるための東西[武蔵‐海上]の二極構造が出現して、この地域に論理性の伝わる以前より継承されていた精神[もの=日奉精神]を維持しつつ新しい論理性を受け入れていた。しかしながら、下図に示すように武蔵国造の乱と日奉部の創設という出来事によって大和側から切り崩されて、二極構造が保持していた精神は表面上消滅した。鏑木の地から敏達天皇[大王]の他田宮の日奉部に出仕して太陽祭に奉仕したということは、一面では下総の公有地化であるが、高皇産霊尊から天照大神へと北アジア的論理性の導入が進む時代の流れの中で、天皇が論理性の影響の少ない日本列島古来の精神[もの]に触れる必要があったからである。

☆この精神[もの]への希求が敏達天皇以後の歴史上に現れるのは、現在の天皇家を創設した志貴皇子と源実朝と日蓮とである。

 九州南西部の熊襲は5世紀ごろまでにヤマト政権に服属して隼人と呼ばれるようになった。大隅隼人は大隅国設置713年)後にも反乱を起こしたが、大伴旅人によって制圧721年)された後は完全に服従した。彼等は山城国(京都府)南部に移住させられて、宮中の警護等に当たるようになった。日本神話では海幸彦(火照命)が隼人の阿多君の祖神とされ、海幸彦が山幸彦に仕返しされて苦しむ姿を真似たという隼人舞がある。隼人舞で彼等の掲げる盾に描かれている縄文渦巻紋と同様の渦巻紋様は、新しい刺激(支配等)に対する彼等が伝承している思考構造の二極性を主張したものである。

隼人舞=被征服民の主張

 思考構造の二極性は全人類が長い歴史を掛けて涵養して来たものだが、古代からの西欧論理性の影響を受けて大多数の人々が心の底に潜在させてしまった。アインシュタインが1923年に日本を離れる際、日本人に宛てた言葉「地球上に日本国民のように、これほどまでに謙虚で篤実な国民が存在していたことを知ったこと・・これほどまでに純真な心持の良い国民に出会ったことはない。この点について日本国民は欧州に感染しないことを希望する」に、当時の日本人の心情が良く表わされている。江戸時代末期頃までは、国民全体がこの心情を大切に守って来たから、彼の来日した大正時代の社会に純真な心持の良い人々が多く残っていたのである。この心情は釈迦の生まれたインド東北部から中国南部・日本列島にかけての地域に住む人々[スンダランド系モンゴロイド]の基本的な精神で、宇宙の意志に通じ、生命体としての全人類が保持している精神である。悲しいかな東洋のこの地域でも、5千年来全人類が最高の価値として来ている文明に取付かれてしまった現代人は、この伝統精神を曖昧や鄙や無知と規定して、長い年月をかけて生来の貴い心情を覆い隠くして来た。しかし、何時の日か人類は、このメフィストファレス的自縛を抜け出し、曖昧性の中で時空を操る宇宙的生き方を獲得するであろう。

西方からの論理性[支配]が流入した南関東では、前に示した武蔵国造の乱と日奉部創設という事件から判る通り、古来両地域の連携が強かった。しかし、両事件によって、それらの勢力が歴史から消滅した後は、日奉族が主体となって武蔵国下総国という二極構造を伝承した。例えば、その代表的人物平山季重を見ると、平家物語・東鏡等には坂東武士の雄として物語られ、三代将軍源実朝の誕生時には鳴弦の式を執り行う程であったが、その一方で日奉の峰に平山城を築き、また領地内に日奉神社を創設して、生涯のあらゆる場面で、支配体制の中にあって支配体制からの距離の取り方に細心の注意を払っていた。実際にヒエラルキー[階層構造]を構成していた千葉氏や三浦氏等とは異なり、彼は日奉族の代表者という資格を持つだけの存在に徹していた。このことが、平賀氏・比企氏・畠山氏・和田氏・梶原氏等の幕府創設の殊勲者が、鎌倉幕府という新興のヒエラルキーの矛盾の中で相次いで消滅して行く中で、彼は無事にその生涯を全うすることが出来た原因であり意義でもあった。

 

その後、 この二極構造の中心地に江戸幕府が出来て、南関東の論理化が極度に進んだために、日奉族は下総国の片隅に追い込まれ、多古‐鏑木の二極構造を形成して、細々と古来の精神の維持に努めた。初期には日蓮宗不受不施義により後には本居国学によって古来の日奉精神を裏打ちしていた。二極構造というものは、内部構造としてそれぞれに微妙な違いを保つ必要があった。例えば、多古側は幕府体制に近く不受不施義や儒教を学び、論理性に属する伊能忠敬を養育したりしたが、結局はそれらが原因で滅亡を早めた。鏑木側は論理性から距離をとり、儒教を敬遠し不受派僧侶や忠敬の近寄りさえも禁止して日奉精神の維持に努めた。不幸にして大東亜戦争に突入して文明上最も論理性の高い海軍省直属第一航空艦隊基地としての飛行場[香取海軍航空基地]が近隣に建設されて、関わらざるを得ない立場となって消え去る運命を辿った。

まとめ・・敏達天皇は五経博士や崇仏派の影響の強い百済大井宮を脱出し、575年に訳語田(オサダ)幸玉宮に入った。577年に日奉部を設置し太陽祭を挙行し、585年に仏教を禁止したが、その後は大陸から絶え間なく押し寄せていた仏教的論理性の波に抗しきれずに崇仏派の活躍する時代へと向かって行った。この時の日奉部設置の意味は表向きには天皇の太陽祭への幇助であるが、政治的には下総の公有地化であり、天皇自身としては日本列島古来のもの的判断[曖昧性を時空の変化に託す]をする人達を近侍させる時空間の心地良さにあったのであろう。仏教による日本列島の論理化は時代と共に更に深まって、壬申の乱を経て天武天皇系による天平文化が開花したが、その裏で天智天皇の子志貴皇子は地位の低い撰善言司に甘んじてその子白壁王は62歳まで酒飲みを装って、体制からの粛清を逃れながら、日本列島本来の精神[もの的]を研鑽した。白壁王は幸運にも即位することが出来て天武系を一掃し、子の桓武天皇は仏教的論理性の影響の強い奈良を脱出して794年平安京に遷都した。この後、言語文化の進んでいた近畿では文学分野で「もののあわれ」的心情が、鄙の地であった東国では「もののふの道」的心情が生まれた。「もののふの道」は、後代の禅思想伝来以後の武士道とは全く異なった心情であることに注意してほしい。この二つの日本歴史上の大変換期に、学問[文明]の限界を認識して人類究極の価値である二極構造思考に重点を置いた天皇がそれぞれの時代に在位したことは、日本列島に住む人々にとって幸いであった。

日奉宗頼が武蔵国国司に就いた10世紀初期の南関東地域では「もののふの道」的心情が尊ばれていて、彼はこれを日奉精神の伏流水として尊重した。後代、この地に西党・武蔵七党・南一揆が発生するのは、この地域が強固な統治体制の発生を好まない古来の風土に由来しているからである。私が日本には日奉精神という貴い心情があると知ったのは、真珠湾攻撃(1941)で世間が騒々しかった頃の竹の生える裏山であった。微かな幼児時代の記憶では、冬の太陽を見上げながら太陽と自己との間に竹の葉影[論理]が入るか入らぬかで人の心情は変化するということを用いてその精神が説かれていた。その後にサイパンの丘陵地帯が蜂の巣状に艦砲射撃を受けて陥落(1944)してから、子供は東北地方の山の中に着の身着のままで逃げないと盗賊に殺されるので、身に付けた精神だけで生き抜く以外に方法はないと、べルクソン・ガンジー・低徊趣味・万葉集等々を敵味方のスパイ活動を避け野山を歩きながら教えられた。子供の頭脳にも、大切なものは聞いている内容ではなく、風土あるいは時空の鼓動を読み取る力であると理解した。軍事・経済・知力を基盤とする現代文明は、今後の中国・インドの台頭でその存在価値が低いものにならざるを得ない。その時、日本人が頼ることの出来るものは、縄文時代よりの精神であり宇宙精神でもあるもの的精神であろう。