東方性

[top.htm]

東方性[銚子市海上山妙福寺の創建]・・人類最古のそして未来の精神  HP

はじめに

 約4000万年前にインド亜大陸がユーラシア大陸に衝突した影響で、アジア大陸の東端にあった窪地が押し広げられて日本海が誕生し、約2500万年前にアジア大陸の一部であった陸地が太平洋に胸を張る形[根室・対馬を起点とした観音開き]で東方に分離しました。また、地球が自転し夜空を彩る星々や太陽が東方より日毎に昇り続けているために、地球上の多くの人々が長い長い歴史を通して東方への憧れ持ち続けています。このように、地表運動や天体運動から見ても、日本列島、特に関東地方の風土は東方への指向性を潜在している特異点であります。

大陸から東方へ分離

 その上、人類の誕生・人間性[総合知]の確立[クロマニヨン]・論理性[分析知]の確立[セム・アーリア]という人類にとっての最も重要な出来事が、日本から見て遠く西の果てで起こったために、それらの出来事の影響が日本そして関東地方に到達するまでには、無数の人間の脳と自然との交感そして時の流れを通過して、角の取れた穏やかな精神として磨き込まれたものとなって到達し滞留しています。中国南部の少数民族が一族の願いを託して妊婦に東方の理想郷を求めて旅立たせる神話がありますし、西方の論理性社会の生んだ天才アインシュタインでさえも、日本訪問を終えて離れる際、日本人に宛てた言葉で「地球上に日本国民のように、これほどまでに謙虚で篤実な国民が存在していたことを知ったこと・・これほどまでに純真な心持の良い国民に出会ったことはない。この点について日本国民は欧州に感染しないことを希望する」と述べています。武力や金力や知力を偏重して来た過去5000年余の人類文明[論理性]に毒されない凡人達が、日本列島という恵まれた自然との交感の中で、ある時は涙しまたある時は歓喜した日々の蓄積を慈しみ、これからもここに生活するであろう人々の平安を祈る心が東洋の東の果てには細々とではあるが宿っています。

 人類誕生後の約100万年間は総合知の発達で、その集積がクロマニヨンの知性であります。その後に、総合知が発達した地域の中心地でセムやアーリアという人々によって分析知が生まれました。それが今日まで指数関数的に発達を続けています。この分析知は合目的で明確な論理性を備えているために、チャイルド的文明[兵力・財力・知力]を誕生させて、先行のクロマニヨン系総合知を東方へ東方へ[バスクの場合は西方]と押し出しつつ,それぞれの地域で四大文明を創出しました。このため、インド東部・ミヤンマー・ベトナム・中国南部・日本列島に住む人々、いわゆるスンダランドから北上した古モンゴロイドの心には、東方への憧憬を潜在させた総合知が未開という烙印の下に生き残っています。この民衆の総合知つまり民間伝承やジャータカ[本生譚]等を、西方からの言語的論理性の発達を受けた理論で整理編集されたのが釈迦の仏知見であります。その後、約500年間にわたって多数の仏典編集集団の僧達の脳を通過して編纂された経典の最後の方に「維摩経」や「大般若経」や「法華経」があって、中国天台の智(538-597)は多数の経典の中で「法華経」が最も優れた経典(経王)であると尊び、それを継いだ最澄は「法華経」を根本経典としました。最澄の思想を継いだ円仁は北関東の総合知[日奉精神]を、また、日蓮は房総半島の総合知[日奉精神]を、それぞれに仏教思想の中に包摂して天台宗と日蓮宗を開きました。このインド東部から日本までの地域はクロマニヨン精神の末裔とされる古モンゴロイド[倭族・越人]の活動地域で、総合知の宝庫[空・天網恢々疎にして漏らさず・マナ・日奉精神]であります。

 銚子市史によると、『古事記』では「天菩比命(アメノホヒノミコト)之子建比良鳥命(タケヒラトリ)、下菟上(シモウナカミ)国造之祖也」と、また『国造本紀』には4世紀の応神天皇の時、天穂日命(アメノホヒノミコト)の子の建比良鳥命の末裔の久都岐直(クツキノアタイ)が国造を賜わるとあり、この久都岐直は『出雲国造系図』の天穂日命の5世孫櫛月命(クシツキノミコト)であるので、武蔵七党の祖日奉大明神宗頼の5代孫平山日奉季直[当家の祖]は他田日奉氏の末裔であると推定し、6世紀後半には、敏達大王は他田宮に奉仕する日奉部を設けて長い間朝廷の支配下に入らなかった全国の出雲系部族[クロマニヨン系総合知に根ざした論理性]を懐柔することに成功したと書かれています。また、最近刊行された『千葉県の歴史』通史編 原始・古代Tの764-767頁で、下海上国の勢力が小見川ー鏑木―多古に分布し、日奉部の成立時代にはその中心が鏑木[鏑木古墳群]にあったと推定しています。この地域は日奉族が下記する淨妙寺ー妙福寺ラインで「経典の中の王様である法華経を大切にする楽園」の構築を目指した活動区域と重なっています。日奉部の成立時代とこの法華経の真髄を求めた時代とには千年を超える時間差があるということは、人間精神の基礎構造である総合知への回帰の念がこの地域の風土において如何に強烈であるかを示しています。現代社会は西欧文明の極度に発達した過渡期文明の中にあって、分析知が旺盛を極めていますが、文明の各分野において野卑性が現われ行き詰まり状態にあります。ゆっくりとではあるが着実に、社会の諸相で総合知への回帰[ロハス的思考等]が求められていますし、それがないと人類は滅亡に向かう以外ない状態にまでに分析知が地球を汚して仕舞っています。

  鏑木、下海上国造墓?

 二極構造をとって南関東に残留していたクロマニヨン系総合知は、日本書紀によると武蔵の乱(534)と下海上国造が日奉部に吸収されたこと(577)とで、論理化社会の中に消え去る運命にありました。しかし、実情はそう簡単な経過を辿った訳ではなく、五経博士・仏教伝来等の論理化の進む時代背景の中、皇后推古大王始め論理を信奉する人々に囲まれ、しかも自身が大王という論理性の象徴的身分にあった敏達大王が、他田宮に移ってまでも倭族の本流の心であるクロマニヨン系総合知[日奉精神]を吸収しようとしたことに歴史の複雑性[アンビバランス]があります。この大王の夢は時代の潮流の中に一時消え去ることになる訳ですが、天平文化という絢爛たる社会の陰で厳しい環境を耐え抜いた志貴皇子と光仁天皇の心に「もの」という形で蘇生しました。それが田賭等に代表される民衆自治の萌芽の時代を迎えて、都の雅の世界では「もののあわれ」として、東えびすの世界では「もののふの道」として日本人としての心を形成することとなりました。

下海上国/日奉精神の発祥地

1333年以前は別項の通りで、真言宗の寺院の創設が多く、記録に残すべき伝承もあるが、ここでは省略する

◎世界最東端に維摩思想による法華経の殿堂 [★は日奉精神の東西二極構造]

1333年頃:日奉大明神13代平山季信=日擁[日奉]入道[中山3世日祐の弟子]日蓮思想により日奉精神の強化するために法性山浄妙寺[多古:1331]と日輪寺[あきる野市]を創建。鎌倉・武蔵平山城に住していたが、建武中興(1333−1336)前後の混乱を避けて下総壺岡城へ★

中山3世淨行院日祐(1356)約400年後に「法性山」の額を寄贈

 淨妙寺は以前から日奉一族の信仰と生活の拠点であった真言宗寺院を日蓮宗に改宗して、後に現在の位置に移築しました。この寺は壺岡城との関係で改宗し改築されたと伝承されています。同時期に東京都あきるの市に創設された日輪寺が後に戦火で焼失したことから判りますように、当時ようやく確立した日蓮宗派の情報伝達ネットワークが地域社会の運営に使用されていました。江戸時代初期に多古地区の不受不施派が弾圧された時には、幕府の取り調べの拡大を避けるために淨妙寺の開基檀越日擁入道の位牌が破棄されたことを伝える古文書が現存していますから、この寺は厳しい歴史の波を乗り越えていることが分かります。淨妙寺の名称については、日奉一族では中国天台山の智・智者大師を尊崇していて、私は幼い頃に毎日のようにチギ・チギと聞かされていましたが、青年になるまで漢字表記は知りませんでした。そういうことの縁で、十数年前に中国天台山を訪れた時に智者塔院[門を入り左手に般若心経塔‣‣空]で智の墓である肉身塔を参拝しました。その折に墨染の法衣を纏った寺男の案内で険しい山道を通って谷底の高明講寺を訪れたことがありました。この寺で智は「淨名経」[維摩経]を講じ、高明講寺は「淨名寺」と呼ばれていたことがあると聞きました。これが多古町の淨妙寺の名の由来ではないかと思いました。法性山淨妙寺は数段小さい規模ですが何処となく高明講寺の面影があるし、現在の低地に移ったのも幽渓の高明講寺を模したのかも知れません。維摩経は二極対立構造[東方性]から融合性[空]へと進む精神を取り扱っていて日奉精神の日常性そのものでありますが、長くなりますので別項で考察します。隋の煬帝が晋王と呼ばれていた頃、頻りに淨名経の解説書の送付を願ったが、智はなかなか渡さず丁寧に解説書を作った話などを、必ず日現聖人の本尊を前にして聞かされました。アメリカのB-29爆撃機が大空を飛行する時代で、何故日現聖人御本尊の前であるかを聞かずに過ごしてしまいました。ただ、当時小学生にも上がっていない私でも、自己およびその環境が光明であることをモンゴロイドとして伝承し、論理性に偏り過ぎた現代欧米文明の衰退を待つ忍耐力が日本人にとって大切だと思っていました。東方の仏の国から来て在家信者の姿に変身した維摩居士が菩薩達の悟りの浅さを正して「空」を現成して行く過程と、下述する寺社システム創設の過程とを比べて頂きたい。

中国天台山智者塔院[真覚講寺]

中国天台山高明講寺[淨名寺、谷底にある] 仏寿院日現(1552)

身延山16世琳b院日整が平山愛千代麿(図書)へ「武運長久祈」天正5年(1577)

1577年:日奉大明神25代平山図書光高、鏑木村で日蓮思想で日奉精神の理想郷実現を目指す、鏑木村「原の坊後の東栄山妙経寺」を拠点とした。

1580年:慧雲院日円[光高の妻の弟]、昌山妙見山妙福寺6世に

 妙見信仰は長江流域の山々での点々と見える焼畑の火と北斗七星という雄大な早春の夕景のパノラマに、その年の豊作と人々の幸せを願った農民の信仰が、秦氏によって新羅経由で伝承されました。その頃、丁度武士階級の台頭の時期と一致したために多くの武士団の信仰を集めた。見渡す限りの星空の下、農民達の頬を吹く春風を感じられて素晴らしい話でありますが、秦氏が関係しているとすると、カスピ海周辺が妙見信仰の発祥地ではないかとも思いますが、調査をする力がありません。 

 当家妙見宮 擁護符[妙見山妙福寺] 妙見大菩薩[菊花紋付]

 

1580年頃:平山図書光高は源平合戦時代の盟友那須与一の支族と共に真言宗中村坊を唐竹林山妙光寺として創建した。比叡山3世慈覚大師円仁は、中国[唐]の五台山の竹林寺を訪れて法照の「五会念仏」を修得し、天台智の「常行三昧」から派生した「三昧」であるとした。円仁は栃木県岩船町出身で、日蓮聖人以前に仏教思想と日奉精神の融合をはかった僧であり、中尊寺・毛越寺・立石寺等と蝦夷地に円仁が関係を持った寺院が多いのもこのためである。光高の母鶴寿姫の岩船地蔵尊もこの関連で、再考しなければならない。那須氏は妙光寺の近くの大堀城を拠点としていて、その地の正徳山賢徳寺は下記の如く1700年に引寺されている。名族那須氏は栃木県の那須を本拠とするが、その近郊湯津上村蛭田には平山の支族が身を寄せている。仏教の内蔵する聖道門と浄土門のバランスを那須の地の風土と共に考える必要があるが、別項とする。

唐竹林山妙光寺

1590年:平山刑部少輔、飯高談所[飯高檀林]を創設

1599年:慧雲院日円、法性山浄妙寺に蟄居日本講寺[中村檀林]・飯高蓮福寺・大寺長福寺・内山妙典寺[前三寺の記述は日蓮宗事典より]を開く、飯高に帰って1605年遷化★

 慧雲院日円の出自は一般には椎名氏とされている。それはそれとして、当家に秘蔵されている不受不施派の系図では、上掲のように平山刑部少輔の次男となっている。その姉が常明院で当家光高の妻である。一般に強義の不受不施義を唱えた僧の出自は秘匿され、日充も他姓を名乗っていた。また、日円の子孫と称する者が何代かにわたって「平山の子孫である」と称して、当家の菩提寺妙経寺の信者の案内で当家の周辺を見に来ていたと聞いていることや、日円が淨妙寺を基点に活躍していること等を考慮に入れて、日円は刑部少輔の子であるという系図を歴史に残したい。

1620年頃:26代平山光仲が満仲と改名…徳川竹千代が家光となったために、光➔満

身池対論(1630)前に鏑木へ日賢より平山図書夫妻へ 日充「日天子(日奉大明神)起請文」

1651年:平山図書光高の死

1665年:4代将軍家綱「諸宗寺院法度」で新寺建立の制限

1670年:この頃、椿新田開発事業がほぼ完成して生産活動[当家は表面に出ていない、歴史に載っていない史実は未調査]

1680年頃:日奉大明神29代平山図書満篤(1674-1744)は少年期に後西院上皇に仕え「久甫」という名を頂き、1700年頃から京都西堀川通りの宝鏡寺と古義堂の間に居を構えて対朝廷活動を活発化し、家督移譲(1710)後に「久甫」名を常用した。

平山久甫  中御門天皇在位(1709-1735)

1693年:椿新田の万歳村の田と万力村一番割を交換し10軒に割り当て、古田を潰し長熊堰を造って水源を確保し百石部落[百石=約10町歩]を開発。新部落住民の精神の主柱として稲荷社を創設した。

百石稲荷社

1700年:多古藩の服部与五左衛門は南玉造村新田[柏熊]開発し、2月18日に大堀村[匝瑳市]賢徳寺を引寺して法性山正岳寺[多古]を開基。服部は久甫の友人である。玉造村は日奉族の地であることと法性山の山号が気になるが資料なし。

服部追善碑

平山図書満篤、京都堀川屋敷で宝鏡寺を通じ朝廷側との関係を深める。

1705年:平山図書満篤は沢村暁典寺を入野村に引寺し、銚子飯沼屋敷にて海上山妙福寺の建立を開始した。

 当家の史料には暁典寺は江原与右衛門知行所香取郡澤村にあって小湊誕生寺の末寺であると書かれているが、香取市教育委員会から頂いた資料によると澤村に暁典寺は存在しなかった可能性が高い。その推定が正しいとすると、創建というこどになり、秋田村から万力村・米込村・入野村と続く干拓砂地の耕地化入植区域の東端において椿新田の管理と日蓮宗の布教をすることが表面上の目的であったのだろう。しかし、当家は九十九里浜の干鰯に関わっていて飯岡平松浜屋敷・銚子飯沼屋敷―浦賀ー摂津・播磨屋敷の海運ルートがあり、その流れに乗せた当家ー暁典寺ー平松浜ー飯沼屋敷の妙福寺建設ルートが強化されたのであろう。旭市教育委員会からの情報では、入野村の暁典寺は後世火災により旭市新町に移転したということである。現在の境内に享保3年(1718)の石仏が残っている。この干鰯海運は瀬戸内海沿岸に油菜の花を一面に咲かせて、後に高田屋嘉兵衛(1769−1827)等を輩出する訳だが、妙福寺建立資金の大半はこの干鰯海運の資金と日奉族が管理していた山林の木材によっていたのではないかと思っている。

銚子古絵図

1714年12月:山崎村名主半三郎・組頭三十郎・勘十郎が正中山妙法花寺へ妙福寺を差し上げ・多古藩役人へ銚子荒野村への引寺願、山崎村妙福寺住職が多古藩役人へ銚子への引寺願・房州上総廻船の宗旨手形の不便なために荒野村に引寺願、荒野村法華宗百姓太郎左衛門他7名が寺社奉行所に引寺願、山崎村妙福寺は寺社奉行所に起立180年の同寺を銚子へ引寺願

 妙福寺建設秘録を見ると余りにも整い過ぎた手順が読み取れる。恐らく全ての文書が当家において作成されたのであろうが、書類上の引寺の熱望者は入山崎と銚子の百姓でそれを僧侶が補助する形式が踏まれている。当事者の平山久甫の名はほとんど出て来ない。その理由は源平合戦であれほどの働きをしたにも関わらず平賀氏・北条氏・足利氏・大石氏に領地を奪われながら長期にわたって奥多摩に引き籠って日奉精神の維持に努めた日奉族としての経験や、不受不施派のラジカルな行動の中で日奉精神の中庸を維持した経験から、可能な限り表面に出ない対策が取られていたためである。引寺したとされる入山崎の妙福寺は架空の寺だと思う。入山崎には妙法山金蓮寺が現存するがその寺歴から引寺には関係はなさそうである。また、村の規模から二寺が並存していたとは考え難い。史料から海上山妙福寺という名は早々に決まっていたことが判る。久甫が幼くして京都で後西院上皇に仕えた目的が、日本の最東端銚子に法華経の宝殿を日奉族として建設することであることが一族として決まっていたようだ。妙福寺の寺名は慧雲院日円の縁の妙見山妙福寺から取り、妙見宮を併設することにしていたと思う。海上山は海上族=日奉族を示している。

妙福寺建設秘録 

1715年3月:中山法華経寺が引寺願を寺社御奉行所に提出

  12月7日:平山図書満篤、入山崎村妙福寺引寺事業の推進を妙福寺(銚子飯沼屋敷)に指示

1716年:海上山初世紫雲日逢が聖徳太子御作妙見大菩薩像の縁起を記す

1723年:興栄山朗生寺[匝瑳市野栄]の日朗聖人追善碑は平山久甫の友人(ニチギ)聖人の唱導により万力村の百姓に建立させた。日聖人は日潮聖人を身延山36世に推挙した人である。

日朗聖人追善碑

1725年8月:京都寶鏡寺徳巌法親王筆「妙見大菩薩」

1731年11月:御奉行所へ聖徳太子御作妙見大菩薩像の由来書を提出

海上山妙福寺

1735年:海上山妙福寺が妙見宮完成を平山忠兵衛に報告

★秘録の一つを名文ではないが読んで見る。・・・中興妙福寺求造立助縁叙

 下総国海上郡銚子は矢指が浦に続き東海の奇観なり。大洋前に渺漫(ビョウマン=果てしなく広がる)として漁船の便よろしく、利根川後(シリエ)に流れて旅商交易の利あるゆえに、市店漁家千戸ばかりにして繁花おさおさ彼の長崎の津にも下(オト)るべからず、しかはあれども吾祖妙法の精舎一宇もその基を開かず。漁人商旅の中路に宗門の寺のこれありと雖(イエド)も、心ならず二乗の法水に息つきして深く一乗の精舎なきことを愁え、予この地に宗風の振るわざることを愁い思うことここに年幸ありて、松平勝識公御領内同国山崎村に妙福寺というなる梵刹(ボンセツ=仏寺)あり、この地に移さまほしき志を励して願望を起こし、是を官庁に訴えけるに遂に許さるを蒙りける。大守は下民のその志を遂ぐといえどもその力の足らざるを愍れみたまい、絶塵奇異の地を道場に附興したまう、誠に上の仁心の深きにあらずんばいかでか恩澤の下民をうるおすことのかくのごとく速やかならん。政(マツリゴト)今未曾有の法を起こし、居民旅商その終りを全うすること、これ併しながら大守公の賜物なり、一宗の者はいうには見聞き及ぶ同志の者誰かこれを喜ばず。誠と雖も堂閣庫蔵ことごとく備わり、匹如(スルスミ=無一文)の野僧なれば偏に十方の諸檀越に告げてこれを成ぜんことを願う。貴賎を擇(エラ)ばず多寡を論ぜず等しく善縁を結んで一仏乗に賜らんかをこの山僧の志なり。この山僧の志なり。    妙福寺

1736年9月:平山久甫、海上山妙福寺に寄付した万歳村・夏目村・清滝村の椿新田の田地約3町歩の管理を各名主に指示

1737年:椿新田の荒地を整備して澳津・越川・神保三家を入植させ、七面大明神社を創建した。この建設には久甫の友人身延山36世六牙院日潮の支援があるが、詳細は別項で。

三軒家七面社

1743年4月:平山久甫、淨妙寺へ徳巌法親王筆「法性山」額を寄贈…日奉日蓮精神の原点回帰‣‣維摩経の世界

1744年:平山図書久甫の死

1752年9月7日:海上山妙福寺の敷地測量図

1773年7月:徳巌親王筆「経王宝殿」(智の法華思想)の本堂の額が完成、「海上山」(海上/日奉思想)額作成★

銚子ー鏑木の共役構造

◎海上山妙福寺本堂経王宝殿額字 寶鏡寺宮徳巌法親王御真筆 安永二癸已歳(1773)七月 本願主平山図書満吉 世財喜捨主平山忠兵衛満伴 彫刻並塗師 岡村浅右衛門好行 同苗平七好正 八尺六寸×三尺七寸八分

1806年月:海上山妙福寺は平山伊右衛門から四拾両を借用[後に寄贈]

1857年6月22日:妙見宮葵御紋使用を飯沼御役所に説明

1859年2月:平山忠兵衛、海上山妙福寺に万力村一番割一町五反歩、翌々年五反歩の総計2町歩を寄付

◎終わりに

 文化は東方への憧れを内包しつつ発展して来ました。世界史的には、南ロシア草原ルート[後に遊牧民を生む]や、ポリネシアのアウトリガー航海[ハワイイ=元ジャワ]や、ヨーロッパ人のオリエント志向等、東方を目指した人類の行動は枚挙に遑(イトマ)がありません。モンゴロイドの珠玉の宗教である仏教における東方性を考えて見ると、釈迦はその最期を迎えて(BC383年頃)、最も重要な法となる法華経[多くの法の中の王様=経王]を説こうとして、霊鷲山に上り無量義処三昧の瞑想に入ると、額の白毫[右巻きの]が光を放ち東方一万八千世界を照らし出したと(序品)書かれています。また、道元禅師はこのことについて「照東方は東方照なり。東方は彼此の俗論にあらず、法界の中心なり、拳頭(けんちょう=掌の中央なり」(光明巻)と述べています。釈迦にしろ道元にしろ、それぞれの地で西方から伝来した論理性[釈迦にとってはインド・アーリアの精神、道元にとっては中国仏教]を用いて、それぞれの時代の社会思想を捕捉しています。道元の方が時代が下るために論理性が高くなっていて、僧侶や学者のように仏教を職業とする人々にとっては好都合な内容といえます。その上に、仏教の真髄である縁起すなわち空を説いた「大品般若経常啼品」では常啼菩薩が静かに修行していると、空中から声がして「東[具妙香城]に行けば、空を悟ることが出来る」と諭されて、これに応えて合掌したとあり、「維摩経」では東方の妙喜国の無動仏[アシュク仏]の下で維摩居士は修行したとあります。しかし、一般人にとっては、なぜ東方を照らすという状況が人々を幸せに導くために必要であって、仏滅後4百年も経った経典編集集団がその状況を演出したのかということが大切なのでしょう。

 人間の脳の活動にとって「瞑想に入る」というからには、瞑想に入っていない時間が大部分であることを示しています。その瞑想に入っていない時には、釈迦と雖も分析知を働かせて見聞を広めていたと思います。私達が生活するには、この見聞が必要不可欠でありますが、それのみでは一つ一つの貴い生命がこの宇宙に存在する理由が見出せません。そこで釈迦が過去世を隈なく確認してから瞑想を深めて光明に浸ったという状況が、経典編集集団によって設定されたと思われます。見聞[分析知・東方性]がなければ、瞑想[総合知・仏知見・法華・光明]は現われないことを示しています。下の写真は文科省が最近配布した宇宙図でありますが、上部中央の炎のような図形の頂点に立つ自己にとっては、下側の炎の薄い表面だけが認識可能な過去世[東方]であって、現時点で生存する60億余の人々はそれぞれに微妙に異なった過去世を背負って人類社会を営んでいることになります。釈迦の時代はこの図では少し下がった位置になり、炎の形は相似形で小さくなりますが、現代人と全く同様な過去世を背負った人々が生活していたことになります。ただ釈迦の時代には天体観測技術もなく、人々は肉眼で直接見える野山や星々という過去世との交感を通して見聞を広めていたことになります。しかし、言語が発達し文字も使われた時代なので、当時の多くの人々が感得した宇宙観を融合して広大な宇宙観が構成されていたのです。その構造が文明の発達と共に更に高度化されて現代の世界観が作られています。これを見聞といい分析知の代表で目的性[方向性]を持っているために、人間の意思の方向性として東方[過去世]が選ばれたのです。この東方の選択には、釈迦が生存したインドが古モンゴロイドの分布の西端に位置していることが影響しています。また、仏教では過去世にも仏国が多数[具妙香城・妙喜国等]存在し、それらを彼等の時代の世界に何の障害もなくはめ込むことが出来ることに気付いています。本文では、日奉族として世界の最東端の地に諸寺を創設した歴史を書きましたが、その社会活動は日奉精神という原初的空性が、論理化の進んだ仏教という空性の影響の下に、人々の日々の生活に夢や希望を注ぎ込む社会活動[東方性]であり、一つ一つの生命のきらめきを求める人類究極の願いということが出来ます。…五経博士や仏教という西方の論理性が滔々と流れ込む時代潮流の中で、敏達大王が日本列島の東北部に残っていた原初的空性に光を当てようとしたのが、577年の日奉部の創設の意図であると考えますと、日本列島に住んでいる一人一人が空性の輝きを取り戻すことが全人類の未来への希望となることを示しています。