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『雑感』 HP 平山高書
斉藤希史東大教授の『霞を食らう』という文を一読しました。『楚辞:遠遊』には、天地の間の六気[日月星辰晦明]、北方の夜半の冷気、南方の日中の気、太陽が出たばかりの赤黄の気等を食べたり飲んだりする記述があり、仙人の食らう霞は春かすみではなく、朝焼けの大気か赤い雲かである。現代中国語でも、晩霞は夕焼けを意味する。このことから、煉丹術の硫化水銀の赤色が連想される。丹薬が薬効が無く有毒でも不老長寿の薬として用いられたのは、人々の赤い色への憧憬のためではないか。日が出たばかりの最も赤く染まった気の一瞬を逃さず体内に取り込むのである。倭語の「かすみ」は動詞の「かすむ」から派生し、ぼやけて見えるという意味で漢字の霞とは異なる。柿本人麻呂の「巻向の檜原に立てる春霞、おお[鬱=ぼんやり]にし思わば、なずみ[思い込んで]こめやも」とあり、「かすみ」に霞の漢字が当てられることによって、漢籍の餐霞は春かすみを食べると間違って理解されていた。しかし、漢籍の霞の方でも朝霞や雲煙として用いられるだけではなく、南朝(AD439-589)以降には煙霞や雲霞という言葉が現れて霞の赤の脱色が進み、神仙の霞であれば赤くても白くても良いというように変化した。不老長生の仙人はスケールの大きな飲食をするが、一般には自らにふさわしい飲食をしているのであって、香ばしい焼肉でも霞を食べて生きているといえるのであると書かれていた。
中国では、昔の仙人は朝焼けや夕焼けの赤い大気を体内に取り込むことを「霞を食う」といったということです。太陽が昇るところを暘谷といい、沈むところを昧谷といいました。辰始祖伝説では、暘谷は南京付近で昧谷はチベット高原付近とあります。日本には暘谷を大分県付近という説があります。これらの説は、ポリネシアの神話と比べてもスケールが小さ過ぎるので、暘谷は関東平野で扶桑の木は富士山、昧谷はチベット高原を超えたアフガニスタン辺りと考えています。流星群の観測などで東の夜空を一晩中眺めていますと、夜が深まるにつれて東の空に赤外線が満ちて来ると恐ろしいエネルギーの湧出を感じるものです。勿論、赤外線が肉眼で見える訳はありませんが、祖先達の宇宙への信頼の累積が私達の心に生きるエネルギーを与えるのです。そして日の出時刻に近づくと、上空に漂う水蒸気や雲を赤く染めて仙人が食べるという朝霞が生まれるのです。文学上はここまでの解釈でよいのでしょうが、人類の未来を支えるための精神史的には別の解釈があります。仙人と呼ばれる類の人々は理想的には世俗の雑事を絶って人間が生きることの本質の中に生きています。仙人はその肉体を維持するためには何らかの手段で食物を得ていますが、俗人が楽しむ寿司やピザ等という価値や栄養価からは遠く離れた形で生存のエネルギーを摂取していると思います。私達俗人は悲しいことですが衣食住からほとんどの生きる価値を得ていますが、仙人は衣食住を必要としますがそこに生きる価値を求めずに、私達俗人と同等以上の生きる価値を「霞を食う」ことによって得ているということになります。ですから、「霞を食う」の食うは香ばしい焼肉を食うとは別次元のこととなります。中国の西北部に住んでいた新モンゴロイドの一部が長江河口域に進出して、その地の古モンゴロイド精神を吸収して中国最初の王朝である夏を作りましたが、その時の古モンゴロイドは今のミャオ族の祖先と思われます。ミャオ族の神話では人類は蝶々の12個の卵の一つから生まれたといいます。彼等は祖先祭祀である鼓社節を13年に1度を行っていましたが、共産党政権が誕生して一時禁止されました。この鼓社節の精神であるノンニウ[食鼓]は、木鼓をを敲いて祖霊を呼び寄せて、神話を語り合う場と時の流れとを演出し、水牛を奉げて神人共食をするということです。大切なことはノンニウ[鼓を食う]という表現にあります。鼓の響きが多くの祖霊が集う時空間を創出し、その時空間を参集した人々が心身に吸収することを「鼓を食う」というのでありまして、「霞を食う」と同じことを表しています。
私のように歳を重ねただけで仙人の域には到達出来ない者は、美しい衣服が着られる・着ている・着たことがある、美味しいものが食べられる・食べている・食べたことがある、快適な住まいに住める・住んでいる・住んだことがあるという日常生活の中で、自己の生きる価値の大部分を探し求めています。これは5000年もの時間をかけて西欧で発達した文明[資本主義も共産主義も含めて]という価値観による洗脳の結果だと思います。しかし、仙人ともなると、太陽エネルギーの散逸系に属する天空と、宇宙の意思の顕現者という使命を帯びた生命体としての人間との、共鳴のリズムの中から直接的に生きる価値を吸収出来るのだと思います。彼等は衣食住を必要とするものの、そこに自己の生命存在の価値を置いていません。太陽系には、太陽からの距離によって、水循環[氷‐水‐水蒸気]で太陽エネルギーを利用出来る領域があり、幸いにも私達の地球はこの領域に位置しています。しかし、火星と木星の中間あたりから太陽側の空間では、太陽光が強くで水分子が吹き飛ばされ、地球表面に水は存在しませんでしたが、幸いにも彗星の衝突により最適量の水[OH基の形で]が配給されました。このために、人間の体はほとんどが水から出来ています。その上、日本人の祖先である古モンゴロイドの生存していた地域は、インド亜大陸がアジア大陸に衝突してヒマラヤ山脈を隆起させた東側に位置しているために、インド洋の水蒸気が中国大陸南部から日本列島に雨となって供給され、太陽エネルギーの豊富なモンスーン地帯を形成しています。隠遁者・詩人といわれる仙人達の中には、この地帯を理想郷とする人々が多くいます。4万年位前にアフリカやヨーロッパで総合知を獲得した現生人は、南回りで中国大陸東南部に到達して、このモンスーン地帯で総合知の究極の形に作り上げました。その後5000年位前に分析知による論理性が中東で生まれて、初めは北回りでエニセイ川上流文化を形成し、次いでオアシスがラクダ交易で連絡されると中央アジアを通って中国大陸の論理化を進めました。この影響で古い順から、夏人を長江河口流域に、殷人を黄河河口に、周人を中原に送り出して、中華文明を発達させました。このモンゴロイド化された論理性によって、古モンゴロイド以来の祖先達の精神を言語化したものが、諸子百家と言われるものです。
中華文明の最高の精神は孔子の儒教です。ユダヤ教的西方思想の影響が強いといわれる秦始皇帝や前漢の時代は、儒教が国家思想として採用されることがありませんでしたが、王莽・後漢の時代になって国家思想として定着しました。私は少年期に儒教を学べば立派な人間になるかも知れないが、人間の本質が見えなくなると教えられ、四書五経を読むことを禁じられていたために、儒教精神を探究することをしませんでした。老境に至って外祖伊藤仁斎の思想を知りたくなり、東洋の多数の人々の心を支えて来た儒教関係の資料を見ています。確かに王莽そして後漢以後に国家制度の中で儒教が変質したようですが、その時代を超えた仁斎的解釈に従うならば、人間の本質が現代に適合する形で見えてくるようです。論語の冒頭の「学びて時に[繰り返し繰り返し]之を習う」は、人間が生きるということの本質を表しています。孔子はユーラシアを北回りで到達した西方論理性を用いて中国大陸で醸成された古モンゴロイド以来の総合知を掬い取った人だと思います。このために、「学び」すなわち生きる本質には時の移り変わりによる涵養が重要であることを意味していて、合目的化された現代の学問のあり形とは異質で深遠な意味が含まれています。少々飛躍しますが、「仁」にも時の移り変わりによる涵養が重要な役割を果たしています。
日本列島には中国大陸の政変を避けて、その時々で最も論理性の高い集団が繰り返して渡来して来ました。初めは、出雲や北九州に現代の貿易総合商社のよう形で住みつき、やがて列島の一部を統治する政治手法に優れた総合商社が渡来し、神武・卑弥呼・崇神・応神などという支配集団[大王]が西日本に出現いました。彼等は、孔子が中国大陸で儒教を構成した時と同様の方式を用いて、大陸で習得した論理性を手掛かりに、当時関東に残留していた古モンゴロイドの総合知を汲み取ろうとしました。それが後の人々がいう三輪山信仰であり、天皇霊であり、アマテラス太陽信仰です。
この儒教思想や天皇霊が何を最高の価値としているかを解明することは、今後の人類の存立にとって避けることの出来ない重要な課題だと考えています。その理由は、水エネルギー循環系によって宇宙の意思を顕現することが人類の究極の使命であり、それが太陽エネルギーの散逸系の中で行われていために、太陽信仰として一般的に認識されているのです。先日のボストンマラソンのテロや未だに続いているイラクでの爆破事件を見ると、5000年来の文明によって派生させられた軍事的制圧では、無数の価値観の下で宇宙の意思を顕現しようとしている世界中の人々の心を制御することは不可能なことが明らかなことを示しています。天皇霊を論理的に解き明かそうとした書物は沢山ありますが、複雑系に属する儒教思想や天皇霊を論理によって解き明かしても正鵠を得ることは出来ません。繰り返し中国大陸から日本列島にやって来た大王と称する集団は、日本列島の北米プレイト上で勢力を保っていた縄文精神[古モンゴロイド精神]に理想を求めました。時代的には西暦元年前後から600年間程度で、この渡来支配層の継続した縄文思想への憧憬が天皇霊ということになります。稀代の大天才藤原不比等が日本列島住民を精神的に統一するために作り上げたアマテラス神道は日本列島を統一するための政治手段の一つであり、天皇霊とは領域を異にしています。この政策的呼吸を心得ていた官僚層としての藤原一族は、その後の長い歴史を通して天皇の伊勢参宮を回避して来ました。しかし、明治になって優秀な下級士族達が国家の中枢を握る官僚になって、明治天皇を伊勢神宮に参拝させ、大元帥に仕立てて白馬に乗せてしまうという品性の無い状態を作りだしてしまいました。平安京以前の天皇の居所は質素でも新地に創設されて来ましたが、江戸城を皇居にするという西欧の収奪王朝と同様な風土への思いやりに欠けた時代が続いています。このように、明治維新以後の現代日本社会は過渡期文明の形態の流れの中にあります。これからの日本社会は、収奪社会として芽生えた諸外国の皇帝制や王制とは異なる、日本民族が営々として築き上げて来た社会とは何かを考え、その理想に回帰することが要請されます。
各渡来大王族が理想として見ていたのは関東甲信越の縄文精神であり、孔子が理想として見ていたのは曲阜以南に多く残っていた古モンゴロイドの精神であります。その古モンゴロイドの精神の解明には詩経や楚辞を読み込む必要がありますが、孔子は士大夫階級の思考で、屈原は王族の思考ですから、それらの論理性のフィルターを如何に処理するか未だ十分な知識を持っていません。ミャオ族や越人の歴史から古モンゴロイドの精神を探ると、ミャオ族は黄河中・下流域にいた金属器を持つ農耕民で蚩尤(シユウ)を祖とするといい、4500年前頃に西から来た牧畜民の黄帝に敗れて、稲作・太陽女神の越人が住んでいた長江流域に移動して、越人の風習を取り入れて楚国を形成し、秦の始皇帝の時代になって貴州省・雲南省・四川省周辺に移動しました。ミャオ族も越人も中国西北部からの新モンゴロイドの精神の影響を強く受けていますが、ミャオ族の方がその影響を強く受けているようです。関東甲信越地域は、約4万年前頃から古モンゴロイドが移住して来て縄文文化を、4000年前頃から越人[倭族]が、相前後してミャオ族が到来して、弥生文化を形成したと思われます。すなわち、孔子は楚や越を通して古モンゴロイドの総合知を、各渡来大王族は弥生人の末裔を通して縄文人の総合知を希求していたことになります。
古モンゴロイドの総合知や縄文の総合知といっても、その内容を分かり易く表現することは非常に難く、とりあえずは日常の生活のあらゆる事象の周囲に、随伴している時の諸相を重視する物の見方と言えます。先に引用しましたが、論語冒頭の「学びて時に[繰り返し繰り返し]之を習う」は、ある時に学んだ真理はその時の諸相を伴っているために、繰り返し繰り返し時の移り変わりに合わせて、その真理を確認することが大切なのです。この繰り返す行為が人間が生きることを意味しています。学校で良い成績を収めるとか、知能指数が良いとかいうのは、文明という範疇においては大切なことですが、人類が何故にこの宇宙に存在しているかということの解明にはあまり役立ちません。毎日の生活で何かの真理に触れて「ああ、そうなんだ」と感動し、暫くして[あのことは本当なのだろうか」と考えることを何度も繰り返すことが生きるということの全てということです。そこには、学力も知能も必要なく、ただ記憶と穏やかな時の流れがあるだけです。縄文の環状集落に住んでいた人達は、複雑性の高い他者との日常生活から、繰り返し刺激を受けることによって言い知れぬ価値が創発されていたのです。この時の諸相を伴う真理について、老子は道徳経の中で理想郷として、「隣り合う集落の人々はお互いに見えていて、犬の鳴き声や雄鶏の声は聞こえるけれども、生涯の終わりまで人々は行き来しない」と述べています。隣人の生活が見えること、犬や鶏の声が聞こえることが大切で、その日々の繰り返しがその風土への愛おしさを生むのであります。政治家や歴史家という職業の人々は分析知に囚われていますから、社会を経済や知識の有無という視点から見ますが、それでは文明を発達させることが出来ても、各人は人間としての生命を全うすることが出来ないままにこの世を去ることになります。
太陽信仰を考える場合に、二至二分[夏至・冬至・春分・秋分]の日の出・日の入りに関わる事象は論理的・二次的・後発的なもので、このことに囚われると信仰の本質が見えて来ません。太陽信仰の根源は、太陽エネルギーの散逸系への人類の信頼であります。「霞を食らう」が太陽の発する近赤外線‐赤色‐昼光[瑠璃光]という時の移ろいへの人類の信頼を意味したように、最古の日本人が日本列島上に作った精神文化である縄文環状集落も、そこに住んでいた人々が隣人との日々の生活の中で創発される知恵への信頼を表しています。続いて現れた環状列石ついては、一枚の設計図もないのに1500年以上も作業が継続したのは、世代を越えての知恵の創発への信頼に基づいています。
太平洋戦争末期の敗戦が切迫した時に、父は幼児の私を野山に連れ出して、連日のように繰り返し繰り返し難しい話をしていました。その中には夏目漱石の「低回趣味」やベルクソンの「持続」や法華経の「住法位」や華厳経の「因陀羅の網」等々の話がありました。アメリカ軍ニミッツ元帥による九十九里浜への艦砲射撃でほとんどの大人達は死亡することになるために、日本列島のどこかで日奉精神を再興させる目的がありました。父は必死であったようですが、私はその内容を全く理解していませんでした。ただ、話を聞きながら眺めている風にそよぐ草の葉先や木々の梢の空間に、何か重要な要素が潜んでいると思いました。太陽信仰とは、荘厳な建造物や論理が捉えた宇宙のシステムのように思いがちですが、それは学問の領域の話で精神の本質ではありません。本質は人間を存在せしめている宇宙の意思にあります。
宇宙が存在して、その中の微小な微小な構成物として人間がありますが、このような考えの全体が人間の脳のネットワークが作り出した一つの仮説です。太陽系においても、地球は太陽から稀に見る幸運な距離(habitable-zone)に位置し、水による太陽エネルギーの活用が可能な気温が保たれています。太陽[地球の33万倍]と木星[地球の318倍]という質量の大きな星に挟まれガードされているために、1994年のシューメーカレヴィ彗星を木星が捕えたように、比較的穏やかな惑星環境の中に位置しています。地球上ではヒマラヤ山脈の隆起によって、その東方地域に水のエネルギー活動が盛んなモンスーン地帯が維持されています。このインド東部・中国大陸南部・日本列島は、太陽系内部で水のエネルギーに最も恵まれた地域ということが出来ます。この地域では、植物が繁茂するために直接食べることの出来る食物に恵まれ、地球上の他の地域のように直接には食べることの出来ない植物を羊や牛等の他の動物に食べさせて肉や乳を食べるという過程が不必要で、食物の収奪や生活設計を考える必要性も低く、その分芸術性の高い穏やかな生活が営まれていました。ここに生活していた人達を古モンゴロイドと呼び、釈迦の生まれたインド東部から日本列島全体に生活していた人々です。この地域で稲作が始まった訳ですが、それ以前は漁労採取で生活を営んでいました。
一方、狩猟牧畜で生活を支えていたヨーロッパ・中東・アフリカでは、麦作が始まると共に文字・遊牧が出現し、原罪を内包した文明という虚構が爆発的に発達し、東方に向かって伝搬して中華文明を生みました。はじめは、南ロシア回廊を通ってエニセイ川上流域やモンゴルに進出し、その地域に住んでいた古モンゴロイド[スンダランドの水没で中国大陸を北上して来ていた]を文明化して新モンゴロイドを作り出しました。この人達が繰り返し東進南下して中国の歴代王朝[夏・殷・周・秦・漢…清]を作り、朝鮮半島の各王朝や日本の大王族を派生させました。このような支配分野だけではなく諸子百家といわれる思想の分野でも、中国大陸の狩猟牧畜ヒエアワ領域と狩猟採取稲作領域との境界で育った新モンゴロイド達が、自分自身およびその周辺の風土に残留する古モンゴロイドの精神[情緒を主とした]をそれぞれの見方で纏めた思想が生まれました。孔子は論理側[周王朝]にウエイトを置き、老子は情緒側[タオ]にウエイトを置いて古モンゴロイドの精神を纏めています。現生人にはクロマニヨンや上洞人がいますが、20万年前頃から3万年前頃まで生息していたクロマニヨンに注目しますと、彼等は約14000年前のアルタミラ洞窟壁画のように人間の心を表現しています。その後の消息は不明なのですが、スンダランドに住んでいた古モンゴロイドに繋がりを持っていると考えています。
日本列島全体に古モンゴロイドが居住していた訳ですが、西日本は火山災害の影響等によって東日本の方が栄えていました。この時代の後半に縄文時代が現れて典型的な居住形態として多くの環状集落が現れました。クロマニヨンの壁画と同様に環状集落は日々の生活で出会う対象と自己との間に生まれる時の創発が、人間が生きるということの真理を表しているために千年を超える期間にわたってその精神が維持されました。これは世界宗教や日本神道のような上下階層を持たずに、八百万神的複雑系[太陽信仰]を維持しています。孔子は曲阜という中原に近い土地から古モンゴロイドの複雑系社会[太陽信仰]を眺めたために、「学びて時に[繰り返し繰り返し]之を習う」や仁における惻隠の情のような時の創発を促すような教えに満ちています。天皇霊については、新モンゴロイドで生まれた支配思想が、朝鮮半島を経由して縄文時代にあまり発達していなかった西日本に到来し、その地を支配しました。代々の大王は奈良周辺に止まって、その東側に位置する伊勢周辺の漁民を使って、孔子と同様に東日本の八百万神的複雑系[太陽信仰]を探らせました。この太陽散逸構造内の複雑系を希求する意思を天皇霊といいます。これは地球上に人類を生息させ宇宙の意思を探求させようとする宇宙の働きの全てであり、人類存在の究極的意味を示す最も大切なことです。藤原不比等が大衆を統治するために、キリスト教の影響の下に作りだしたのが神道でありまして、藤原氏はその限界を知っていたから天皇の伊勢参拝を押し止めて来ました。明治維新以後、太陽散逸構造の複雑系を希求する意思としての天皇霊を理解していない大衆の代表が国家の中枢を握ったために天皇を伊勢に参拝させてしまいました。
環状集落の一例
縄文環状集落に住んでいた人々は、日常的に視界に入って来る自然とその住人の姿から、生きる希望を与えられていました。このような生活環境の継続が、それぞれの地域に特有な風土を作り出しました。このように人間と対象との空間では尊い価値が創発される訳ですが、この神聖な場所に過去を継承する意味で墓が作られた環状集落もあります。風土には、それぞれの土地で創発された無数の価値の集積と未来への希望が含まれています。では、どのように空間の2極間に生きる価値が創発されるかということです。湯川秀樹の中間子の生成についての別のHPで書きましたが、彼の思考は、芭蕉(400年前)の[月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり]から、李白(1300年前)の[天地は万物の逆旅なり、光陰は百代の過客なり、しかして浮世は夢のごとし]へ、そして荘子(2300年前)の[知北遊:世人直為物逆旅耳=世間の人々は物が来ては泊まるただの宿屋を為しているだけだ]へと遡ることが出来ます。古モンゴロイドの総合知や縄文精神と同じ系統の思考ということになります。向き合った二つの事象の空間には、価値の受け皿[void]が創発され、そこにエネルギーが供給されれば新しい科学現象となり、供給されなければ、アフォーダンス[記憶や心や風土]を残して静かに消えて行くと考えられます。日奉族の関わりから縄文環状集落の典型として、上掲の多摩ニュータウン471遺跡北集落を取り上げますと、環状に分布した住居址が時代が経つと二大群に分かれています。先ずは、単体の環状集落の人々は日々に他家の生活を見て、ギブソンのいうアフォーダンスを集積することになります。この集積が豊富な場合は、生活に余裕が生まれ明るく希望に満ちた生活を送ることが出来ます。環状集落がクロマニヨン以来の総合知の究極形とするならば、仲間達との生活[populated-environment]が如何に大切かが示されています。別項で述べますが、これが日奉族が万難を排して千余年にわたって村落を開発して来た精神です。次に、中部地方や関東平野に分布する環状集落遺跡には、多摩ニュータウン遺跡と同様に二極に分かれた形状のものもあります。史学的になぜ二極化が現れたかは不明ですが、環状集落内の情報の複雑化や外的情報への対処のためと考えられます。この構造が大きく発達した形が、日奉族の多摩ー下総構造だと考えています。
この環状集落が東国各地に残したアフォーダンスの集積が、後世に八百万的神と呼ばれるもので、それを太陽エネルギー散逸系への信仰として希求する精神が天皇霊ということになります。その働きが地上に現れたものとして、大和における檜原神社ー天神山ー伊勢ー東国という太陽ラインが完成されていました。藤原不比等を頭とした8世紀初め前後の天才達が、日本列島統一のために虚構した神道とは別の、宇宙の意思すなわち人間の存在とは何かという問いに根ざした精神が、天皇霊ということになります。しかし、時代が進むに従って、この天皇霊・神道という見事な住み分け思想が行き詰まり、この状況に対抗して、都では「もののあわれ」的思考が、亡弊国として勢力を蓄えていた関東平野では「もののふの道」思考が発生しました。その時に日奉宗頼が武蔵の国に入り、関東に残留していた日奉精神を取り纏めて、武蔵国西多摩郡檜原村ー下総国匝瑳郡日部のラインを、大和の太陽ラインを手本にして構築しました。縄文の精神で見たように、環状列石を構築した人々は1500年以上にわたって子孫達が最初に作り始めた人々の意思を継いで作り続け、そこには完成形はありません。現代の文明の産物のように、目的があり設計図がありませんから、完成もなく寿命もありません。宗頼が10世紀に始めた構想が、18世紀の久甫の銚子妙福寺創建をもって完成したようにかのようでしたが、戦時下での父の国民健康保険制度実現への努力を見ながら完成という言葉が存在しない、永遠の営みであると思いました。
現代の宇宙論によりますと、私達人類が生息している太陽系は、渦巻き状の天の川銀河の半径の中ほどに位置して、ブラックホールが存在するという天の川銀河の中心から距離が、水による生命活動に適当な位置にあるようです。宇宙にはこの天の川銀河のような銀河が数千億個以上もあるということです。しかし、このように観測することの出来る銀河は全宇宙エネルギーの4%程度の中の話で、宇宙には全く解明されていない暗黒エネルギー74%と暗黒物質22%が別に存在するそうです。このように宇宙規模から見ると誠に微小な太陽系ですが、この太陽系には太陽からの距離によって水を主体とした生命活動の可能な領域(habitable-zone)があって、幸いにも地球がその領域の中に位置しています。地球上では太陽の放射エネルギーと水の機能によって生命が誕生し維持されています。宇宙には水以外にもメタン等の活動によって維持される生命も存在するかも知れません。太陽信仰の根本は、太陽の放射エネルギーを受けた水の創発力の諸相への憧憬ということになり、そこには合目的性はなく、ただ美しさや愛おしさという人間存在の精神があるだけなのです。
水は非常に不思議な分子で、H-O-Hという結合を持つ酸素原子1個と水素原子2個で成り立っています。しかし、酸素原子は電子を引き付ける力[電気陰性度]が強く水素原子は弱いために、水分子内で水素原子は+に酸素原子は-に電位の偏り[双極子]が生じています。このために構成する水素原子が隣の水分子の酸素原子と容易に結合しています。この結合を水素結合といい、瞬時に結合の相手を変えつつ連続して繋がった水分子集合:クラスターを形成しています。人間の細胞にとっては水素結合が少ない水が有用で、太陽光や温泉の遠赤外線でクラスターが切断された水が体に良いといわれています[クラスター説には異論があるようですが、科学ではないので]。この水素結合が存在するために、水の融点(0℃)と沸点(100℃)が他の物質に比べ高温に保たれて生体の活動を助けています。その上、水分子の構造は直線状にH-O-Hと繋がっているのではなく、四枚の正三角形で作られる正四面体の中央に酸素原子が、四つの頂点の内の二つに水素原子が位置する構造となっています。このために、水は4℃で最大密度となり、大気温が下がると海や湖は表面から凍り、氷の下に4℃の水が維持され、極寒になっても進化した生体が生き残り、人類という高等生物と歴史とを作り出しました。
人間の身体は子供で80%が老人でも60%以上が水であるように、地球上を蔽っている動植物は水の入った袋のようなもので、その無数の水袋が太陽エネルギーの力を借りて、相互に捕食したり死体から水を吸い上げたりと、生物相互の関係を保っています。この環境の中から発達した脳を持った人類が誕生しましたが、その時期を何時にするかは難しい問題です。原人でも160万年前になりますし、新人の誕生は10万年程前で、麦やイネに栽培や土器の利用が始まるのが約1万年前ですから、160〜1万年前の間は、人類は太陽エネルギーと水との相互作用の中での経験を知恵として伝承することによって、自己の生存を保って来ました。その知恵の蓄積が総合知や八百万神的太陽信仰であると考えます。
約1万年以降に、人類が麦やイネの栽培や牧畜等を発達させて生活に余裕が出ると、文字が発明されました。その後に、セム系やアーリア系の人々が地中海沿岸に進出して、分析知よる各種の文明が誕生して、論理性の高い一神教も登場しました。現代の世界を制圧している西欧文明は、この論理性に立脚した分析知を集約したもので、卓越した知能を持つ天才達の個の力によって急速な発展を続けています。例えば、近代の植民地主義にせよ資本主義にせよ、それぞれの時流の中で騒ぎ立てている人達にとっては、陶酔することの出来る虚構を創出していますが、百年も経って振り返りますと、地球環境を疲弊させただけということになってしまいます。文明というものには必ず原罪を伴っていて、45億年もかけて宇宙が水の機能によるhabitable-zoneを創造したメカニズムとは、比較にならないほどの軽薄さを示しています。
この分析知が東方に伝搬して中国大陸北部に文明が誕生した結果、大陸北部の分析知と大陸南部に残留していた総合知の境界領域に老子・孔子等が出現して、太陽エネルギーと水の変態を追及する中国型[北から南]の太陽信仰が生まれ、同時期にインドアーリアの分析知の影響下で釈迦が現れて中国東南部の総合知を希求するインド型太陽信仰を生みました。日本列島では、大陸プレートに載った西日本はスンダランドの水没(14000年前)前後に火山活動が激しく[9万年前:阿蘇カルデラ、3万年前:姶良カルデラ、7300年前:喜界カルデラ]火山灰の堆積により山野が疲弊していましたので、北米プレートに載った東日本に古モンゴロイドは多く住み付き総合知による縄文文化が繁栄しました。中国の前漢後期頃から、疲弊していた西日本に朝鮮半島を経由した中国の分析知が渡来し、伊勢の磯部族を使って列島東北部の太陽エネルギーと水の変態を追及する日本型太陽信仰が誕生し、藤原不比等によって天皇霊が構築されました。