| |
伊藤仁斎と日奉精神 2n HP 日奉大明神38代平山高書 作製中
伊藤仁斎は母方の8代前の祖先ですが、父が、本居国学を好み、例えば特攻隊員が最期の挨拶に来た折には、志貴皇子の「石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」を用いて、生きるとは何かを説き聞かせていたように、儒教の論理性や孔子の猟官性を嫌っていたために、若い頃は、論語・孟子を遠ざけていました。しかし、論理性を避ける論理性に陥らないように、仁斎を学ぶことにしました。
2013年を迎えて世界は大きな転換期に入ったようであります。それは巷間で騒がれている日本を始め世界の指導者の交代したというような小さな問題ではなく、中国南部で起っている言論の自由要求運動にあります。その一例として、広東省の週刊誌「南方週末」が掲載しようとした「中国の夢・憲政の夢」を、中央政府の圧力で習近平主席の論文に差し替えられたことに対する記者達の抗議が中国各地に飛び火した事件であります。今回は体制側の譲歩で一応事態は収拾していますが、何といっても事件の発生した所が改革開放の始まった土地であり、中国共産党の発祥の地:瑞金にも近く、歴史的に見て革新的思想の起こる地帯での出来事だからです。エジプトで起ったアラブの春が中国に伝来したように思えてなりません。中国当局も当面は尖閣問題等を緊張させて民衆の目を他に向けさせる旧来の政策を実施するでしょうが、携帯電話の発達した情報化社会ではその効果は長続きはせず、体制側が積極的に民主化を進めない限り混乱の繰り返しが続いた後に、結局は民衆側が権力を握るという悲しい迂回路を辿ることになります。では、日本国は無難化というとそうは行きません。明治維新以来の西欧模倣の過渡期文明が大きな転換期に入っています。関東に位置した江戸封建体制が、長期支配による制度疲労と冷害等の自然災害と産業革命後の西欧圧力で疲弊した時期に、関西の中小勢力が欧米文明の論理性と天皇の権威を利用して関東の富を収奪し、西欧型の文明を構築したのが現代日本社会の姿です。私達が文明と呼んでいるものは、約5千年前に中東・エジプト・インドで人類が獲得したものですが、その地域の現況を見れば分かる通り、人間と自然を荒廃させるという原罪を伴ったものです。それ以後に文明の栄えたイタリア・スペイン等の現状にもその現象は表れており、現代日本文明も凋落の道を歩み出していること確かなことです。しかし、幸いなことに日本国はモンスーン地帯に位置していて、日本人の心には八百万神の精神や老子のタオや孔子の仁や釈迦の空の精神が伏流水として流れているために、時間をかけて西欧文明を変性させる能力が存在することです。
クロマニヨンの総合知は10万年もの時間をかけてヨーロッパから東伝し、長江以南の中国大陸南部で古モンゴロイドとして活躍しました。この地域のモンスーン気候の中でその総合知が水エネルギーの循環に揉まれて[上善若水]、老子の「タオ」や釈迦の「空」を生みました。この総合知が更に東伝したのが日本列島の縄文人の精神で、それが関東平野で具象されたものが環状集落であり、東北地方の環状列石であります。後代になりますが、中国で有名な「客家」も中原の抗争を避けて長江流域の逃避して来た人々が、この地の精神を吸収して円形の家屋を作ったのではないかと思っています。このように見ますと、環状集落の精神から発達したと考えられる八百万神的信仰は、クロマニヨン以来の人類の基本的精神ということになります。この循環型総合知の特質は、時間による心の涵養で過去および未来への信頼を基本としています。現代は、文明を創出し人類の発展に貢献して来た一神教的論理性[分析知]が、原子力エネルギー・環境破壊・情報化社会等の問題で複雑化して、人類社会を閉塞状態に追い込んでいます。具体的には資本主義・共産主義という現代社会の2大潮流が消滅に向かいつつあります。このような状況下で、日本人は本来の循環型総合知を取り戻すことが重要となります。
東京近郊の成田に新しい空港が建設された際に、航空機の空間における三次元運動から地上の2次元運動への安全な移行という問題を取り扱ったことがあります。多種多様な航空機が世界の各地から飛来し、地上に設置された支援機器からの指示に従って、空中に定められた斜めのコースを滑走路に向かって高度を下げて来ます。その時の航空機の偏移分布をある確率分布で示したものをフライトエンベロープといいます。そのエンベロープ内の航空機の運動の安全を研究している時に、そのエンベロープ内に高密度に集約される人間の脳について考えていました。人類の歴史において、これほどまでに脳の集約と分散を繰り返す文明はありませんでした。近代文明は素粒子である電子の働きを利用した科学によって発展を続けていますが、今後の社会は人間の脳の集約と分散に着目した社会へと転換して行くようです。
太平洋戦争の敗北が確実となって本土総玉砕が叫ばれている中で、父は日奉精神の真髄を幼児の私の脳裏に残すために、野山を連れ歩きながら万葉・古今・新古今や夏目漱石等々の表現の解説を繰り返していました。その中で一番難解であったのが、ベルクソンの「純粋持続」の解説で、日常に経験する時間は生活上の便利さにために空間化されたもので、本当の時間は各人が生まれながらに積み重ねているもので、ここから心が生まれ、神が顕現されるということでした。よって、世間で流行している日本の太陽信仰についての学説は論理的ではあるが表面的で、太陽エネルギーの散逸系の中の人間の意識を捉えたものではないと言いました。今の私でも理解出来ない思想ですから、幼児の私が100l理解していないことを承知の上で、燃料不足で綺麗に掃き清められた林の中を歩きながら熱心に話しかけていました。後に分かったことですが、総合知における学びでは、学校等で教える学問とは異なって理解し記憶することは重要ではなく、「人間が生きるとは何か」を真摯に語る人とそれを聞き流す人の存在する時空間の継続の記憶が大切なのです。ベルクソンの[純粋持続」も釈迦の「空」も老子の「道」もそして日奉精神も、その時の持続の記憶以外の何物でもないのです。西田幾太多郎の「純粋経験」もここを説いているのでしょう。この問題は限がなく深いので、これから勉強するとして、今回は母方8代祖の伊藤仁斎(1627〜1705)系図の「仁」について少し考えようと思います。実は、父が福沢諭吉の「腐儒」思想の影響を受けて、儒学は論理的過ぎて公務員や学者が習得する学問としては良いものだが、日奉族の学問ではないと嫌っていましたので、私はこれまで四書五経を学んだことがありません。このため、伯母や母も時々遠慮がちに古義堂や猶斎先生の話をするぐらいでしたが、父の死後4半世紀も過ぎましたので、少し伊藤仁斎を勉強しようと思いました。少し勉強してみると、仁斎の思想は儒教というよりは老子の思想も取り入れていて、日奉精神そのものではないかと思うようになっています。福沢の思想の根底にも仁斎の思想が流れていて、分析知によって成り立っている学者の説というものは離れた距離から眺めるのが良いと思っています。
仁斎の枕屏風「唐児戯画」6曲の内
仁斎が赤貧であったことは有名で、家計に苦しんだ時に着ていた羽織を妻に与えたというフィクションがありますが、「伊藤仁斎先生羽織切れ」と上書きされたボロボロの紙に包まれたものを母より受け継いでいます。
仁斎の思想を考える前に、あらためて日奉精神の系譜を辿ってみることにします。下に掲げた日奉精神継承図[2極性に注目して下さい]というようなものを作りました。日奉宗頼以降は一応当家の系図によっていますが、それ以前は想像で作成しました。正確にするためには、この分野の学者に任せた方が良いと思っています。しかし、この継承図は、東日本大震災以後の日本人が維持しなければならない思想の解明に必須のものとなると思い作成しました。日奉精神の起源は、当家のある現在の鏑木の地に住んでいた人々の精神です。その精神は八百万神的精神で縄文環状集落の形象に象徴されています。その源流は中国大陸南部の古モンゴロイドの精神で、更にその源流はアルタミラ壁の等に代表される初期ホモサピエンスの精神で、その精神は約20万年の時間をかけて人々の心の中で培養され、その一部は後代に北からの論理性の影響の下に老子思想として纏められています。一方、国司を任官して武蔵国に着任した日奉宗頼は藤原氏の出身である可能性が高く、新モンゴロイドの系統に属しています。この新モンゴロイドは、中国大陸を北上した古モンゴロイドが今のモンゴル付近で、西方で5000年ほど前に誕生し伝来したセム・アーリア系の論理性を吸収して勢力を拡大して、反転して南下して中原に帝国を作り続けた人々で、代表的思想が儒教といえます。このことについて、仁斎は『中庸発揮』の中で、「孔子は、中国南部精神の強さと北部精神の強さと儒教を学ぶ者としての子貢の強さとがある。穏やかな態度で他人を導き、無道なことをされても報復などしないのが、気候が温和で思いやりのある南部の人々の精神の強さだ。この精神を学問で補強すると儒教の教える徳の高い人の強さになる。武器や鎧を頼りにして命を懸けて自己を主張するのが、気候の厳しい勇敢な北部の人々の強さだ」と言っています。
このように、日奉精神には古モンゴロイド精神と新モンゴロイド精神が混在した条件下で、古モンゴロイド精神を希求していることになります。大陸から新モンゴロイドの精神を持って渡来した古代日本の支配層は、東日本に残留していた古モンゴロイドの精神にあこがれて、その吸収に努めましたが壬申の乱以降の国家的要請で、藤原不比等を始めとする官僚機構によって日本神道が創出されました。しかし、それは日本列島を統治するには優れたものでしたが、「人間が生きるとは何か」に触れている八百万神の精神からは遠いものでした。この状態では天皇霊の本質を満足することは出来ずに、今日に至っています。天皇霊や日奉精神は、現代科学[相対性理論や量子力学]やベルクソン哲学が追及している空間の場の創発力を希求する意思であり、5000年来の文明と呼ばれて来たものが追及して来た論理性の基盤…財力[経済」・兵力[軍事]・知力[学問]の3つのパワーから距離を置く精神です。伊藤仁斎やベルクソンの思想は、論理性からの距離の取り方を示しているように思われ、東日本大震災後の、そして資本主義崩壊後の日本、否、全人類の思想の基盤となるものと考え、話を進めて行きます。
儒教に関わる中国史を大雑把に見ますと、黄河を挟んで南部[総合性]と北部[論理性]との社会構造の違いが、時代と共に次々と新しい価値を創造して来ました。南部は古モンゴロイドの地で稲作が行われ、北部は新モンゴロイドの地で狩猟採取とヒエ・アワ耕作が行われていました。黄河は今の西安・洛陽の位置する地帯を扇子の要として、その下流域で南北に大きく川筋が移動する巨大な氾濫を繰り返していました。このため、洪水の影響を受けない扇の要の地帯で南北の社会構造の違いによる価値の創造[創発]が始まりました。先ずは、南部を主体とした物品交易による価値の創造を基盤とした夏[価]王朝が起こり、続いて北部の狩猟で培われた移動範囲の広い物品交易を行う殷[商]王朝が夏王朝を倒して台頭しました。この殷時代から自然神[上帝]を祀る祭事が重要性を増して祭政一致[論理性]の王朝が誕生しました。そこへ、新モンゴロイドの発祥の地エニセイ川上流域に近い西北中国から、知力による統治に秀でた周王朝が現れて、経済力によった殷王朝を倒して、人格神[天]の命による文治政治[論理性]を始めました。王は人倫を尊重することによって天命を拝受出来るという王道が生まれ、君主の人間としての権威[天子]と権力[皇帝]が確立しました。しかし、周王朝の封建制度が行き詰まって、春秋時代(BC770-403)を迎えると人命を掛けた争いが続きました。この時代に南部の楚国に生まれたという老子が「道」[論理性を取り入れた総合性]を主体とした教えを広め、続いて曲阜という稲作とヒエ・アワ耕作の境界領域で生まれた孔子(BC551‐479)が周の文治主義の復活を理想とし「仁」[総合性を取り入れた論理性]を最高の徳目とする儒教を起こしました。この儒教は、孟子・荀子と受け継がれて論理的発展を遂げましたが、秦時代には焚書坑儒に会い、続く漢時代には劉邦がもったいぶった儒者を嫌ったために、儒教は政権の思想となることが出来ませんでした。漢代の政治理念は黄老思想[黄帝と老子=法の権威を道に求める・他者とは争わない]でありました。儒教による中華帝国の骨格は王莽[井田法]によって整備されて、後漢の3代章帝の時に白虎観会議[建初4年(AD79)]が開かれて儒教国家が誕生しました。このように孔子の「仁」は新モンゴロイドの論理性を内包しているために、国家機構が論理化するに従って統治者に採用され、老子の「道」は論理性が低いために時代が下るに従って政治理念として採用されなくなりました。
儒教が道学[世代を越えて継承された人倫の道]として隆盛した宋代に、朱子(1130‐1200)は天理[宇宙の法則]の一部である人間の心に「仁・義・礼・知」という本然の性が内在されているために、人間は本質的に道徳的存在であると言い、人間が心を涵養するには、無意味な主観的循環に陥らないように現実の世界と交渉を保ちながら、「理」を窮めることが大切だとして「朱子学」を完成しました。このことは、「会昌の廃仏」(唐武宗:840-846の仏教弾圧)の影響が当時の中国官僚には残っている環境の中で官僚であった朱子は、出家して内観する「見性成仏」が大切だとする仏教との違いを強調した要素もあります。しかし、伊藤仁斎は、王陽明等の影響もあるのでしょうが、朱子の説く「格物窮理[物事に触れて理を窮める]」では、結局は「天理」を追及することになって人間の心を殺してしまい、老荘の虚無や禅の「見性」と同等だと批判しました。仁斎の人間活物観では、日常の関わり合いにおいて活物として暮らしている人間は、生まれながらにして儒教を身に着けているという「人倫日用」[古学・古義学]を説いています。私達が日々の生活で人々と巡り合いながら、善くありたい善くしてあげたいと思い続ける人間としての道[人倫]が儒教の道ということになります。彼は「卑しきときすなわち自ずから実なり、高きときすなわち必ず虚なり」=卑俗に見えるものの中にこそ生存のあるべき姿があるのであって高尚に見えるものには空虚性が潜んでいると、また「人のほかに道なし、道のほかに人なし」=人間の活物性の顕現されたものが道でその道を離れては人間は存在出来ないと、また、人情は巡り合う人々に共通する感情で、知性によって柔らかく包むことによって最高の徳「仁」に到達すべきだとも説いています。
仁斎はほとんど独学で朱子学を学び、最初は朱子学に関する論文を書いていました。その後、朱子学の「仁は愛の理」に疑問を抱いて、「仁の徳たる、一言にしてこれを蔽う、曰く愛のみ」といい、「仁」は宇宙が人間に付与した最高の徳であるという考えに到達しました。その後、古義堂にて多くの人々と平等に学び合って麗澤[易経:二つの沢が潤し合う]の益を追求しました。江戸時代に限らず西欧の価値観が支配する現代においても当てはまることですが、学問を成績主義や出世の道具に用いると、悪い心を持つ人や弁論の立つ人が優秀だと誤解されて幅を利かす社会に陥ると警告しています。朱子学では理気二元論といって、宇宙における設計図のような働きをする「理」とその材料となる「気」で事物は成り立っているとしています。これに対して、仁斎は「空言を以て空理を説く」と批判して「理」の存在を否定し、心の通わない「理」が社会を動かすと残忍刻薄な心が横行するようになるので、生き生きとした活物である心が自由に活動出来る社会にはならないと批判しました。彼は、一元気説によって「気」は太古の昔から全宇宙に存在し、「理」や「太極」や「性」でコントロールされるものではないと主張しました。そして、[気」が活動することで二つの性質[両]が現れ、その二つの作用によって新しい価値が生まれると言います。『仁斎日札』には「物は両ありてしかして後に化す。両なくんばすなわちもって化すことなし。これ天地自然の理、万物の生ずるに至るまで皆しからざるなし。これより外に更に道理なし」と記されています。これは物凄い原理ですが、これを支える周辺の思考を探ってから考えをまとめます。湯川秀樹の場理論・天皇霊・日奉精神[武蔵ー海上]・縄文環状集落・ブラックマターの存在に通じるものと思っています。人間が生まれた時から持っている「性」は、遠い昔からの祖先達の日々の生活の中で集積して来た「道」を習得する「学」によってのみ磨かれて「仁」に到達することが出来るといいます。この世で一番大切なことは生きるということ[日奉族の寺社創設の理由]で、それを実現させることを仁政と言います。しかし、周の時代以後にはいつの間にか戦いを好む王達が現れたために、短命な王朝が繰り返し現れるようになりました。人を傷つけるような行為を避けて、礼を尽くし睦むように交友し、例え相手が自分の努力を認めてくれなくとも、平静を保ち続けることが大切であるといいます。[老子を入れる]宇宙は理性などで捉えきれるものではなく、私達にとって大切な「道」は日常の卑近な出来事の中に存在するもので、迷いを持つ人やキツネのように他人を騙しても平気な人が言うような輝かしく高遠なものではありません。