菅原道真と日奉精神…神とは  HP

菅原道真と日奉精神…神とは  HP

 七代外祖伊藤東涯を通じて1600年前後の日本最高の総合芸術家本阿弥光悦と薄い血の繋がりがあり、その本阿弥家が菅原道真の子孫であるらしいことを最近知った。そのこと自体を更に調べることは別として、菅原道真の天満大自在天神と当家の日奉大明神とを比較しながら、日本の支配体制内で構成された神とは別種の、人類の根源的神について考えて見たいと思った。もとより、仁斎・東涯の「仁・活物・格物」等という言葉を使って捉えている何かにも配慮しながらの思考になろうが、追求しきれないことは判っての試みである。

 

 先ず、根源的神をどのようなものと理解しているかというと、宇宙が創造されたビッグバンやインフレーションの起こった過去から私達の生活している現在までの全べて出来事を支配している宇宙の意思というものがある。この宇宙の意思はアインシュタインやホーキングが宇宙を支配していると考えている人間原理も含んだものである。その宇宙の意思を私達の目に見える形で表現されているものの一例が、ハァブル宇宙望遠鏡が撮影した渦巻銀河の対構造である。ホーキングによると渦巻銀河の外縁には目に見えるものよりは遥かに大きなエネルギー(ダークエネルギー)が存在するという。この対構造の目に見えない部分で起こる創発現象への畏敬の念が、私達人間にとっての根源的神の意識である。このことは近代科学の発達を待たねば知り得なかったことで、古代人はこういう論理的手法で知り得た訳ではない。脳を含む人体の全物質が、この対構造に象徴される過程を通過しているために、無意識のうちに宇宙の意思に対する畏敬の念が人間の心に刷り込まれているのである。世阿弥の「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」もこの真理を捉えているのであろう。

  

 人類は両手を自由に使えるようになって脳が発達し、ネアンデルタール人そして約5万年前にはクロマニヨン人が登場した。このクロマニヨン人は約15000年前にはフランスのラスコー洞窟やスペインのアルタミラ洞窟でバイソンや馬等の動物壁画を描き、自然への畏敬の念を表わすようになった。殊に、アルタミラのマカロニと呼ばれている抽象壁画は、人間の右脳と左脳の二極構造が捉えた時空間の曖昧性と創発力とを表現したもので、人間が神を意識し始めた痕跡であろう。この時空間の働きを捉える抽象画は、その後に単独渦巻紋へそして対構造渦巻紋へと発展して、宇宙の意思と脳の交感という神の意識を図形として表現出来るようになった。時代が下って、中東地方で文字が誕生して、この先住民の神の意識を吸収して、人間の欲望をも満たすような論理的宗教が誕生し始めた。クロマニヨン人に源泉を持つ壁画を描く集団は、後続する論理的宗教の影響から逃れて、アフリカ・メソポタミア・インダス・南アジア・オーストラリア・ポリネシア・中国・日本・アメリカ大陸へと展開して、各地に無数の岩画を残した。文字の使用を獲得した新集団は、先住の壁画を描く集団を追って東進し、四大文明と呼ばれる繁栄をもたらしながら、各地で現在の世界宗教を誕生させた。

 このようにして神の意識には、太古よりの根源的な神の意識と、文字の発達によって生まれた文明の構成要素の一つである論理的な神の意識とがある。根源的な神の意識には、太陽や月や星や木や山や岩等の自然物と、雷や風等の自然現象と、偉人や病気治癒等とが対象になっている。宗教学者ではないので知識に乏しいが、昔、東北地方の田舎を旅していた時、田んぼの片隅に小さな建物があってアラハバキの神が祭られていて、つい先ほどまで誰かが何かを祈っていたかのような座布団の温かさを見たことが何度かあったが、これが根源的な神の意識の場ではないかと思っている。論理的な神の意識には、仏教や儒教を始めとして世界の大宗教が含まれていて、見事な論理で全人類の救いを説き、圧倒的威圧感と美しさを誇る建物と着飾った衣装で神威を示しているが、世界中に人々の苦難が充満し増大しているという矛盾を内包している。日本列島では、クロマニヨン系の根源的な神の意識が今のイランーインドー中国南部を経由して「もの」という表現を伴って渡来し太古より各地に根を下ろしていたことは、縄文土器や銅鐸銅矛に描かれた渦巻紋様が彼等の神の意識を示していることから判る。その後に仏教・儒教・道教が渡来して、天武朝以降に組織的で論理的な神々が日本列島にも創造された。

縄文土器  銅鐸

  大陸からの渡来文化によって社会が論理化されていた近畿地方で「地名+座+神」と呼ばれていた神々や、その他の地方で「・・明神」と呼ばれている神々がある。それぞれの風土で培われたクロマニオン系の根源的な神の意識を論理性が取り込んだ神々である。

 菅原道真を祭る天満大自在天神は、天空を駆ける雷神の意味での天神様で、いわゆる天津神の天神様とは別種の神である。その誕生の過程は根源的な神の形式を取っているが、神威としては朝殿への落雷や学問向上等の合目的な性格の神であることから、論理的な神の分類に入るのであろう。一方、当家で伝承する日奉大明神の精神であるが、一般的には太陽祭祀を司る日奉部の氏族で敏達大王の他田宮で行われた日祭を補佐した人々の精神ということになっている。クロマニヨン系の根源的な神の意識が通過したルート上の拝火教や南中国の良渚文化の火祭りを考慮すれば学問的には正しい説であろうが、人間存在の根源に帰って考えると不十分な説であることが分かる。敏達大王が宮殿を移してまで求めた精神には程遠いものである。論理性の申し子である大王は、人々が日常の生活の中で、相応にささやかではあるが楽しく充実した一生を送ることの出来る人間集団の管理の方法を、南関東の東の果てに生き残っていた下海上[日奉族]の精神から吸収しようとしたのである。仏教の言葉を借用すれば、「一切衆生悉有仏性」の仏性という精神が、日常活動の端々に躍動する管理の方法である。日本列島に住む人々は、古代からあらゆる対象にそれぞれが背負っている愛の歴史を認識して、相互に共鳴することによって生まれる価値に感動することが、生きることの本質であることを認識していたのである。個人の想念と周囲環境が創出する情報の矛盾を、モンスーン地帯の水エネルギーの再生力を利用して調整するのが族長の政治力であり、この「間の管理[虚構性]」に生きるという本質を見ていたのである。

 中国南部の苗族に伝わる伏羲・女媧図は、サシガネとコンパスを持つ男女[空間の虚構性]が下半身を螺旋状に絡めた図で、ギルガメシュの洪水伝説を経由した神話の匂いがする。サシガネとコンパスとは空間の表現の違いを、下半身の螺旋形状は時間を表現し、やや性格の異なるもの同士の共鳴が時を経て新しい価値を創造するということを意味している。中国では、新石器時代に入ってから南部を中心に神の思想が発達した。倭人は、この思想の継承者であるために前方後円墳[サシガネとコンパス]が構築されたのであろう。白川静の「字統」では、「神」の字の旁である二連の渦巻紋様は、「雷光が屈折して走る形で、万物を引き出す神威の現われ」と説明している。雷光の走る様子という表現には論理性が感じられるが、渦巻紋様の遭遇による創発現象に神威を感じるというのは素晴らしい解釈である。同様の神の構図は、ゲーテの新世界で働く人々を見渡しているファストの構図や、最高の仏智といわれる「法華転法華」や法華七喩にも採用されている。

   伏義・女媧図 [字統]より

 中国大陸の思想は、新石器時代に最初はクロマニヨン系精神が南海経由で伝来し遅れて南ロシア草原ルートからも伝来した。この草原ルートに乗ってセム・アーリア系論理的思想が伝来し、後にはシルクロードを通じて多量に押し寄せた。日本列島には縄文時代からクロマニヨン系精神が全国的に広まっていたところに、青銅器の伝来の頃からセム・アーリア系論理的思想[儒教・仏教等]が伝来し、列島の文明化が始まった。この文明化の波が関東地方にも押し寄せる中、日奉族[後の呼称であるが]は南関東に生き残っていたいたクロマニヨン系精神[日奉精神]を強化するために、武蔵国にややセム・アーリア系論理的思想に傾いた集団(サシガネ)を、下海上国にクロマニヨン系精神を重んじた集団(コンパス)を配置して、大和から押し寄せる社会の文明化の波に対応していた。平山季重の頃の日奉族は真言思想によって、新興勢力の源頼朝からの距離をその折々に環境に合わせて絶妙に取っていた。例えば、元来多摩の日奉の峰に勢力の中心を維持していたが、新入り今の言葉で言えば天下りして来た平賀氏や北条氏に領地を蚕食されて、西多摩山地に勢力を移さなければならなかった。しかし、和田義盛の乱のように幕府側の挑発に乗ることもなく、かろうじて命脈を保ち得たのは、真言思想に裏打ちされた日奉精神という日本古来の精神の継承者であるという自負心によるところが大きいと考えている。その後に日奉族は鎌倉で日蓮に遭遇した可能性が高く、14世紀当初には法華思想よって武蔵国には日輪寺を、下総国には淨妙寺を建立して二極構造の維持に努めた。しがしながら、多摩地区は新興勢力[大石氏等]の鬩ぎ合う地域となって日輪寺は戦火に消滅し、この地域の特性である自主独立精神[西党・南一揆等]が失われて戦乱に明け暮れするようになった。一方、下総地域でも表面上は千葉氏の支族の支配下にあったが、新興勢力の出入りが激しくなっていた。その中にあって、淨妙寺系列から飯高檀林と中村檀林という思想上の二極構造が生まれ、後の日蓮宗発展の基礎を作った。

 戦国末期から江戸初期にかけて日奉精神は武蔵国での拠点を失い、下総国多古地域の拠点のみに縮小してしまった。この多古地域は当時関東で支配的であった日蓮宗不受不派の一大拠点でもあった。全国的組織である不受不施派は、秀吉や家康の弾圧を受ける度に論理化を深め、ついには反体制に純化することによって自己存在を強めようとする傾向さえ現われた。この情況に対して日奉族は、伊藤仁斎が「人倫日用」という通り、不受不施派の思想を大切に保護しつつも、不受不施派から距離を取る立場で行動する必要があった。そのため、一族を政治体制や不受不施派という論理性に近い立場を取るグループ[多古]と論理性から距離を置いて日奉精神を護持するグループ[鏑木]とに分離して、江戸幕府の高度な統治政策に対応することとなった。16世紀後半には、日奉精神の発祥の地である鏑木村が政治的に不安定となったので、一族は法華思想を基調とした理想的村の経営に乗り出した。村の人々の日々の生活と当家との関係の中に宇宙の意思を現わす工夫がなされていた。江戸幕府成立期から昭和の中頃まで、この関係が維持出来たのは、鏑木村が天領となっていたため大名という低位な支配論理が入らなかったことが幸いしている。

 神の意識を現わす上図について考えると、孔子が理想とした鼓腹撃壌ではAが老人達に・Bが帝尭に、法華経では三車火宅ではAが子供達に・Bが長者に、また良医病子ではAが子供達に・Bが良医に、ゲーテの新世界ではAが労働者に・Bがファストにあたることになる。法華経的に見れば、Bの長者や良医は釈迦であろうし、Aは衆生すなわち宇宙の諸現象ということになる。この図は人間の社会の精神構造を少々論理的に描いたものであるが、法華転法華という言葉がある通り、現実の社会ではAがBになったり、BがAになったり、AとBとが融合するものである。

 前文に書いた通り、天満天神[サシガネ]と日奉大明神[コンパス]とは血縁が生まれたわけだが、これを伏羲・女媧図に見立ててその構図を考えて見る。江戸時代では、論理性の高い支配体制は権力を持つ幕府で、朝廷は論理性から遠い存在であった。このことは京都においては、二条城と御所という構図として現われ、その中間領域である堀川通りにおいて幕府の論理性である朱子学から距離を置いた学問が登場した。その代表格が伊藤仁斎・東涯ということになる。一方。当家では支配体制の対抗勢力である日蓮宗不受不施義を保護しながら、後北条・豊臣・徳川という新興支配体制から距離を取るという時代が、中世末から江戸初期にかけて約100年続いたが、仁斎・東涯の時代には身延山支配が確立して一応終結していた。そこで、堀川通りの宝鏡寺を起点として、朝廷の精神を用いて幕府の論理性から距離を取ることとなった。29代平山満篤(1674-1744)は少年期に後西上皇に仕え「久甫」という名を頂き、1700年頃から堀川通りの宝鏡寺と古義堂の間に居を構えて、寺社の建立等幕府からは距離を置いた事業に取り組んでいだ。当時の史料は沢山あり論点も多いが、ここでは古義堂との関係を探りたい。しかし、東涯と彼とが茶の友であったという言い伝え以外は何の史料もない。非常に近い所に住んで共に数十年活躍していたので何か史料もあったであろうが、堀川通り周辺は火災の多い地帯であり、当家には古義堂関係の史料は残っていない。

在位(1709-1735)

 約5000年前から人類を拘束し続けている文明[軍事力・知識力・経済力]の一形態である日本の支配体制の中にあって、敏達大王[日奉部創設]・志貴皇子[現天皇家創設]・源実朝・徳川家康等は、日本の風土に潜在する文化の基礎構造が、文明を超越した宇宙の意思[神・生命]によって成り立っていることを認識していた人達である。その一人である志貴皇子の子孫は、三度にわたって新王朝が誕生したことを主張する郊祀を行って、平安京において志貴皇子の精神の影響下で国風文化を開花させた。その状況の下で930年前後に、日本列島の東[もののふの道の領域、東京都日野市]と西[もののあわれの領域、京都と大宰府]とで生まれた二つの神が、一つは鄙に徹し、他は雅を吸収して、それぞれが社会を導いて1千年の時を経て今日に至っている。

黒船の出現によって西欧文明の高度な機能性に圧倒されて誕生した明治維新以後の現代日本文明は、白村江の戦の敗戦で誕生した天平文化と同様に華美を追求する過渡期文化の特徴を示している。今日の支配層の政策のうち明治的発想は論外としても、若い人達でさえ西欧諸国で何十年も以前に考え出された政策をそれらしく理論武装したもの以外は何も創造的政策が出て来ない悲しい状況にある。日本列島の位置や風土や民族特性に配慮して創造された政策が全くないのは、現代日本が過渡期文化の中にいる証拠であろう。同じ敗戦という過ち犯した後でも、白村江の場合は何十年と塗炭の苦しみを味わった志貴皇子・光仁天皇という支配層がいた。太平洋戦争後の日本社会には、占領政策の影響であろうが、戦争と敗戦という二つの大罪を犯した後の混乱の中で繁栄を勝ち取った人々の支配する社会で、軽薄な文化が出現せざるを得ない状況下にある。この状況を克服するためには、宇宙科学・生命科学・情報科学の力を借りた新しいしかも日本独自の大衆管理システムを創出することが必要である。