X.地球は太陽から適切な距離に位置するために、生命が誕生し維持されて膨大な量の宇宙の意思の表現[情報]が蓄積されています。殊に、ヒマラヤ山脈の東方のモンスーン地帯では食物を育む水の循環エネルギーが豊富で、この地域の人々は穏やかな時の経過を享受しています。この環境が、釈迦の瞑想による「空」の精神や環状集落に流れていた精神を生んだと考えられます。そして、この二つの精神の共鳴によって創発される価値が、人類を未来へと導くエネルギーであると、日蓮や日奉族は考えていたいうことになります。
Y.日蓮は、1250年頃に鎌倉で有名な辻説法を行っていました。この時期は、鎌倉幕府の創設に関わった日奉大明神7代平山季重の孫の代に当り、鎌倉の自邸で同じ房総半島の縄文精神に立つ日蓮と接触して意気投合したようです。鎌倉幕府は貴種の集合体であったために、日奉族とは表面上は別として、幕府の支配層とは相性が良くなかったと聞いています。特に関東の中心である日野に城を持っていたために、再三にわたり幕府から圧力を受け、日野の地を同じ貴種で名族である千葉氏に譲って、多摩の西北奥地と東総に勢力を移しました。この行為は旧石器・縄文人の特徴である敬遠の精神の現れと言うことが出来ます。この強固な千葉氏との結びつきの下で13代日擁入道季信は、武蔵あきる野市に日輪寺と下総多古町に浄妙寺という日蓮宗の寺を建立しています。残念ながら日輪寺は城塞的要素が強く、後代、上杉勢と後北条勢の争いの中で消滅してしまいました。
≪東総地区の日蓮宗の起点:
法性山浄妙寺≫
日蓮は房総の縄文精神を基盤として妙法蓮華経を解釈しました。彼の思想を取り戻そうという動き[不受不施義]が、池上11世日現(-1514)、京都妙覚寺18世日典(ニチデン,-1592)等により始まりました。日蓮宗の特長は、他の宗派とは異なり大陸思想を真似たヒエラルキー構造を採らず、池上も中山も小湊も身延も同等で、それぞれが不受不施義を研鑽していました。戦国時代も終わりに近づき、国家権力の再集約が進んで織田・豊臣等の政権による宗教統制が始まりました。このことは国家権力による宗教組織のヒエラルキー化を意味し、個々人の脳と諸法の共鳴と言う止観の根本が侵されることになりました。そこで、飯高城主平山刑部少輔吉時は1580年に不受不施義の奥義を極める飯高談所を開設し、その子平山常吉は1590年に飯高城を日蓮宗に譲与して、祖父が開基した蓮成寺に退きました。1596年に飯高城址に飯高檀林が開設されて、不受不施義の研鑽を深めました。研鑽が深まると共に、支配体制や他宗派や自宗の圧力によって、檀林内に分裂が起り不受不施義の純粋性を求める一派が1599年に中村平山家の西隣地に中村檀林を開設しました。この出来事は広い意味で見ると対立分裂ではなく、人間の存在にとって欠くことの出来ない両義的二極構造が檀林組織に取り入れられたことになります。その証拠に当家では双方の檀林に建設資材の供給等を平等に行っています。
Z.戦国末期には、小田原に伊勢の油売りのから成り上がったという後北条が勢力を増し、3代氏康は天文15年(1546)に奇策を用いて川越城を攻め落とし、関東での覇権を確立しました。このために、日奉族は、旧来の上杉勢力として下総国壺岡城と武蔵国青梅藤橋城を、新興の後北条勢力として下総国飯高城と武蔵国檜原城を形成して、この難局に対応していました。他家の支配下に入る場合は、「二つ引き両」の家紋は用いず、武門の象徴である「違い鷹羽」を使って、日奉精神から遠い立場にあることを自戒していました。武蔵国は高崎周辺の上杉と小田原の後北条の両勢力の接点で、檜原城主23代平山政重は北条氏康の川越城攻めに従軍してで戦死し、恩賞として長男は氏重という名と坂戸市・檜原村・あきる野市平井の知行を、次男綱景は入間郡の知行を認められましたが、ほとんどの領地は昔からの所有地を安堵されただけでした。この兄弟には鶴壽姫という妹がいました。
16世紀末の武蔵と北総では、西方からの論理性の高い支配体制[後北条と徳川]が波状的に押し寄せた時代であり、これらの勢力から如何にして距離を取ることが出来るかが、日奉精神を維持して行くためには重要な課題でありました。後北条と武田と上杉の三勢力に囲まれ、上杉を頼って後北条に対抗[青梅・多古]して捕虜になるグループや、後北条に従って武田に対抗するグループ[桧原・飯高]がいました。後北条と武田と上杉の三勢力はいずれも論理性の強い支配層で、弱小な在地旧勢力は一族内の分裂を装って自己の勢力維持に努めていました。24代平山光義は青梅藤橋城の叔父を助けて上杉側に属していましたが、日奉族を守るために檜原の鶴壽姫と結婚(1560)しました。その後、青梅藤橋城は氏康に落とされ(1563)て、光義は多古島城に帰っています。妻の鶴壽姫は後を追い、壺岡城で長男光高を生みました。東京都桧原村に『日奉大明神石筥上書誓文』があり、そこには「秀吉が24代光義を七千石で召そうとしたが、義を守って受けずに相州の山中に隠れた」とあります。縄文精神の基本を構成している
千葉県多古町の中心の南方の田んぼの中に森があって島と呼ばれています。千田庄と呼ばれた稲作地帯である上に、いざという時に近くを流れている栗山川を堰き止めると、水に囲まれた要害な城塞となるために、1450年頃千葉氏の本流はここに拠って滅亡しました。日奉族は1500年頃から三ノ島城に拠っていました。ここから日奉精神の発祥地である鏑木城に移りました。貴種に属する千葉氏と日奉族は関係が深く、千葉氏の支配が及んでくる前に日奉族が住んでいた地域では、武蔵国においてと同様に、両族は混然と居住していました。日奉族の関係した島や川島や鏑木や飯岡には塙台という地名があり、ハナワはアイヌ語で渚を意味し縄文との関係の深い地名であります。このことは続縄文以前[紀元前]のアイヌの出来事ですから、それ以後のアイヌとは区別して考える必要があります。 |