サヨナラに思う HP 大西洋横断単独無着陸飛行の最初の成功者リンドバーグの妻アンは、『NORTH TO THE ORIENT』の「サヨナラ」の章で、「別れの言葉には、再会の希望で別れを紛らわす=Auf wiedersehen/再見/またね、別れの苦しみを避ける=Farewell[しっかりやれ]/お元気で/御機嫌よう、少し言い過ぎであるが神の加護を祈る=God be with you→Good-byeがある。その他に、日本語のサヨナラ[そうならねばならぬなら]があり、一番美しい離別の言葉である。サヨナラという言葉は、あらゆる人生の理解を宿し、あらゆる情熱をくすぶらせている。しかも何も付け加えず、握る手に込める温かさが伝わる。口に出さない別れの言葉です」と書いています。日本人の諦念の美ということになります。アンは、1931年7月にニューヨークを夫と共に単発フロート機シリウスで飛び立ち、カナダ・アラスカ・カムチャッカ・国後・根室・霞ヶ浦・大阪・福岡・南京・漢口と大圏飛行をして、その時の出来事を『NORTH TO THE ORIENT』に載せています。 サヨナラの語源としては、『後撰和歌集』の伊勢(872‐938)の歌として「さらばよと 別れし時に いはませば 我も涙に おぼれなまし」や『源氏物語』の「さらば今日こそは限りなめり」等があります。柳田國男は、サラバ・サレバが元の形で、そのサ[身から離れたもの=どうしようもないもの]に女性言葉のヨ[愛おしさ]が付いてサヨが生まれ、当時は男性が漢字で表記していたので左様という漢字が当てられて、サヨナラがサヨウナラに変化したと言っています。サヨナラは友人や親しい関係の人の間で用いられ、職場の上下関係の間では「失礼します」が用いられることになります。 母はサヨナラを人に対して使うことは滅多にありませんでしたが、使い古した家具や着物を処分する時には「サヨナラしましょう」と話しかけていました。京都の育ちだからそうなるのかどうかは調べていませんが、日奉精神を継承する家の崩壊を一身で受け止めて耐え抜いた人だからこそ修得した、モノへのこころの表れではないかと思っています。三十三間堂に碑のある反求堂先生[反求=礼記:弓は仁に通じる。中らずに負けても勝者を恨まず、反って己の中に敗因を求める。墓所:竜安寺石庭の左]の孫としての自覚を持って、戦時中で今の人では考えられない壮烈に厳しい家の崩壊の日々を乗り切っていました。母は死を迎えた時に、崩壊させてしまったことを詫びると共に、サヨウナラと最期の声を絞り出しました。この時から、サヨナラは日本人の精神を表しているのではないかと思うようになり、サヨナラのサに注目して、小林一茶の「露の世は 露の世ながら サりながら→年老いてやっと持てた家庭であったが、娘が亡くなってしまった。この世は露の世であることは十分に知っている身ではあるが、それでも悲しい」を、時々考えるようになりました。そうこうしているうちに年が廻り、あの東日本大震災が起こり、悲しみに暮れているうちに、母と同じ大病に罹り、あの世が近くに見えるようになりました。
病が進んで訪ねて来られた方に、挨拶も出来ずにお帰り頂くことになるのではと思い、帰り口に母の最期を真似て「さようなら」と書きましたが、よくよく考えると、「さようなら」は今という時の諦念が強過ぎると感じられました。そこで、未来への温かさを持たせるために、「お元気で」と小さく書き添えてみました。良寛の「月よみの 光を待ちて 帰りませ 山路は栗の 毬のおほきに→月が昇って山路が明るくなってからお帰りなさい。栗のイガが沢山落ちているでしょうから」のこころが加わったでしょうか。 家具や着物に「サヨナラしましょう」と話しかけるのとは少々ニュアンスが違いますが、アンは段々畑・草ぶき屋根と障子・吊り穂・蓮池・白い道・赤い鳥居・田舎町・蛇の目傘・トンボ釣りの少年にサヨナラしています。また、1932年には長男が誘拐・殺害されたために、この旅で友人から学んだ「トンボ釣り 今日はどこまで 行ったやら」を万感の思いで、また、松は長寿、竹は繁栄、梅は雪の中で花を咲かすから勇気を表すとも書き留めています。アンは外交官の娘であり、パイロットであることから、多くの出会いと別れを経験しているために、異国語である「サヨナラ」に対する理解が一般の日本人より深く、東日本大震災後、「絆」という言葉がTV等で騒がれていますが、アンほどに深くこの言葉を思考しているか否かは心配です。 阿久悠の『ぼくのさよなら史』という文があると知らされ、早速、国会図書館からコピーを取り寄せて読みました。その中で、「サヨナラはすでに死語となっていて、今の人達は別れの自覚がなく、感性を磨き・感傷を広げ・それに耐えることさえも出来ないでいる、悲劇だ。心に湿り気を与えるには、切なさや・哀しさ・寂しさの自覚が不可欠である。出会いの不思議や感激と共に、別れの理不尽や感傷を覚えなければ、人が生きる意味がない。携帯電話や電子メールに魂を売り渡した結果、絶対の神のように信じ、別れに無自覚になってしまった。心配なのは乾きっぱなしの心になることだ。そうならないためには、よく泣き・よく叫ぶサヨナラを千差万別に数多く経験した方が良い。サヨナラは有能で雄弁な教師であった。人間はたぶん、サヨナラ史がどれくらい分厚いかによって、いい人生かどうかが決まる」と述べています。 阿久は、詩を書く際に、サヨナラの場面に時代性と社会性を加えて、サヨナラにダイナミズムを持たせたいという。彼は「サヨナラをもう一度」・「サヨナラ」・「サラバ涙といおう」等、サヨナラを扱った多くの詩を残しています。 父も母と同様にサヨナラを滅多に口にしませんでした。サヨナラに代えて、来客が自宅に帰り着くまでの時間を計算して、机に向かって本を読み、その人の帰路の安全を祈っていました。高齢で死期が迫っても、入院の勧めを固く断り続け、力が尽きて声が途切れた時に救急車で家を出ましたので、最期の言葉はありませんでした。救急車が庭の木立の向こうに消えて行くのを見送りながら、「木を植えた人」の一章を頭に浮かべていました。後になって、父はもっと厳しい別れのこころを残していったのだと気が付きました。それは枕元の左上に、古書の「クォ・ヴァディス[主よ、何処へ]」がケースに入ったまま置いてあったからです。一月以上前から読書をする体力はなく、しかも、本居国学が好きでキリスト教は嫌いでしたから、この本は遺言としてわざわざ置いたものでした。ペリー来航からマッカーサー進駐までの明治・昭和期[現代のアベノミクスもその亜流ですが]は、欧米文明諸国による関西勢力を使っての日本のキリスト教化政策が巧妙に進められた時代でありまして、関東に伏流している日本古来の精神は見事に蹂躙されてしまいました。その間、当家も激しく衰弱し、その最後の圧力が父の時代の香取航空基地の建設への協力でありました。文庫倉から骨董・書画が消え、それまでに見たこともない数の札束が刀箪笥に保管され、一夜にして消えて行くのを、幼子ではありましたがはっきりと記憶しています。釈迦のいう空性や量子論の時空の不確定性を、利他行という形式でこの世に現成する日奉精神の継承者としては、戦争への協力だけでは、欧米文明の中でピエロを演じてしまうことになります。そこで、それまでよりも激しく国民健康保険組合制度の社会への定着に努めていました。この間の心情をシェンキェヴィチの「クォ・ヴァディス」に託し、サヨナラに代えていたのです。詳細は、別項で。 |