東総に宿る究極の精神 HP 作成中 1 2 3
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Ⅺ.京都妙覚寺19世日奥(ニチオウ,-1630)が、秀吉の方広寺千僧供養出席(1995)を拒否した出来事を機に、不受不施派が成立しました。家康は日奥を尊敬していたようで、死後にはなりますが、1623年に幕府は不受不施派の布教を許しています。その後、有名な身池対論(1630)が江戸城で行われました。判定者は孰れもヒエアラキー構造に属する幕府役人と他宗の高僧であったために結論は自明で、禁制宗門不受不施派(1665)となりました。この際、飯高檀林は体制維持の側に立って歴代の身延山貫主を排出していますし、中村檀林は幕府の厳しい監視下でも不受不施派の僧侶の支援を続けていました。これが縄文精神に連なる両義的二極構造に働きで、人間の右脳と左脳・DNAの二重螺旋構造からも分かる通り、宇宙の意思の表現者としての人類の究極の精神の現れです。このように政治権力により、他宗派と同様に身延山を中心としたヒエアラキー構造の日蓮宗が出現し、七面山による思想的補強は行われたものの、日本における仏教思想全体は退化し、葬式仏教と呼ばれるようになりました。
日整が「武運長久の祈」を光高へ(1577)
日樹
日進
日講
日充「日天子」
日奥―日講が32代満清へ
唐竹林山妙光寺[25代光高の墓所]
東栄山妙経寺[鏑木]
海上山妙福寺[銚子]
七面山妙光寺[長崎]
Ⅻ.29代平山図書満篤は、1715年に世界の東の果て銚子に、海上山妙福寺を開基しました。山号は縄文精神の下海上を表す「海上山」で中山56世日等の揮毫です。仏教思想の真髄を表す掲額「経王寶殿」は京都宝鏡寺の徳厳法親王の揮毫です。人類はアフリカで誕生し、中近東の各地で多くの文明を形成し、相互に争うことによって更に高度な文明を発達させて来ました。この文明の発達過程は、個々の人間の自然との調和の時間を圧殺してしまう不可避の欠陥を持っています。このため文明の集団から逃れて新しい生活の場を求める人々が現れます。これらの人々が希望の地を求める方向は、東西南北いずれの方向でも可能な訳ですが、太陽の昇る方向・大陸の形状・湿潤な東南アジア等に影響されて、東方への憧憬が生まれました。数万年以前から文明に穢されない2500年前までの日本列島は、人類の理想郷を形成していました。この日本精神の真髄を世界の最東端に現成したのが海上山妙福寺と言うことになります。創建時の秘録を読むと、当時支配体制が確立していた徳川幕府の論理性を避け、朝廷の論理性に活路を求めるという方法で、建設が進められています。この方法以外に、双方の国家支配の論理性を超克して、縄文精神すなわち人類究極の総合知を伏流させることは出来ませんでした。
京都宝鏡寺徳厳法親王筆
中山56世日等筆トレース紙
島地区の全体に不受不施派の人々が住み、部落の中央には徳川期を通じて本覚山妙光寺があり、明治39年に不動産を売却して長崎市に移転しました。転寺の事情は史料がないので明らかでありませんが、歴史の流れから推定すると、幕府の長い間の弾圧で穏健な考えに変わっていた寺側と、長い間の禁制が解けて信仰が許された信徒側の情熱との摩擦が原因であったのでしょう。本覚山妙光寺は一般には受派と見られていましたが、現実はそう単純ではなかったと思われます。長崎に移った寺を訪ねたことがあります。シーボルトで有名な鳴滝塾前の道を登り、急な階段のき参道を西海を渡って吹き寄せる風に頬を輝かせ片手に花を持って参拝する老婆達に励まされながら登ると七面山妙光寺がありました。山門の左正面の金剛山の裏側には浦上天子堂があって原子爆弾の爆心地です。幸いに金剛山に遮られて被害は少なかったと聞きました。