伊藤仁斎と日奉精神2 HP 日奉大明神38代平山高書 作製中 『仁斎日札』には、易に曰く「天の道を立つるや、曰く、陰と陽と」、この語、「一陰一陽、これを道という」と自ずから同じからず。蓋し「一陰一陽、これを道という」は即ち流行の義なり。「天の道を立つるや、曰く、陰と陽と」は、対待の理を明かす。蓋し物は両ありて後化す。両無ければすなわちもって化すこと無し、これ天地自然の理にして、万物の生ずるにいたって、皆しからざるはなし。これを外にして更に道理なし。ゆえに陰陽の字間において一の与字を著く。意味見るべし、いわゆる「太極両儀を生ず」とは、すなわち分生の謂にして、生出の義に非ず。とあり、私なりに解釈してみますと、易経には道については「陰と陽」と「一陰一陽」という二つの表現がありますが、前者は対待[タイタイ:対立存在]を即ちある瞬間の状態を示し、後者は流行[互いに入れ替わる存在]でをすなわち生成を繰り返すこの世を表しています。この宇宙の原理として、物は二つの性質が反応して生まれるのです。だから、「一陰一陽」と一を付けた意味が重要なのです。すなわち易経では、この世は太極・両儀・四象・八卦と変化すると言います。 『語孟字義』[天道]では、ある時は陰となりある時は陽となって交流して止むことがない道路のようなものを天道といい、朱子が陰陽の運動の元となるものが道だと言ったのは誤りである。陰陽の流行が道であり、流行を離れては陰陽の対立は存在しない。箱を作ると自然に一元気が入っている。この一元気の活動態が陰陽で、その結果として黴[もの]が発生し、この発生の法則性を理という。 『童子問』では、「人のほかに道なく、道のほかに人なし」=道とは高邁な哲学ではなく、普通の人の日常生活に流れている道理であって、その道理が無くては私達は人として生きて行けない。真理は高いところにあると思うのは妄想かまたは高いところにあると庶民に信じさせることで生活している学者等の詭弁である。「中庸の徳たるや、それ至れるかな」[論語]=「天下を治め、名誉や金銭の誘惑を絶ち、命がけの仕事をすることは、私にも出来ないことではないが、中庸の徳を身につけることは難しい」。「王道の根本は倹約である」=自分の食事や衣装や家具に見栄を張らずに、人のためにお金を使うことが王の道である。「礼は節倹に生ず、楽は有余になる」=ひたすら倹約してその余裕で文化的修練を楽しむ生活を送る中に礼が生まれる。贅沢な建物は零細農民からの租税が集められたものであり、人々は皿の中の食べ物の一粒一粒が農民の苦労の結晶だと常に認識していたら、やたらに土木工事等を始めない。
≪敬遠≫
≪学≫論語の冒頭に「学びて時に之を習ふ。また説(ヨロコ)ばしからずや」とあり、人間が生きるということは、日々、他から正しいと思われることを学び、時を置いてそれを学び直すことの継続であることを示しています。この「学」は、知識の優劣を競うような野卑なものではあるません。そこで、伊藤仁斎が「学」についてどう考えていたかを探ってみます。「学は効法して覚悟するなり」といい、「学」には二面があって、効法=手本を習うことと、覚ることとである。手本とは孔子の教えた道徳であり、仁義礼智は道徳の概念・本体である。その中で、仁とは慈愛の心で人を許容すること、義とは判断が明確で乱れないこと、礼とは尊卑貴賤の秩序が整っている振舞いのこと、智とは是非善悪の判断が適切であることである。この仁義礼智は孔子の決めたものだから、生まれながらの心性とは別である。仁義礼智と各人の心性との距離を埋めるものが、日々の学問である。また、四端の心を育て拡充することが性を尽くすことで学問である。人間の性は天の命ずるところで善であり、性を知れば天を知ることになるという。
3代外祖石崎長久系図は、古義堂で儒学を学び、京都二条城の所司代に勤め、弓術で日本総一の者と呼ばれた時代がありました。三十三間堂通し矢での優勝を記念して三十三間堂には大きな碑、龍安寺には墓があります。皇女和宮降嫁の際には一行の先導を務め、身長は高くなかったようですが体格は筋骨隆々として肩甲骨の間にハガキを挟んでも落ちなかったと聞いています。源平合戦の「扇の的」で有名な那須与一に匹敵すると言われていますが、坂東武士の那須家と平山家は連携して新興の源頼朝勢力と対抗していて、那須には平山家の拠点が下総には那須家の拠点がありました。石崎長久は反求堂先生と呼ばれていましたが、この『反求』は次に示す記述で分かる通り、仁斎思想の根底となる言葉です。童子問中巻56章に学問は何かの目的に向かって始めるものではなく、学んでいる方向が道に逸れていないかを常に反求[反省]しつつ進めるのが学問の本来の道である。また『中庸』に仁者の態度は射術に似ている。弓を射る人は、自分の精神も姿勢も正しくして矢を放つのだが、もし矢が当たらなくても自分に勝った者を恨むことなく、当たらなかった自分に落度があったと反求[反省]するだけである。忠恕は自分のためにする気持で他人のために尽くし、反求は他人を責める心持で自分を責めることを意味するので、忠恕の心があれば自ずから反求の心が生まれ、反求の心があれば自ずから忠恕の心が生まれることになる。さて、儒教の根本教典である『論語』の冒頭が「子の曰わく、学んで時にこれを習う。またよろこばしからずや」=孔子は、道は多様だから先ずは他人の説くところをまねてその真意を覚り、その後で時々自分の覚った真意が道に適合しているか否かを繰り返し反省[反求]しつつ復習をすると会得したことが日増しに成熟して、生きる楽しみが湧いてくると言っています。『仁』という言葉の説明でも同じことが言えるのですが、仁斎によると、一つの悟りを育み、より穏やかな悟りに変化して行く過程を楽しむことが、人が生きるということだとしています。 この石崎反求堂長久の孫に母がいます。反求堂は仁斎と同様に人生の栄達を避けることによって初めて、生きるとは何かを理解可能になるとして、そのように生きています。母はこの世を去る数か月前深夜の病床で、私が学校に通って職業に就く[知力の籠に入る]かなければ、生活が出来ないほどに我が家を潰して仕舞ったことを詫びていました。確かに、当家の祖先は何十代も誰一人として職業には就いていません。例を上げれば限りがないのですが、頼朝や秀吉の誘いからも距離を取って避け、縄文以来の山林等の水の循環エネルギーを利用しての村落の創出[日奉精神]に力を注いで来ています。母の話では、全く知らない田舎に嫁ぐために、京都の数軒の呉服屋で衣装を整えた際に、その内の一軒である岡村呉服店の主人から何処に嫁ぐのかを問われ、千葉のこれこれという家ですと答えると、その家は日本国が潰れても潰れない家であると励まされました。しかし、田舎に来て5年も経たない内に太平洋戦争に突入して家の崩壊が始まり、20人ほどいた女中さんも1人もいなくなり、100枚以上の戸を開けなければ毎朝を迎えられない状況下で、近隣の人々から農業を学んでは僅かに残った土地を利用して生活を支えました。一生を通じて襲いかかった無数の困難の中で、母の心の支えたのは反求堂の孫であるという自覚と、この家に自分の命に代えてもよい何か尊い精神[是法住法位]が流れているという自信があったからだと言い残していました。島崎藤村の『夜明け前』に書かれているような現象を伴わなかったのは、仁斎すなわち孔子の思想の中に古モンゴロイドの精神が底流している結果であります。童子問中巻58章に「ただ己に反求する、これその要。孔子曰く『疏食を食らい、水を飲み、肱を曲げてこれを枕にす。楽しみまたその中にあり』ただ恨まず咎めざる者よくす。至れり」とあります。 鎌倉幕府が成立してからの朝廷は、経済的に窮乏していましたが、戦国時代になると窮乏のため即位が延びたり葬儀が出せない天皇もいた状態でした。坂東武士にはその清貧さを慕うものが多く、自分の子弟を慣例として京都に出して幼い時から朝廷はじめそれぞれの名家で修業をさせていました。当家29代満篤は、京都堀川通りに居を構えて宝鏡寺を通じて朝廷に出入りしていました。このために古義堂は近く、仁斎の子東涯と交友があったと聞いています。その頃、満篤(ミツアツ)という名のほかに満韶(ミツアキ)という名を使っています。韶の文字を使った韶光(ショウコウ)は春の美しい景色を表します。満篤の満は、当家26代光仲の時代に三代将軍徳川家光という名が誕生したために、問題の発生を避けて光の文字の使用を敬遠して満の字に改名した事情がありますから、満韶は光韶で韶光と言うことになり、春[東]の美しい景色となり、彼が世界の最東端に日奉精神の寺院としての「経王宝殿」を開基したことと関連しているようです。どうして韶の字にこだわったかというと、仁斎が「舜は韶[美と善]によって天下を保ったが、武王は征伐によって天下を得ただけなので長続きはしなかった」といい、長く安定した社会を維持するためには仁[道徳]や文化に頼らなければならないと主張しことによっています。仁を習得するには時間をかけた成熟が大切であり、少しでも差別感情を持ったりすると仁は成り立たないと言っています。 |