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日奉精神史 フロント
人類最古のそして人類究極の精神を求めて
日奉精神は、アフリカで誕生してから数百万年にわたって、人類が抱き続けている太陽信仰[総合知=ハビタブルゾーンにおける最適生存、水の三変態エネルギー、母系]の精神で、数百万年という悠久の生活の中で成長して東進しスンダランドで育まれて、3.8万年前頃から海上島[千葉県]に色濃く残留することとなった。しかし、5.5千年前頃から、中央アジアで北に追いやられていた人々が、車輪の利用と騎馬技術を習得して、略奪と交易によって富を増し、聖職・貴族という差別を社会に持ち込んだ。彼等は言語・父系・虚構・宗教・皇帝・国家等を生み、この分析知社会が現代まで続く世界文明の基礎を構成することになった。この文明と呼ばれるものの行き着く先は核兵器・環境等の問題であって、ついには人類のサステナビリテー[生き続ける可能性]が問われることとなっている。人類生存の本来のあり方である総合知を少しずつ取り戻して行かないと、5千年来人類が作り出した虚構の中で華々しい生涯を送ることは出来るが、宇宙の生命体としての真の人生を経験すること[悟り]は不可能になる。明治以後の思想[漱石〜三島]に大きな影響を与えたニーチェは、キリスト教にルサンチマン[怨恨]を見出して「神は死んだ」とした。素晴らしい着想であるが、分析知の発展過程を見れば分かるように、ニーチェの属する文明そのものがルサンチマンで構成されており、人類は消滅に向かわねばならないことになる。人類がサステナビリテーを獲得するためには、オオ氏の中臣鎌子が海上島から習得した総合知を中臣鎌足が受け継ついで、分析知の書「六韜」を熟読したように、総合知と分析知の中庸を取らねばならない。
●➡洞窟壁画・グラヴェット文化・ペトログラフ。ヤマモモと日本文化
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44000年前:スンダランド[インドネシア・スラウェシ島]…洞窟壁画[狩猟]…総合知
38000〜14000年前:旧石器時代の環状ブロック…墨古沢南T[千葉県酒々井町]等…総合知
8000〜6000年前:環状集落が関東・中部地方[ブラジルのボロロ族は今でも環状集落・高度な精神性、6000年前の南ロシアスヴォボドノェ環状集落]
8000年前:田戸下層式縄文土器が、日奉精神発祥の地:鏑木の当家庭より出土…総合知
ヤマモモの20m先方から出土
3000年前:弥生文明…セム・アーリア系分析知の渡来始まる
AD57年:漢委奴国王の金印、出雲族が海上国から武蔵国へ、部族連合
AD430年頃:下海上国[下総・出雲系]は大和[応神]王朝に降る
AD534年:南武蔵の小杵[本来の国造・オオ氏。海上国と友好]は上毛野国の小熊の力[オオ氏連合長]
を借りて、武蔵国造笠原直使主[天下り国造]
を殺害しようとした。使主は大和朝廷と結び小杵を破った[武蔵国造の乱]
。武蔵国は大和に併合
AD575年:敏達大王は百済大井宮から訳語田[他田]宮へ、理由は「不信仏法・欲破仏法」…過度の分析知を敬遠
AD577年:日祀[日奉]部・下海上国造[旭市《鏑木古墳群の地》より奈良へ]が敏達大王[他田宮]の日祭を幇助 アマテル精神[アマテラスの源流]
◎日祀[日奉]部の創設によって、中臣氏の権威が確立。蘇我氏により中臣氏主流は滅ぼされたが、支流の鎌足が「六韜」等の分析知を取り入れて、子の不比等と共に列島の支配哲学[アンビバレントな二極構造]を確立した…セム・アーリア系分析知と縄文精神の総合知との中庸→中大兄・中臣
AD585年
: 敏達大王が『排佛の詔』
鏑木ー多古の二極構造が大正期頃まで保たれる
★日奉精神の変質[道教の影響を受けた藤原氏の僻地統治策において、日奉精神の僻地親和力が利用された]
AD670年頃:下海上国他田日奉得太理の防人歌「暁のかはたそ時に島陰を漕ぎ去し船のたづき知らずも」
AD672年
: 壬申の乱ー伊勢神宮・天皇制・藤原氏の支配体制の確立
AD700年頃:伊勢神宮を中心とした古神道の確立[古事記・日本書記] アマテラスの誕生
AD716年:出雲大社の創建 藤原一族の関東搾取[受領国司・任用国司等の乱発]と蝦夷地併合・天皇の形骸化
AD729〜748年:他田日奉部直神護は中宮舎人を勤めた
AD748年:海上郡大領・少領に祖父忍の代より。従八位下海上国造他田日奉部直神護[他田日奉部神護解]
AD811年:匝瑳郡の創設 蝦夷地の支配
AD885年:
下総国海上郡大領外正六位上海上国造他田日奉春岳、借外従五位下。以代百姓済調庸
AD898年:高望王が上総の介になり、平氏千葉氏の祖
AD904年:他田日奉連[続日本紀、下総・海上]
AD912年
:
日祭神社[陸奥・行方]
★日奉精神の再興[律令制度の行き詰りで、南関東の日奉精神発祥の地で]
AD932年:武蔵国司に藤原日奉宗頼。西党、日奉城、「日野宰相」、日野宮神社、『日奉大明神始祖
日奉大明神始祖を祀る
AD935〜940年:平将門・平忠常の乱等…分析知が南関東総合知のエネルギーを集約
AD1100年頃:日奉大明神6代八郎直季[日奉大明神5代、平山始祖]、平山城、高幡不動
日奉の峰
AD1185年頃:日奉大明神7代武者所季重、鎌倉幕府創設、大悲願寺、日奉の峰神社
AD1231年:日奉実直弘持が武蔵国留守所惣検校職に[吾妻鑑]
★日奉精神の論理化
AD1250年頃
: 日蓮は日奉精神を基礎に法華思想を解釈⇒新神道。日奉族は真言宗⇒日蓮宗
AD1271年:群馬県邑楽(オウラ)郡永楽村の光恩寺地蔵立像板碑に日奉友安の名。
※年次不明 埼玉県秩父郡『白崖和尚語録』に「日奉部直俊が寺尾に円福寺」
AD1350年頃:日奉13代季信、日擁[日奉]入道[中山3世日祐の弟子]、壷岡城・浄妙寺[下総国]と日輪寺[武蔵国]
AD1480年頃:日奉17代正泰、三河入道。桧原城、南一揆、檜原日奉神社
AD1550年頃:日奉24代光義、藤橋城[青梅市]、妙経寺[中山10世日俒のご本尊<光義>]
AD1577年頃:日奉25代光高、島城・中村・飯高談林、唐竹妙光寺
AD1582年:累代神霊[日奉大明神]の板碑
日奉大明神21−24代
AD1590年:東京都桧原村「日奉大明神石箱上書誓文」・・・青梅城主日奉24代光義は相州の山に入り仙人になったとして、豊臣秀吉からの招聘を断る
〃 :檜原城主日奉24代氏重…秀吉の小田原城攻めの時、支軍前田利家に攻められ落城し自害
AD1596:飯高檀林[25代平山常吉]ー1599:中村檀林[25代日円]の二極構造…1669年:幕府・日蓮宗不受不施派の禁制へ➡身延山ー七面山の二極構造
AD1624年:「日天子起請文」、日奉25代日充、江戸城身池対論
★日奉精神の変質…
椿新田の干拓事業も、江戸の街の開発事業で潤った人々を活用して、幕府[分析知]・在地勢力[総合知]はともに事業から微妙な距離を取っていた。
AD1710年頃
:日奉29代久甫、世界の東の果てに銚子海上山妙福寺創建[山号の<海上>は海上島すなわち日奉精神]、京都宝鏡寺徳巌法親王筆「経王宝殿」、万力稲荷社・七面社建立[集落の創設➡古城村]、身延36世日潮、中村談林の復興
AD1762年:伊能忠敬[土浦の別邸で育て、日奉大明神への誓文を提出させ、平山三治郎忠敬として佐原へ]
AD1800年頃:日蓮思想に加えて、本居国学[もののあわれを知る]を家学として採用。
AD1870年頃:日奉35代季義 郵便・警察等の制度
AD1900年頃:日奉36代皐次郎 教育・鉄道・銀行等の制度、村々へ学校・教育器具の寄贈
AD1910年:柳田國男「石神問答」の山中笑への書簡の注、「天皇は日神だが、直接太陽を祀ったことはない。武蔵の日奉氏は国津神の末裔であろう」…総合知における太陽を奉るとは、水の三態間の太陽エネルギーの変動への敬意と感動[約70lが水である人体相互や自然とのレゾナンスによる創発を含む]である。関東地方には大陸からの分析知が漏れ伝わるようになる2-3000年前から、現代人が太陽信仰と思っている冬至祭等が行われるようになったが、それら各種の祭典は他者との関係で成立しており、分析知的である。宇宙の存在としての個々人が太陽を奉る純粋性はなく、生体の本質ではない。
AD1930年頃:日奉37代忠義 農村医療制度[昭和5年:農村無料医療制度の実現に着手→昭和12年:厚生省が誕生して国民健康保険と呼ばれる。徴兵検査との関係で少し純粋性がなくなるが、制度への理解は進む→昭和18年:日本最初の国民健康保険組合農村診療所が完成→昭和23年診療所の建物が新築される。一般診察日には、診療所前の総掘り[水路]の土手に持参のゴザを敷いて診察を待つ人が長い列を作っていた。列の最後尾から順々に声をかけて行く父に付き添ったことがあったが、遠く椎名内の浜から来た人や牛車で来た人がいた。診察を受けられたことの喜びを、NHKラジオの朝6:45-7:00の「私達の言葉?」で全国放送されたり新聞に掲載されて、この地域の健康保険制度への理解が深まって行った。…昭和27年:旭中央病院開業[はじめ二・三度厚生省に紹介しただけで、開設には直接係わっていない]…昭和28年:長年の功績に対して厚生大臣表彰、昭和36年国民皆保険制度]・香取海軍第一航空基地
AD1972年:日奉38代平山33世高書 「日奉創発の会」[時空の両義性]
非標準形進入灯[南側着陸]
CAT2標準進入灯[北側着陸]
釣り合い滑走路長4000m