東洋精神の醸成 

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東洋精神の醸成    HP

 中国長江上・中流域は原中国人(モンゴロイド)の揺籃の地で、彼等は一般にはアフリカからスンダランドを経て長江に辿り着いたとされているが、最近では禄豊猿人(雲南省、800万年前)・元謀猿人(400万年前)・巫山猿人(240〜200万年前)の発見があって、アフリカとは別にモンゴロイドが長江流域で誕生したという説もある。

 このモンゴロイドは旧石器時代に青海省を含めた全中国やシベリア南部へ北上し展開していた。黄河の北側流域から中国東北部にかけて住みついた人々は、西方から来る論理性に優れたコーカソイドと数千年をかけて交流を続け混血した。この混血の濃淡によって多種多様な優秀な民族が生まれた。黄河流域の北では、後の中国の支配階層となる遊牧・雑穀文化圏が大きく分けて二つのグループ[紅山の黄帝と羌族の炎帝]に発達した。黄砂の降り積もった黄河中流域も数千年の時を経て肥沃な農地に変わった頃に、仰韶文化(7000〜6000)が登場して黄河文明の素地を作り出した。古代中国史を通じて支配者はこの黄河中流域の北と西の種族から出て権力を確立した。漢人[華夏族]でさえ西域に故郷を持つといわれている。生活の厳しい地域で論理性を磨いた人々が肥沃な農村地帯の支配者になるパターンは、6000年前より発達した三大文明の特徴であり、イランやスーダンの質素な丘陵地帯で論理を磨いた人々が山を下りてメソポタミヤやエジプトの凡庸だが裕福な農耕民を支配したのである。

≪大陸におけるモンゴロイドの発展と倭人≫

A:モンゴロイドの故郷、B,B':モンゴロイド゙の論理化 、C:中原

@・@':モンゴロイドの北上、 A・A':支配層の供給、 B:征服、 C:倭人・羌人の逃避

〔征服は始皇帝・武帝・諸葛孔明・フビライ等〕

≪1万年以降の文化形成≫

 中国各地で1万年以降の人間生活を示す遺跡が多数発見されている。それらを大まかに分類すると、西部[羌族]・北部[紅山]・東部[東夷]・南東[良渚]・南部[印紋陶]・中原[仰韶]となる。西部[羌族]と北部[紅山]の両文化は西方に開けているという地理的条件からカスピ海南東岸のアナウ文化等のコーカソイドの論理性を直接的に受け入れることになった。特に、北部[紅山]文化では祖先伝来のシャーマニズム[巫]を基盤とした統治システムを発展させて中原に進出して、黄帝を始めとする初期国家を誕生させた。[巫」という字は「工」という字を縦横に重ねた形状で、「工」は曲尺を意味してそれを縦横に重ねることで円と正方形が描けて「天円地方」に通じることから作られた文字だという。その後、黄河の氾濫により初期国家の支配力が衰えると、長江の治水能力を持つ南東[良渚]とコーカソイドの論理性を身に着けた西部[羌族]が力を合わせて夏王朝を誕生させた。北部[紅山]文化は論理化を深めて再び中原を征服して、甲骨文字や青銅祭器を用いた強力な支配体制[商ー殷王朝]を確立した。次に西部[羌族]が中国全域に展開していた先住羌族の力を借りて、周礼を基盤とした支配体制[周王朝]を中原に確立した。この時に周は殷の残党を東に追い出し、このことが日本への弥生人の到来の始まりとなったと考えられる。・・・中原の肥沃な農地には仰韶文化が栄えたが、この文化の内部には、半坡遺跡と廟底溝遺跡という東西共軛構造が存在し、その構造が長い時代にわたって各種の夷族文化を吸収し新しい価値を創発することによって、息の長い中華文明を作り出した。

 モンゴロイドの故郷である中国の長江上・中流域は西方に世界最大のヒマラヤ山岳地帯があって遊牧民の侵入が防がれたために、比較的穏やかな風土が作り出された。約1万年前に稲作と高床式建造物による独自の文明を発達させて倭人が登場した。森林は50年、水稲は1年と違いはあるが、雨水の天地間の還流による太陽エネルギーの集積システムで環境破壊を伴わないために生活が安定して、益々穏やかな風土が醸し出されていた。このため、倭人は論理に偏る必要もなく理想的な人生を送っていたが、中原にいて論理の枠に囚われてしまった勢力から見れば、彼等は理解を超えた存在としか見えず南蛮・東夷と呼んで蔑視した。長江下流域の倭人へのコーカソイトの論理の伝播は、主に興隆窪・紅山地方から波及して良渚文化や呉国・越国が出現した。しかし、結局は彼等より論理的な楚国・秦帝国・漢帝国に征服されて、大陸外に放浪の旅に出るか、山岳に逃げて少数民族になるしか生き残る術がなかった。

 倭人のものの見方は総合知であって、分析知による論理で組み立てられた中原の人々の軍事的圧力にはとても抗しきれなかった。この論理世界(コソモス)の淵に位置していた釈迦・老子は、倭人の総合知(カオス)社会を観察して仏知見・無の世界等の重要性を説いた。これ等の思想は難解ではあるが、未来社会の機軸となる思想であることは確かである。

≪閑話休題・・甲骨文字で有名な殷王朝がある。中国歴代王朝の中では異なった匂いのする王朝である。明治以後の日本の匂いではなかろうか。同じ匂いのするのは、西欧の文化が直接に倭的精神に作用したためであろう。殷王朝[殷は紅山の紅]は商王朝とも呼ばれて周王朝に滅ぼされた後、殷の人達が山東省付近で交易を行ったために、交易を行う人を商人というようになった。これが商人という言葉の始まりだという。中国の張光直は、「商」の字の「立」の部分が祖先神を、「冂」の部分が祭壇を、「口」の部分が呪文を表しているのだという。祖先崇拝すなわち徳性の高さを表しているのであろう。興隆溝遺跡で最近発見された竪穴住居跡の床下に埋葬された人骨と関わりがあるのかも知れない。権威とは時空の継続・大きさである。例えば、漢人を昔は華夏人と呼んでいたが、華は自然の輝きで、夏は人の心の輝きを表しているという。自然と人間のレゾナンス(共鳴)する時空が国(大邑)であった。それが凍てついた氷河を表す漢に代わったという。このことは文明の進歩の限界を教えているのかも知れない≫

 中国人は長江上・中流域で誕生し、その一部は今の青海省や遼寧省まで北上発展して、その地に西より押し寄せた論理的なコーカソイドと混血して新しい部族を作った。彼等は黄帝・炎帝・夏・殷・周を始めとする中原の支配勢力へと成長した。金属器・麦作技術を習得することによって更に論理性を高め、自己の故郷に住む羌人や倭人を攻撃して半島や島々や山岳地帯に追いやってしまった。追放された羌人や倭人の中には、タイ・ベトナム・インドシナ・朝鮮の人々〔半島〕、インドネシア・海南島・台湾・日本の人々〔島々〕、侗人・黎人〔山岳〕等がある。

 倭人の一部は7000年前頃より山東半島に住み、後には東夷と呼ばれた。そこに呉国の支配が及び、呉が越王勾践に敗れて滅亡(BC:473)すると、東夷は挙って朝鮮半島中南部に移動して韓族となった。同じ頃、長江下流域より朝鮮半島南端と九州北部に到達した一団がいて倭と呼ばれていた。当時、倭人の故郷である雲南にも滇国・昆明国等があり、漢の武帝は滇国に金印〔滇王之印/BC:109〕を与えている。この印と後漢の光武帝が倭の奴国王に与えた金印〔漢委奴国王/AD:57〕だけが金製で、中原の覇者が自身の故郷の伝統を継ぐ倭人に対する敬意の表れであろう。