五家荘の平家落人集落[熊本県八代市和泉町樅木]

 平山季重と共に源平合戦を戦った那須一族が、平家落人の探索に九州の中央部に入ったという伝説は聞いたことがあるが、探索が本当にあったか否かは全く分からない。場合によっては、平家落人の探索ではなく、義経一統の探索であったかもしれない。

先ず、那須氏は坂東武士の精神「もののふの道」を日ごろの活動でどのように表現していたかは不明で、源平合戦への参加も遅く、屋島での「扇の的の射落とし」に駆り出されるぐらいだから、義経にもあまり重視されていなかったことは分かる。

しかし、合戦後には領地が陸奥との入口であったために、頼朝に重要視され勢力が巨大になった。日奉族は、同じ藤原氏の出であるとの言い伝えもあって、徳川幕府の関東支配が確立する時代になるまでは、那須氏を通じて藤原一族の伊達氏とある種の繋がりがあったとは聞いている。那須氏の栃木県湯津上地区には平山一族が、平山氏の千葉県多古地区には那須一族が配されているほど強い関係が保たれていた。

源平合戦は表面上、貴種と言われる天皇族[大陸分析知]間の主導権争いだが、人類史的には関東平野に伏流していた日本人本流の精神[もののふの道=総合知]の復活の戦いであった。このために、合戦後には、千葉氏を古代からの大陸分析知移入の重要拠点:伊都国があったと言われる小城に配し、総合知の日蓮宗を普及させて朝鮮半島からの分析知の流入に対処するとともに、「刀伊の外寇」等に藤原氏と共同で対応していた太宰府周辺の豪族原田氏[九州平氏の筆頭であったため]を鎌倉の平山邸付近に移して、その地に総合知の雄日奉平山を配している。[徳川家康は、当家が招聘を固辞して帰農した際には、天領としてこの原田氏の末裔を領主にして、日本の総合知を保護いる。]

この政策による北九州社会へ関東総合知の影響は、江戸期のケンペルの「日本誌」を見れば明らかである。このケンペルは、日本地図を保持しており、危険を感じた幕府は日奉族に精確な日本地図の作成を相談しており、色々あって平山一族で伊能忠敬を育成した。

源平合戦より少し時代が下るが、鹿児島県の甑島にも、鎌倉幕府は日奉族を配して九州南部への朝鮮半島からの分析知に対処している。甑島で出版された「北風の文化」によると、この島は対岸の薩摩と同様で圧倒的に朝鮮半島の影響が強い。この日奉族は、豊臣秀吉によって1595年に朝鮮半島からの分析知に対応するために、鹿児島本土に移封されている。このような歴史を通して、この地域の住民は朝鮮半島から文化を齎す王族への憧れが強いという。…これは東回りの分析知の話だが、西回りの分析知[キリスト教諸国]は、禁制下においてこの地域情報を精査していて、薩英戦争を起こし日本列島をキリスト教化する手先となる集団を作った。

 弥生時代が始まる頃から、九州は朝鮮半島から分析知の怒涛のような渡来を受けていたが、鎌倉幕府の成立によって、曲がりなりにも3.8万年来の日本人の本来の生き方[総合知]を取り戻しつつあった。空前絶後の大天才と言われる徳川家康の支配が安定したことによって、この地域の人々は隣接する宮崎県を中心とする日本神話や朝鮮半島の神話の虚構性を熟知していたために、その心的条件下で彼等が創作したものが以下の物語であろう。

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1.平家落人集落は、熊本県八代市和泉村[現八代市]にある。「肥後国誌」によると、菅原道真の子孫が左座氏(ゾウザシ)を称して、仁田尾・樅木(モミキ)に住んだ。その後に壇ノ浦の戦いに敗れた平清経[入水が明らかでなかったので物語に利用]が、伊予国今治から阿波国祖谷・伊予国八幡浜を経由[これは木地師の資材獲得の経路]して九州に渡り、豊後国の緒方家を頼って五箇荘に逃避した。このために、左座氏は緒方と改名して、長男は椎原に、次男は久連子に、三男は葉木に住んだという。その他に、惟喬親王[木地師の祖]の子孫が清和天皇[惟仁親王]の末裔源氏を避けて落人となったという説もある。五家荘として初めて現れるのは、阿蘇氏に従った1500年代の頃からである。これらの伝説には、多くの欠陥がある。まず、左座氏の辿ったという地方に菅原道真の伝説が全くなく、菅原氏の系図にも九州に逃避した記述がない。五家荘の左座氏と緒方氏は農民を支配するために、江戸時代まで平家の末裔だと自称していたが、何らかの理由で菅原道真の末裔説が加わり、左座氏は太宰府の大蔵氏の末裔だと言われた時代もある。五家荘は江戸中期以降に天草と同様に天領になり、天草の一部を所有していた大蔵氏に惹かれたのであろう。寿永13(?)の「由来書」と称するものは実際には江戸中期に書かれたもので、「五家荘の旦那は平氏末裔」となっている。これは江戸幕府の支配が安定する中で、旦那衆が小作人を支配するために平家の落人の地位を獲得したことによる。その後、五家荘内の競合により、「肥後国誌・五家伝記1772」で、左座氏は菅原道真末裔を唱えた。

 豊後国の緒方氏は、太宰府に逃避して来た安徳天皇の平家一族を九州から追い出し、赤間ヶ関まで船を出して源範頼を九州に迎い入れたが、勢力を得た緒方氏は従来から対立していた宇佐八幡宮を焼き払って仕舞った。宇佐八幡宮は源氏の氏神であり、大神氏一族の緒方氏は源頼朝に処罰されて没落し、一族の大野氏も義経側に付いたために没落した。その後に豊後国は源頼朝の知行地となったために、緒方一族に取っては安住の地ではなくなり、九州山地沿いに南下し日向国臼杵郡鞍岡・椎葉を経由して肥後国五家荘に入ったのは戦国時代である。戦国時代後期に、阿蘇氏の下で仁田尾を分村して樅木・葉木が成立し、その後に左座氏の村が開かれた。緒方氏は平重盛の部下であったために、入水したことが世間に知られていなかった清経の末裔であるとして、平家の落人伝説が生まれたと「泉村誌[熊本市]」に書かれている。結論として、菅原道真の子孫や平家落人ではなく、緒方一族[豊後国]が移動して来たのである。

2.那須与一は平家追討の命を受けたが、体調がすぐれず長男大八が平家掃討作戦を指揮し、五家荘に近づいた。たまたま屋島の沖で扇を掲げた鶴富が岩奥にいて、大八の軍を歓待し、五家荘への侵入を防いだ。時が過ぎて鶴富は大八と結婚し、椎葉村に居を構えて子を育てた。幕府より帰還命令が出て、大八は都に帰ったが、那須の子孫が椎葉村に残ったという。…これについて、柳田国男は椎葉村の那須氏は元々山岳地帯によくある奈須の姓で、江戸時代に入ってから那須に改名していて、田舎の人の貴族への憧れの仕業だといっている。結論として、椎葉村の那須氏は那須与一とは関係がない。

3.不思議なことに、五家荘葉木村には、千葉県でも実在が疑われている佐倉惣五郎伝説について、惣五郎は葉木村の出身であるという話がある。五家荘の平家落人には守護不入の権利があったのに、細川家より年貢を取り立てられて五家荘が一揆を起こした。やむを得ず細川家は無年貢としたが、一揆の首謀者を出すように命じた。葉木の庄屋である緒方左衛門の次男左京が責任を負って国元追放になり、佐倉領高津新田の仏頂寺の伯父の下で勉学していた。その後に、大庄屋木内与右衛門の婿となった。父の死後名主となって、堀田氏の苛税を4代将軍家綱に直訴して税を免れたが、直訴した罪で一家全員が公津野で処刑されたという話である。…歴史上、惣五郎という人物はいたが、将軍への直訴以降の話は確認されていない。ましてや熊本の葉木の出身でもないという。結論として、葉木村出身の佐倉惣五郎の話は、後世のフィクションである。

参考1: 九州への東回りと西回りで分析知の侵入

参考2:人類至高の`こころを求めて